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プロローグその一 夜明け前――HEART of DESIRE

色男と寝取られ男、そして好々爺

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 煌めいた銀色の閃きを転がるようにして避け、モブから距離を取るジャスミン。周りを取り囲むならず者達も、大慌てで手持ちのナイフや棍棒を構えた。
 弛緩していた周囲の空気が、再び緊迫する。

「てめえは生かして帰さねえぞ。選べ! なますか簀巻きか丸焼きか!」

 “女房を辱められた”モブは、復讐の炎を爛々と瞳に滾らせ、じりじりとジャスミンに迫る。
 その後ろに立つ女は、素知らぬ顔だ。

(やれやれ……)

 その態度を目の当たりにしたジャスミンの口の端が僅かに上がった。
 女に対する失望、ましてや怒りなどは沸いてこない。
 というか、女の本心に期待自体していなかった。
 「期待しなければ失望もしない」が、彼の思考原理だ。その位ドライでないと、色事師などはやってられない。情に流され、人生を、もしくは命を台無しにしてしまうだろう。
 今の彼は、女に裏切られた事を嘆くより、逃走の足手まとい以外の何者でもない障害が消えた事に安堵すらしていた。

(さて……)

 ジャスミンは小さく息を吐くと、周囲に目を配る。
 彼の周囲は屈強で悪辣な面構えの男たちによって、完全に囲まれている。更に、その包囲は徐々に、そして確実に狭まりつつあった。
 包囲の隙があるとすれば、右後方の二人の間の僅かなスペースか、

(意表を衝いて、真正面から突破かな……?)

 正面で怒気を漲らせ、今にも飛び掛らんとしているモブの、背中を丸めた姿を見据える。
 モブの先程の突進から考えても、恐らく次の攻撃を紙一重で避ける事は可能だろう。……容易ではないだろうが。
 まず、右方向へフェイントをかけ、その後転回。その動きに釣られる形で突っ込んでくるモブを躱し、そのまま逃走――。
 ジャスミンは頭の中で、そのプランを素早くシミュレートする。

(何とかいけるかな……むう、結構博打だなぁ)

 やれやれ、と嘆息の一つも吐きたいところだが、そんな悠長な状況でもない。
 ジャスミンは息を整え、タイミングを計る。周りには分からないように、僅かに身体の重心を移動する。
 そんな彼の眼前で、モブは、鈍く光るナイフを振り上げ、雄牛のように叫んだ。

「野郎ども! 殺っちまえ! この野郎のにやけた面をズタズタに切り刻――」
「おはようございますぅ」
「おおおおお!?」

 突然後ろから掛けられた、今の一触即発の緊迫した状況にあまりにもそぐわない、長閑極まりない朝の挨拶に、今まさに飛びかかろうとしていた男たちは一斉にずっこけた。
 ジャスミンも完全に意表を衝かれた。おかげで、男たちの注意が彼から逸れた絶好の機会だったにもかかわらず、微動だに出来なかった。
 彼にできたのは、ただただ声が投げかけられた方向に視線を移すことだけ。
 ――そこには、顎に白髭を蓄えた小柄な老人の姿があった。膝が擦り切れた野良着姿。右手には年季の入った竹箒を携えている。
 頭には大きな庇の麦藁帽子を目深に被っていた。その下の目は針のように細く、ほとんど瞑っている様に見えた。
 ニコニコと満面の笑みを浮かべるその顔は、皺まみれで、さしずめ猿か、生まれたての赤ん坊の様だ。
 老人は、呆気にとられた男たちの前で、竹箒で道を掃きながら、口を開いた。

「気持ちの良い朝ですねぇ。皆様、早起きですなぁ。これから朝体操に向かわれるのですか?」
「んなわきゃねえだろ、ジジイ! 引っ込んでろ!」

 モブがこめかみに太い青筋を立て、ナイフを振り回して凄む。

「俺らはこれからこのクソ野郎を切り刻んでやるんだよ! 怪我したくなかったら、向こうの道でも掃除してろ!」

 しかし、ドスを効かせたモブの恫喝も、老人にはそよ風ほどにも感じられなかったらしい。老人は、相変わらずニコニコニコニコと満面の笑みを浮かべ続けている。

「いやいやいやいや、喧嘩はいけませんなぁ」ニコニコニコニコ。
「ジジィ、舐めてん……」
「こんな所で刃傷沙汰は、後始末が面倒ですからなぁ。血糊と脂で公共の道が汚れてしまいます」ニコニコニコニコ。
「……は?」
「おまけに、指だの耳だの肉片だのを撒き散らかされては、拾い集めるのも大変です。ここら辺は野犬の数も多いし……。あ、でも、野犬に細かいのを食べてもらえれば、手間が省けますなあ。野犬も思わぬご馳走にありつけて、さぞや嬉しがる事でしょう」ニコニコニコニコ。
「…………」

