魔の女王

香穂

文字の大きさ
上 下
7 / 57

第五話

しおりを挟む
「本人がいるなら先に言えよ!」
「何故ですか?」
「アガリエはもっと配慮とか、他人を思いやるとか、そういう慎ましい気持ちを学んだ方がいいと思う!」
「世継ぎ問題にまつわる後ろ暗い話は、城にいる者だけではなく、下々の者たちも噂されているようなことですので、今更兄上も気になさいません。それと、赤は王の色であり、紫は王家に縁ある者しか身に着けることを許されていない色です。ですからゼン様の衣も紫なのだということを、ぜひ覚えておいてくださいね」
 紫の衣を着る青年が王族であるということは、この国に住まう者なら説明されずともわかる常識だということか。そう言われて思い起こせば、アガリエの腰帯や装飾具はいつも紫だった。
 ゼンが不勉強だった、ということなのだろう。
 悔しさをうまく消化できずに身悶える。
「ちなみに私の手の甲や腕に彫られた刺青は古くから伝わる紋様で、王位を望まぬ者という意です。アガリエ様の手にあるのは、王の子であり、神に仕える者という意味。数日後には新たに神の嫁である尊い神女という紋様も加わることでしょう」
 兄と妹の手には、たしかに黒い紋様が刻み込まれている。目につくものなので、そういう風習があるのだろうことは気づいていたが、その意味までは知らなかった。
 ……俺、アガリエのこと何も知らないんだな。
 いや、知ろうとしていなかっただけなのかもしれない。
 頑なに本心を見せず、嘘ばかりつくアガリエに苛立って、その理由を深く追求したりはしなかった。
 ゼンはアガリエの声に呼ばれてこの地にやってきた。
 それなのに彼女が願いを口にしないのは、相応の事情があるはずなのだ。
 俺に言えない願いごとってなんだろう?
 王様の病気を治してほしいってのが嘘だったとしても、王位継承に関わる何かとか。いやでも月神女になりたいってことは言ってたし、実際なるために俺を利用したわけだし。……廃嫡された王子を玉座に据えたい、とか?
 くだんの兄王子はオルと名乗った。
「ご存知かと思いますが、呪術に用いられる危険性があるため、王族の真の名は他人には明かさないものです。が、私は王位継承権を放棄したと同時に名を明かしています。まあ、この庭でおとなしくしている限り、呪われることもないでしょうしね」
「人ってのはいろいろ気を使わないといけないから大変だな。俺はゼン。マヤーを助けてくれてありがとう。本当に助かった」
「勿体ないお言葉です。ですがそもそも毒を盛ったのは妹のようですし、むしろ治療させていただいたことに感謝申し上げるべきかと」
「兄上、人聞きが悪いです。ちょっと手元が狂ってしまっただけです」
「どこがちょっとだ! 思い切り射したくせに!」
「だとしてもアガリエ様、あの様子だと毒が抜けきるまで、しばらくは解毒薬を服用させてやらなければいけませんよ」
 アガリエの頬がわずかに引き攣ったのを、ゼンは見逃さなかった。
「……今、余計なことを言ったなと思ったろ」
「いいえ」
「嘘つけ! まだマヤーを人質に俺を脅迫しようとしてたのか?」
「兄上、余計なことを仰られては困ります」
「やっぱりか!」
 オルは棚から数種の草や粉を手に取ると、卓の上にあった鉢に放り込み、薬の調合を始めた。ゼンも薬については多少知識があるが、それでも彼の手際の良さには遠く及ばない。
「この解毒薬は鮮度が大切なので、本来は都度作った方が良いのですが、お二人が頻繁にこの庭に近づくのは得策とは言えません。ひとまず今夜の分だけ作りましょう。残りはこちらから遣いをやって届けさせます。それでよろしいですね?」
「二の兄上を世継ぎの座から追いやろうとする輩もいるのです。そんな者達にとって博識で優秀なオル兄上は、またとない逸材なのです。それこそ世継ぎに相応しい器として求められるほどに。ですから父王も頭を悩ませているのです」
 何故と問う前に、横からアガリエが教えてくれた。声をひそめるでもないその様子から察するに、この不遇の兄に対する気遣いというものを、彼女は微塵も持ち合わせていないらしい。
 そして決して仲が悪いようには見えないのに、妹だというアガリエに対して敬語を使うオルに、二人の関係性の複雑さを垣間見る。
「オルは? その気があるのか?」
