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前編
しおりを挟む「だからね……私、あの人と離婚しようと思うの」
柔らかな日差しが差し込む昼下がり。
私――リディア・エヴァンスは、客間の窓辺でともに紅茶を囲んでいた義妹のキャシーにぽつりとこぼした。
「お、お義姉様、お兄様と何かありましたの……?」
「何かあった、というか……。何もないのよ。あなたも知っているでしょう?」
何かあったのか、と問われても返しに困ってしまう。
それくらい、何も無いのだ。本当に。
日頃の接触といえば、せいぜいが朝に仕事へ向かう夫を見送るくらいのこと。
それ以外は何も無い。喧嘩も、他愛のない会話も、何一つ。
「まぁ……察するものはありますわ。お兄様って、いつもお仕事ばかりですものね」
「……そうね」
私の夫、レナード・エヴァンスはいわゆるエリートだ。
エヴァンス家は古くから国を支えてきた公爵家の一つで、指折りの名家。
レナード様はその長男で、将来公爵家を背負って立たれる立場である。
おまけに、27歳という若さでありながら、この国の宰相を務める有能な人だ。
……つまり、とても忙しい方なのだ。
朝早くに屋敷を出てしまえば、夜遅くまで帰ってこない。なんなら1週間……いや、半月ほど帰ってこない時もある。
「でも、あんな仕事人間でも、お義姉様のことちゃんと気にかけてると思いますわよ?」
「……そうかしら。挨拶くらいはしてくれるけれど」
逆に言えば挨拶くらいしか接点がない。
「だってお兄様ったら、お義姉様と結婚する前は完全に王城の執務室に寝泊まりするような人間でしたのよ? 帰ってくるだけ進歩ですわ! うちの両親も、お義姉様には感謝しておりますの!」
キャシーは満面の笑みで語る。
けれど私は曖昧な笑みを浮かべるしか無かった。
(そもそも私とレナード様が不釣り合いなのよね)
私とレナード様の結婚は政略結婚のようなものだ。
私の生まれであるハーヴィン伯爵家は、麦の生産で有名な領地だ。父は自ら農地へ降り立ち、民とともに畑を耕すような人だった。
そのため、私も幼い頃から麦の生育を見守り、収穫の手伝いをしてきた。
しかし6年前、例年にない凶作に見舞われた。
領民総出で農地の改善に力を尽くしたものの、改善の見込みはなく、ハーヴィン伯爵領はあっという間に赤字となった。
そこを救ってくださったのが、当時宰相に就任したばかりのレナード様だった。
レナード様は、麦の生産が安定するまでハーヴィン伯爵家へ援助をし続けてくださった。
何か礼をしたいと言う父に、レナード様は何を思ったのか、私との結婚を申し出たのである。
(……当然、私に拒否権なんてあるわけないわよね)
父も母も、大喜びで申し出を受け入れた。
レナード様は、ハーヴィン伯爵家にとって恩人だ。
私だって別に、レナード様との結婚に不満があるわけではない。
ただ、漠然とした不安のようなものが、私の胸の奥底にあるのだ。
15の時に結婚したから、あれからもう5年が経つ。
「……でも私って、レナード様の好みのタイプではないんじゃない?」
それは独り言のように、私の口からこぼれ落ちた。
だって、私たちの間には何もないのだ。
夫婦らしいことが何も。
(まともに一緒に眠りについた日なんて、結婚式の夜くらいだわ)
それもただの添い寝で終わった。
なんなら、翌日私が目を覚ました時には、レナード様は既にベッドにいなかった。
その後の5年間も似たようなものだ。
私が眠る時にはまだレナード様は帰っていないし、私が目を覚ました時にはレナード様は出発の準備をしているか、そもそもいない。
(仕事が忙しいのもあるんだろうけど、5年も何もないなんて、私には女としての魅力がないってことよね?)