 一見、虫も殺さないような好々爺の口から放たれる血腥い言葉に、一同、絶句。
 老人は、しばらく黙考していたが、やがて顔を上げると、相変わらずの満面の笑みで言った。

「でも、なるべく余計な葬式しごとを増やしたくない所なので、殺人は控えていただきますかのお?」
「……ふ、ふざけんな、このジジイィ!」

 男の一人が棍棒を振り上げ、老人に殴りかかる。

「こっちは遊びでやってるんじゃねえんだよ。とっとと消えやが……」

 男の言葉は途中で途切れた。老人に攫みかかろうとした瞬間、男の体が車輪のように勢いよく回転し、石畳の地面に背中から叩きつけられたのだ。

「ぐはあ――――!」

 男の叫びと嫌な激突音が重なる。男の手から離れた棍棒が数瞬遅れて石畳に落下し、乾いた音を立てる。

「……おやおや、危ないですなぁ。受身も取れないのでは、うっかり死んでしまいますよ?」

 激痛でのた打ち回る男を見下ろす老人の顔には、相変わらずの好々爺然とした笑みが浮かんでいる。が、先程とは打って変わった凄惨な表情に見えてしまうのは何故だろう?

「いけませんのお、そんなに弱くては、一人前のチンピラにはなれませんよ?」
「――の、クソジジィ! 舐めやがって! 死んで悔いろ!」

 仲間をやられた仲間たちが、一斉に老人に踊りかかる。

「おやおや、怖い怖い」

 言葉とは裏腹に、老人の笑みは全く崩れない。
 老人の肩に男たちの手がかかった、その瞬間――老人の左手が消えた。
 少なくとも、ジャスミンの眼にはそう見えた。
 目にも留まらない素早い動きで、老人の手が殺到する男の体に触れる。

「食ら……ウオアアアア!?」

 男たちの怒号が悲鳴に変わる。彼らの身体は老人の枯れ木のような手に操られ、次々と容易く投げ飛ばされ、叩きつけられた。
 十数人の巨漢たちが、一瞬で石畳の上に倒れ伏す。
 ジャスミンとモブは、呆然と見守るしか出来なかった。

「おやおや、もう終わりですか? まったく……張り合いがありませんねぇ。私の若い頃は、チンピラでももっと気骨がありましたぞ」

 老人は相変わらずニコニコしながら周りで呻く男たちを見回した。

「のう、モブ殿。こんな子分の体たらくを見たら、レイタス親分殿もさぞや嘆くことでしょうなぁ」
「な、なんで叔父貴の事を知ってるんだ、爺……」

 モブは狼狽し、上ずった声で老人に問う。自分の親分の名前が老人の口に上った事に、戸惑い、不気味に思っているようだ。

「おやおや、この顔に見覚えがございませんか? さても不信心な方ですなぁ……」

 そう言うと、老人は麦藁帽の庇を少し上げる。東の空から登り始めた朝日のオレンジ色の光が、彼の顔を照らし出す。

「…………あ」

 モブの眼が、飛び出さんばかりに見開かれ、

「あああああああああああっ! てめ……いや、アナタは!」

 顔中を口にして叫んだ次の瞬間、ものすごい勢いで石畳の上に土下座した。

「し、失礼いたしやした、大教主様! 気づかなかったとはいえ、と、とんだ御無礼を!」

 石畳に額を擦り付け、彼は小さく小さく縮こまる。
 モブの変貌ぶりに、彼の女房とジャスミンは唖然呆然。先程までの経緯も忘れ、思わず互いに顔を見合わせる。

 まさか、大教主だとは……!

 ――大教主。この国の国教「ラバッテリア教」別名「三眼教」の頂点に立つ人物だ。神殿の奥深くで神に仕え、神事の一切を司る最高位の立場故、逆に一般の人々の前には滅多に現れる事が無い。
 その立場の重要性とは裏腹に、彼がどんな人体容姿なのかが一般には殆ど知られていない、神秘と謎に包まれた人物なのだ。
 確かに、麦藁帽に隠れていた老人の額には、ラバッテリアの神官の証である『アッザムの聖眼』を象った刺青が彫りこまれていた。更にその周囲には、神官としての地位を示す装飾印もある。その装飾の柄を見る限り、彼が大教主なのは間違いないようだ。
 それにしても――イメージが違いすぎる。
 国王の信頼も篤いという大教主が、こんなしょぼくれた好々爺とは……。ジャスミンと女は信じられない思いで、老人の顔を見つめた。
 ただ、モブだけは、まるで大蛇に睨まれた雨蛙の様に、身体をプルプルと小刻みに震わせている。
 そんな彼に「大教主」は声をかける。神に一番近しい人間に相応しい厳かな声……では全く無く、朗らか極まりない長閑のどかな声で。