「ご冗談を。それに、もしも私が第二王子であったなら、厄介者の第一王子が反旗を翻す素振りを見せた時には、すぐさま真名を使って呪い殺せるように、周到に手筈を整えておくでしょう」
 平然と言ってのけるオルを前に、ゼンは返す言葉を失う。
 名を明かすとは、つまりはそういうことなのだ。
 できたばかりの解毒薬を受け取る。ゼンが手際の良さを褒めると、身に余るお言葉です、とオルは柔らかな物腰で応じた。暗殺だの謀反だのと物騒な会話をしていたとは思えない清々しさだ。
 ゼンは薬が入った小瓶を胸元の袷に押し込み、マヤーを慎重に抱きかかえて小屋を出た。
 すでに地平線に太陽が沈み、薄い雲の向こうに宵闇が広がっている。
 太陽が近く、常に日差しが強いこの国でも、夕暮れ刻はおだやかな風が吹く。どこからともなく弦楽器の音色が聴こえるのもまた、見慣れた光景だ。
 アガリエと二人、畑の畦道を歩く。
 ――が、非常に歩きづらい。
「あのさ、どうして後ろを歩くの?」
 振り返りながら問うと、アガリエは当然だとばかりに告げた。
「畏れ多くもゼン様は神であらせられます。神の隣を歩くことは、いくら神嫁であろうと許されません」
「……え? なにその決まり。いつ決まったの?」
「古来よりそのように。王や月神女は別格ですが」
「でも俺、この立ち位置じゃ喋りにくいんだけど。東にいた時はそんなこと言わなかったじゃん。隣でいいだろ」
「では、許すとおっしゃってください」
「許す」
 その一言でアガリエはようやくゼンの隣に来た。
「並んで歩くだけなのに、わざわざ許しがいるわけ?」
「ここは王城ですから。神と話すにも傍に寄るにも、神か、あるいは王や月神女の許可が必要となります。ただし請われたとしても、無暗に許可を与えてはいけませんよ」
「なんで?」
「敵味方の区別が、ゼン様にはまだお分かりにならないでしょう。判断に困った時は必ずわたくしを頼ってください」
「……一番危険なのはアガリエだと思うから、たぶん大丈夫だよ。頼むから、もう毒を使うのはやめてくれよ。俺はアガリエの願いを叶えに来た、アガリエのマナ使いなんだからな。ちゃんと相談してくれたら考えるし、何かあるたびに人質を取られて脅迫されるのは、ものすごく不本意だ」
「心得ました。申し訳ございません」
 思いのほか素直にアガリエは謝罪を口にした。うつむき、震える睫毛からは今にも涙があふれだしそうだ。
 いつも凛とした佇まいの彼女が肩を落として消沈する姿を見ていると、強く言い過ぎただろうかと、急に不安になった。なにしろ相手はまだ若い娘だ。いくら理不尽な扱いを受けたからと言って、こちらも大人げない態度だったかもしれない。
 深く呼吸して気持ちを抑える。
「それで? どうしてこんな無茶な真似したわけ? 東の城の人たちは王様が危篤だって聞いて、心配してるんじゃないの」
 アガリエは目頭をぬぐうと顔を上げた。
「実はわたくしの与り知らぬところで、わたくしを旗頭としての謀反が企てられていたのです。わたくしの耳に入ったということはつまり、すでに外部に情報が洩れている可能性があるということです。此度の危篤は誤報でしたが、王の体調が思わしくないのは事実。要らぬ心配はさせたくはありません。ですから噂が広がる前にと思い、わざと大袈裟に騒いで城を出たのです」
「待って、ちょっと待って。だってあの東の城は、アガリエの城だろ? 主君に内緒で謀反の計画なんてできるもんなの?」
「王と月神女のように、各地の城も政を担う者と、祭祀を担う者がともに手を携えその地を納めています。謀反を企てていたのは東の城で政を担う者たちの一派です。大方、王のご病気により王都が混乱しているうちに、私腹を肥やそうと目論んだのでしょうが、民を政争に巻き込むことをわたくしは良しと致しません。ですから強硬手段を取って逃げて来たのです」
「そんなことになってたなんて……。俺、あの城はけっこう好きだったんだけどな」
「人には表と裏の顔があります。そして人が多く集まる場所にはより多くの思惑が在るもの。生き物のように蠢くそれは、わたくしでも、いかにゼン様が神であろうとも、思い通りに操ることは容易ではないでしょう」
 そういうものか。
 タキ、無事だといいんだけど。……まあ、タキのことだから大丈夫だろうけど。
 マヤーが元気であれば迎えに行ってもらうところだが、今は致し方ない。相棒を信じて待つのみだ。