せめてもの救いは、キャシーだけではなく義両親とも仲が良く、子供を急かされていないことくらいだろう。
だが、いずれ必要になってくる。
レナード様は宰相でありながら、公爵家の長男でもあるのだから。
跡継ぎは必要不可欠だ。
それはレナード様だってわかっているはず。
(……ここまで手を出されないってことは、やっぱり私はレナード様の好みじゃないのね)
最初は、年の差があるせいかと思っていた。
私とレナード様は7歳も離れているから、大人扱いされないのだと。
年数を重ねて大人になれば、変わるかもしれないと。
だけれど、5年経っても何も変わらない。
そうして私は察したのだ。
自分の容姿は、レナード様の好みじゃないのだろうと。
(何を思って結婚を申し込んできたのかしらね。自分好みに成長すると思っていたら違いましたって感じ? ごめんなさいね、平凡童顔な田舎娘のままで)
自虐的に考えながらも、『田舎娘』という形容がいやにしっくりきてしまった。
麦の穂色の髪に、かかしのような細い手足。おまけに小柄な童顔。
伯爵家の生まれでこそあるが、きらびやかなドレスを着て社交界へ繰り出すよりも、庭で花壇や菜園をいじっている方が私には心躍る。
こんな『田舎娘』のままの私よりも、美しく着飾った大人びた女性のほうがレナード様の好みなのではないだろうか。
(きっとレナード様にとって、私は妹みたいな存在なんだわ)
今私の隣にいる彼の実妹のキャシーの方が、ずっと大人びて見える。
(私はレナード様の隣に似合わない)
結婚したばかりの頃、レナード様の妻として社交のお供をしたことが数度あった。
その時に、レナード様に好意を寄せているであろう貴族の女性陣に取り囲まれた。
みな私よりも年上の、美しい女性ばかりだった。
彼女たちは口々に私へ言った。
「なんであんたみたいな小娘がレナード様と結婚したのよ」と。
その一件以来、レナード様が私を社交の場へ誘ってくることはなくなった。
私を連れて歩くのが恥ずかしくなったのかもしれない。
(彼女たちの方が、お似合いだわ)
レナード様は、すらりとした体躯に銀の髪が映える美男子だ。
落ち着いた濃紺の瞳は知的で、振る舞いも丁寧。
彼が貴族のご令嬢方から人気なのもうなずけた。
きっとレナード様は、かつての私が可哀想だったから、結婚を申し出てくれたのだろう。
だったら、もう十分だ。
レナード様とたいして関われはしなかったが、平和な5年間だった。
彼は良くも悪くも私を放任してくれたから好きに庭いじりができたし、何不自由なく暮らさせてもらった。
十分、幸せにしてもらった。
そろそろレナード様を解放してあげるべきだろう。
「やっぱり私……離婚を申し出てみるわ」
「……お義姉様、思いとどまってくださいまし、と言いたいところですが……。意思が固そうですわね」
私の様子に、キャシーが心配そうに眉根を寄せてこちらを見ていた。
それから一つ息をつくと、キャシーはポケットの中からあるものを取り出した。
「これを、お兄様に飲ませてやってくださいな」
そういいながら、キャシーは私の手にそれを押し付けてくる。
渡されたそれは、小さな香水瓶のような見た目をしていた。
透明なガラスの中、淡い色をした液体が揺らめいている。
「これは?」
「今、社交界で流行っている薬なんですの。お兄様に使うべきと思って極秘裏に入手したのですけど……まさにグッドタイミングというやつでしたわね」
キャシーはどこか得意げな様子で、口元はすっかり弧の形を描いていた。
その瞳には、何かを企んでいるような……いたずらっぽい光が宿っているように思えた。
「きっと、とっても素敵なお兄様が見られますわ」
キャシーの言葉に、私は思わず手元の瓶を見つめ直す。
淡い液体が、光を受けて揺れている。
……素敵なレナード様、なんて。想像できない。
あの人はいつも、真っ直ぐに仕事へ向かうだけだ。
「怪しい薬じゃないでしょうね……?」
訝しむ私に、キャシーは取り繕うように笑った。
「り、リラックス効果がある薬なんですの! ちょっとだけ……ほんのちょーっとだけ、本音がぽろっと出ちゃうかも、ですけど!!」
……怪しい。
非常に、怪しい。
……怪しみながらも私は、その薬を突き返すことができなかったのだ。
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