「いえいえ、こちらこそ失礼いたしました。レイタス殿は息災ですかな?」
「へ、へえ。お蔭様でお元気でいらっしゃいます」
「前にお会いしたのは、そう、もう5年ほど前になりますかな? ウチの神徒にちょっかいを出した子分さんともども、ちょっとした『』をさせて頂いて以来ですな。ホッホッホ」

 朗らかに笑う老人。モブはその笑い声にますます身を縮こませる。

「いや……その節は……何と言うか…勉強させていただきました」

 彼の青ざめた顔からは冷や汗が滝の勢いで流れ落ちている。どうやら、『子分さん』というのは、モブ自身らしい。いったいどんな素晴らしい『肉体的説教』だったのだろうか……?
 老人――大教主は、愉快そうに白髭を撫でつけながら言った。

「まあ、レイタス殿にお伝えくださいな。『最近、神殿にてお見かけしておりませんが……、心よりご来訪をお待ちしております。神に信仰に篤い事をお示しになるのも宜しいかと存じます、……とね。ホッホッホ」
「は、はあ……かしこまりやした。その旨、叔父貴にお伝えさせていただきやす」

 訝しげな顔で、承知するモブ。大教主は満足そうな笑みを浮かべる。

「くれぐれもよろしく……あー、あと」
「……まだ、なにか?」

 モブは、胡乱な表情を浮かべて尋ねた。
 大教主は、呆然と佇むジャスミンを指差して、言った。

「この青年の事ですが、私に免じて許してやってくれませんかの?」

 モブはその言葉を聞いた瞬間、目を剥き、立ち上がった。萎縮していた風船が急に膨らんだかのようだ。

「まあまあ、女房を寝取られ……あー、失礼、貴方にとっては、さぞや承服しがたい事でしょうが、大教主の立場としては、目の前で起こりつつある殺人をそのままにしておくのは少々まずい所でございますのでのぉ」

 大教主は白髭を擦りながら朗らかに言う。

「出来れば、今回の事は水に流していただけませんかのぉ?まあ、今回の事は野犬に噛まれたとでも思っていただいて……。昨日の事に拘るより、希望に満ちた明日を向かって生きていくのです。その方がずっと男らしいですぞ。ヨッ、カッコイイね! なんちゃって。ホッホッホッホッ」

 悪人を懲らしめたご隠居の如き表情で高らかに笑う大教主。
 『野犬』扱いされたジャスミンはちょっと不満げな表情だ。さっきは自分で『野鼠』とか言っていたくせに。
 まあ、ジャスミンにとっては悪い話の流れではない。これでモブが、どうやら大教主らしいこの小柄な老人の提案を呑めば、面倒な事が一遍に片付き、彼にとって万々歳、この上なく望ましい展開だ。
 一方、その言葉を、モブは顔を伏せながら聞いていた。プルプルと身体が小刻みに震えている。

「…………ふ、ふ」

 彼の口から押し殺した低い声が漏れる。
 次の瞬間、モブは顔を上げた。その顔には憤怒のあまり深い皺が刻まれ、グシャグシャに歪んでいる。

「ふざけるなあぁ! そんな事が承知できると思うのか! このオレを舐めるのもいい加減にしやがれ!」

 彼は、ナイフを滅茶苦茶に振り回しながら叫んだ。その目は怒りに濁り、焦点を結んでいない。

「もう殺す! 大教主だろうがなんだろうが! このオレを舐めたヤツは全員なますに切り刻んでやる! ――が、まずは!」

 そう喚きながら、モブはジャスミンに向かって、ナイフを振り回しながら突進する。

間男てめえからだあ!」
「――ッ!」

 気が緩んでいたのだろうか、肝心な時なのに自分の身体が思うように動かない――。知覚している時間に比べて、あまりにも遅いスピードでしか身体を動かす事ができない。
 このままでは避けられない。ジャスミンは、訪れる己の死を想像し、寒気を感じた。
 モブのナイフが、ジャスミンの腹にめり込もうかという、その刹那、

『――ブシャムの聖眼 宿る右の掌 紅き月 集いし雄氣ゆうき 邪気を滅する』

 ――奇妙な呟きの声がジャスミンの耳朶を打った。

「――なに? う、うおっ!」

 モブの戸惑いを含んだ声が、驚愕の叫びに変わる。
 ジャスミンは、自分の背後から、左横を何かが掠めていくのを感じた。
 眼だけでその「何か」の姿を追う。
 それは、紅く輝く光の塊だった。
 光の塊はまっすぐにモブに向かって飛び、彼の眉間に命中した。

「が……は――!」

 そして、光の塊は消えた。正確には、光はモブの額に吸い込まれ、次の瞬間、淡い光が衝撃波のように彼の身体の表面を放射状に奔ったのだ。
 次の瞬間、モブの身体は糸が切れたマリオネットの様に、力を失い、前のめりに頽れた。
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