「そういえばアガリエの真名は何ていうんだ?」
「……そのようなものを聞いて、どうなさるおつもりですか?」
「べつに、どうも。ただ俺はアガリエのこと何も知らないからさ。気になったことは聞いておこうと思って」
 アガリエとは東の神女が代々受け継ぐ呼称だ。
 一方、真名は最初のまじないとも云われ、心の奥底にまで深く刻み込まれているもので、王女として産まれた時に付けられた名が彼女にもあるはずだった。
 アガリエは真顔で告げた。
「ゼン様、お気づきではないでしょうけれど、実はわたくしにはとても多くの敵がいるのです」
「え。そうなの? ……なんで? あ、毒で相手を脅すから?」
「わたくしとて誰彼かまわず脅しているわけではありませんが、そのようなところです。ですからどこで聞き耳を立てられているかわかったものではありません。そのような者たちに真名を知られ、呪詛されては差し障りがございますので、名は内緒です」
 先程のしおれた姿は一体何だったんだと疑ってしまうほど、きっぱりと断られた。
 真名は持ち主の神髄に触れる。その性質を逆手取り、心を縛る呪詛に用いられてきた過去がある。そのため王族は真名を秘し、敬称や通り名を使うのだ。
「でも神の嫁になるんだろ? その神の俺にも?」
 名を秘す者も、夫婦の契りを交わす時、その相手には明かすしきたりだ。
「場所が悪いと申し上げているのです。然るべき時に然るべき場所で明かしますから、どうか今はご容赦ください」
 たしかに一理ある。が、言い訳くさい。
 この様子だとジンブンには偽の真名を教えたんだろうな。……ていうか、自分の願いを叶えに来た神にさえ名を明かせないって、どういうこと? だったらアガリエは誰にだったら心を開くんだ?
 心から欲する願いを語らない。
 婚姻を望みながら、相手に真名を教える気配もいない。
 それは、信頼できる者がいないということだ。
 果たしてそんなことがありえるのだろうか。ゼンが知るだけでも彼女の傍には多くの人がいた。夫も、神女仲間も、それこそ彼女が治める東の城には傍仕えや臣下が山ほどいたのに、その中に一人として心を許せる相手がいなかったとでも言うのか。
 まさか、そんな寂しいことがありえるわけない、よ、な?
 反射的にそう考える反面、そうなのかもしれないと思い当たる節はいくつかあって、戸惑った。
 思い返せば、東の城にいた数日、アガリエが年頃の娘らしく楽しそうにしている姿を一度として見たことがない。夫であるジンブンが傍にいる時でさえ彼女は相槌を打つばかりで、自ら率先して話をすることもなかったように思う。ゼンを見れば神よ、と微笑み傍に寄って来たが、あれはご機嫌伺い以外のなにものでもなく、不快でしかなかった。
 もしかして、――もしかしなくても、己が治めるあの広い城で、味方と呼べる存在もなく、独りきりだったのだとしたら。
 それはどれほどの孤独だろう。
 だから謀反を企てる臣下たちを諫めるのではなく、城から逃げ出して来たと、そういうことなのか。
 俺は、この娘のために、何ができるんだろう?
 もっと知りたい。嘘偽りのないアガリエのことを。
 畑の脇を進む。
 思えばここには舗装された道は一つもない。見渡す限り広がる畑と、オルがいた小さな木組みの小屋。それとは別に畑の真ん中に防風林が立っているのは、目視では確認できないが、もしかしたら他にも何か建物があるのかもしれない。
 けれどただそれだけだ。
 王城の敷地内だというのに、随分とのどかな場所のように感じる。畑を耕す人影がないのは、すでに作業を終える刻限だからだろうか。
 ゼンにしてみればかろうじて畑ではないとわかる所を歩いているだけだが、生まれ育った城だからか、アガリエの足取りに迷いはない。ほどなく前方に石垣が見え、視線をめぐらせれば石畳の先に朱塗りの門が確認できた。
 開け放たれた門の向こう側では、幾人もの女官や護衛の隊士が待ちかまえている。
 神や、神嫁となった王女に何かあっては大変だと王が手配をした者達だが、アガリエは頑として彼らがこの畑に足を踏み入れることを許さなかったのだ。主の姿を認めた彼らの表情に安堵が広がり、その様子に申し訳なくなる。
 ふと彼らの背後にある赤いものに気づいた。――大きな日避けの傘だ。
しおりを挟む

処理中です...