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二章

19、行き先は

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 旦那さまは悠々とオールを動かしながら、わたくしの耳や髪にくちづけを落とします。
 自由すぎるでしょう?

 わたくしはと云うと、多分顔は真っ赤でしょう。耳だって千切れるほどに熱いです。
 ちらっと岸の管理小屋に視線を向けます。
 確かに小屋の中に人影はあるのですが。こちらを向いているかどうかまでは分かりません。

 お願い、見ないでくださいね。
 
 わたくしの焦りなどまったく意に介さずに、旦那さまは今度はうなじに唇を触れてきました。

「ひゃっ」
「こら、妙な声を上げない。ほら、エリスが心配するだろう? 驚いて湖に落っこちたらどうするんだ。ん? 猫って泳げるのか?」

 知りませんよ、旦那さまがくちづけをやめてくだされば、すべての問題は解決するんです。
 でも、それを訴えるように後ろを振り返ろうとすると「前を向いていないと危ないよ」なんて、まともなことを仰います。

 とても不本意なのですが、旦那さまの力を借りて、ボートはすいすいと動きます。オールが立てる緩やかな波が、湖面に広がっては消えていきました。
 
 対岸には薄緑の笹の群生がありました。岸にボートをつけて、選りすぐりの一本を旦那さまが鉈で切り落とします。
 ばさばさと音がして、倒れてきた笹を受けとめようとすると、旦那さまに止められてしまいました。

「指や手が切れるぞ。軍手を嵌めなさい」
「は、はい」

 わたしは指示された通りに、両手に軍手を嵌めました。
「笹に顔を近づけるんじゃないぞ」と言われ、背を逸らしながら不自然な格好で笹を持ちます。
 でも薄緑の鋭い葉がわさわさと生えているので。なかなか難しいんです。

「翠子さんは笹を押さえておいてくれ。あと、エリスが湖に落ちないように気を付けて」
「は、はい。でもそれではボートを漕げません」

「は?」という風に旦那さまが、口をぽかんと開きます。
 もうっ、言葉にしなくても分かるんですよ。「何を言ってるんだ。君に漕げるはずがないだろ。馬鹿なのか?」とか思っているんでしょ?

 わたくしが頬を膨らませると、旦那さまは「別に怒らなくても」と小さく笑います。そして軽々とオールを動かして、ボートを進ませました。

「あら? 方向が違いますよ」
「うん。ちょっと寄り道」

 何でしょう? きれいな景色でもあるのかしら。
 バサッと広がる笹を、お行儀悪いのですけど足で押さえ(もちろん靴は脱いでいますよ)エリスが落ちないように抱っこします。

 やはり腕力の違いでしょうか。ボートは安定した状態で進み、オールを動かす時も余計な水が跳ねません。

 湖を渡る穏やかな風が、わたくしの髪をそよそよと撫でていきました。

「わたくしも体を鍛えようかしら」
「急にどうしたんだい?」
「旦那さまみたいに、逞しくなりたいんです」

 うーん、と旦那さまは渋面を作りました。

「別に止めないけど。俺は、抱き心地のいい翠子さんの方がいいなぁ」
「そ、そんなことを言ってるのではないんです」
「硬いよりは、柔らかい方がいいよな。なぁ、エリス」

 話の内容が分かっているはずもないのに、エリスは「にゃあ」と返事します。
 ボートがついた岸の向こうから、何やらすぽーん、すぽーんという軽やかな音が聞こえてきます。

「すっぽん、すっぽん?」
「君の耳はどうなっているのかな?」

 肩で笑いながら、先にボートから降りた旦那さまが、わたくしに手を差し伸べます。
 笹はそのまま置いておくようにとのことで、杭に縄をかけてボートを係留しました。
 少し歩くと、そこは木々に囲まれたテニスコートでした。その先に見えるのは焦げ茶色の壁のホテルです。

「ここって。文子さんが泊まっているホテルですよね」
「しーっ。ばれるぞ」

 木立に紛れながらそっと進む旦那さまとわたくしは、まるで間諜のようです。それとも忍者でしょうか。
 体を鍛えたら、くのいちもいいですよね。
 
「……多分、くのいちみたいとか思っているんだろうが。あれは情報収集で町娘に扮したりするんであって、君が思っているようにクナイを構えて闘ったりは、あまりしないと思うぞ」

 え、そうなんですか? それになぜ、わたくしがくのいちに憧れていると、ばれてしまったのでしょう。

 ホテルの庭まで進み、木陰に身を潜ませた旦那さまは、あごをくいっと上げました。
 その先を見ると、琥太郎さんと文子さんが歩いているではないですか。
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