上 下
9 / 153
一章

9、幻の彼

しおりを挟む
 シャールーズは、誘拐犯たちの出ていった方を一瞥すると、口の端で笑った。
 
「嬢ちゃんじゃ、どうせ逃げきれないと踏んでんだぜ。甘いなぁ」
「わたくしが逃げられるとは、思いません」

 ヤフダとミトラが裏切るはずがない。けれど姉たちの名をかたられただけで、こんなにも心が砕けるなんて。
 姉を慕う気持ちを、下衆な男に汚されたことが耐えられない。

「これから、わたくしはどうしたら……」

 問いかけたアフタルは、瞬きをくり返した。
 確かにそこにいたはずのシャールーズの姿が、消えていたからだ。

「……どうして?」

 辺りを見回しても、どこにも彼の姿はなかった。まるで最初から存在しないかのように。

◇◇◇

 アフタルの見世物は、建前としては少女と豹の対決だった。無論、猛獣相手に戦える少女などいるはずもないが。
 その名目すらも無視した状態で、アフタルは闘技場の真ん中で杭に縛りつけられた。

 足下は砂だ。アフタルの前の見世物が、剣闘士同士の争いだったのか、獣と剣闘士の戦いだったのかは分からないけれど。
 砂に黒々としみ込んだ血の量に、意識が遠くなりそうだ。

(忘れていました。今日は最悪な日だったことを)


 考えてみれば、初対面の男性が救ってくれるなんて都合が良すぎる。
 シャールーズのことをすぐに信じてしまったのは、自分が王女であることに甘えていたのだろう。

「さぁさぁ、お集りの皆さま! 本日一番の演目でございます」

 司会の男の声が、高らかに闘技場に響き渡る。

「なんと、主役は囚われの姫さま。ああ、幸薄い姫さまの命運や、いかに!」
「姫さまの訳、ないだろ!」
「そうだ、そうだ。いい加減なことを言うな」

 観客席からヤジが飛ぶ。その声はぶつかり合って、耳が痛いほどだ。

(当たり前だわ。第三王女が捕らえられ、見世物として猛獣に食い殺されるなんて、信じる人がいるはずないわ)

 アフタルの前に、布のかかった檻が運ばれてきた。中から唸るような声が聞こえる。
 ばさり、と覆われていた布が取り払われる。

 檻の中では、大型の豹がうろうろと歩いていた。
 鋭い牙、半開きの口元からは絶え間なくよだれがしたたり落ちている。

「ひ……っ」

 アフタルは引きつった声を出した。悲鳴を上げることすらできない。
 逃げようと足を動かそうとしても、体も腕も縛られて、身動きが取れない。

 助けて、と言おうとして口を閉ざす。
 いったい誰に懇願しようというの? 幻の彼になの?
しおりを挟む
1 / 2

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!


処理中です...