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第八話
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自慢ではないが寝つきは良いほうだ。
そして太陽が昇るとともに自然と目が覚める。
しかし目が覚めると同時に昏倒しそうになったことは、いまだかつて経験がない。
音が聞こえそうなほど脈打つ心臓を押さえ、何とか悲鳴を飲み込む。体中の血流が逆走しそうだ。それほど驚き、混乱していた。
なんだってこんなことに!
これで何度目かわからない嘆きは、今朝も虚しくゼンの頭の中で響いた。
ゼンの左側に、アガリエ。
そして右側にはイリが静かに寝息を立ててそこにいた。
アガリエはまだしも、イリはおかしいだろ! 三人で朝を迎えるって……ありなのか?
いかんせんそちらの方面には知識が乏しい。
二人を起こさないように静かに深呼吸を重ね、強張った体を落ち着かせる。とにかく彼女たちの間から出よう。ここは危険な香りしかしない。
幸い寝台から降りるのは簡単だった。
その振動にマヤーだけが気づいたらしい。目を開け、ゆらりと尾を持ち上げる。そんなマヤーを腕に抱き上げ、戸口へ向かう。
廊下には女官、そして庭には衛兵が数人控えていた。
「おはよう。オルの……第一王子から俺あてに薬が届いてたりしないかな?」
「おそれながらマヤー様の薬であれば、わたくしがこちらにご用意しております」
「ああ、そうなんだ。ありがとう」
応じたのは第二王子が遣わしてくれた神女だ。手にしていた膳に薬湯が入った椀が載っている。
「でもオルも毎日届けてくれるって言ってたんだけど……」
「さようでございましたか。ですが今朝はまだ届いておらぬようです。処置が遅れては差し障りがございますので、どうぞこちらをお使いくださいませ」
神女から差し出された椀は実に豪奢だった。さすが王の城と言えばよいか、見事な細工が施されている。
それをマヤーに飲ませようとして、ふと手が止まった。
――いや、背後から伸びてきた手が無理やり止めたのだ。
振り返ると、夜着のままのアガリエがそこにいた。
「……おはよう」
「おはようございます。その薬、わたくしに毒見をさせていただけますか?」
「毒見? だってこれ薬なんだろ?」
「おそれながら申し上げます。主たる二の君の名に懸けて、毒など入ってはおりません」
「わたくしも兄上の臣であるそなたを疑っているわけではない。ただマヤーが侵されている毒については、誰よりもわたくしが一番よく知っている。つまりその毒を中和する薬についても一番理解しているのはわたくしだ。ゼン様、毒だと疑っているのではなく、薬の効能を確かめたいだけです。お許しいただけますね?」
特に問題はない。首肯すると、アガリエはゼンから受け取った椀をあおり、少しだけ口に含ませ、時間をかけて咀嚼した。
「問題ないだろ?」
「……はい」
「マヤー。ほら、飲んで。それで早く元気になってくれよ」
嫌がるマヤーの口内に無理やり薬を流し込む。苦いから薬は嫌いなのだ。けれど抵抗するだけの体力が戻ってきたのだと思うと、嫌がってゼンの指に牙を立てる姿も微笑ましい。
「よしよし。大丈夫。俺が傍にいるからな」
ぽんぽんと軽く背を撫でてやると、今度は肩口に嚙みつかれた。よほど不満らしい。
「姫様、あの……」
女官の一人がアガリエに何事かを耳打ちする。
「ゼン様。月神女カーヤカーナが、是非ともお会いしたいと申しているそうです。身支度を整えたら一緒に参りましょう」
「え、なに? 呼び出し? べつに悪いこと何にもしてないけど」
思わず及び腰になる。
するとアガリエが無言のまま距離を詰め、ゼンの耳元でそっと囁いた。
「マヤーの健康はゼン様の手にかかっているということをお忘れなく」
まだ脅す気か。
「……紫色じゃない着物を用意してくれるなら行く」
「では王も驚くほどの赤にしましょうか」
「冗談でもやめてくれ!」
「では紫で我慢してくださいね」
はたしてそれは我慢というのだろうか。
釈然としない気持ちで、けれどゼンは首を縦に振った。
*
月神女カーヤカーナは応接のための広間で待っていた。深く頭を垂れてゼンとアガリエを出迎える。
しばしの沈黙の後、ゼンは背後に控えるアガリエに促されて、ようやく気づいた。この城では顔を上げる動作ひとつにも許可が必要なのだった。
「ああ、ええと、顔を上げてくれるかな。直言も許す」
「恐悦至極にございます。この善き日に、いま一つ神にお頼み申し上げてもよろしゅうございますか?」
「なに?」
「二人きりでお話がしとうございます」
「うん。いいけど……」
後ろからアガリエが慌てた様子でゼンの袖を引いたが、時すでに遅し。
月神女は目元の皺を深め、揚々とした声でアガリエに命じた。
「アガリエ、お下がり」
「カーヤカーナ様。神はまだこの城に慣れておられません。おひとりにするわけには」
「その神が良いと仰せなのだ。無礼ぞ。控えよ」
アガリエはちらりとゼンを一瞥し、それ以上は何も言わずに部屋から出て行った。
どうやらこの二人の力関係は歴然のようだ。
いくつあるのか数えるのが億劫なほどある戸は、すべて開け放たれていて、廊下も石畳の庭も難なく一瞥することができる。射しこむ日差しとともに風が吹き、汗ばむ肌を撫ぜていった。
広く色鮮やかな装いの部屋に妙齢の月神女と二人きり。中央にある座卓をはさんで座す。上座はもちろんゼンだが、威圧感で言えば月神女のほうが圧倒的だった。
両手と頬には神女の紋様。艶やかな黒髪を高く結い上げ、すらりと伸びた珊瑚の簪を挿している。王の姉ということだから、壮年の王よりも年嵩なのだろうが、凛とした振る舞いは実に若々しい。
「ほんに情けないこと」
しかしそんな彼女の第一声は、地を這うように低い声だった。
「初夜を邪魔された挙句、先に寝入ってしまうなど、恥さらしもよいところでございます」
「ええー? 俺のせいなの? ていうか、なんで知ってるの?」
「ここはわたくしが治める斎場。わたくしの知らぬことなど何一つとしてございません」
なんてことだ。あの閨は監視されていたのか。
「何を驚いておられるのですか。第二王子の間諜もすぐ傍にいるではございませぬか」
間諜。情報を盗む者。内通者。
思い当たる節がない。
「第二王子からは、医術に詳しい神女を……」
月神女はあからさまに顔をしかめる。
「えっ、なに。じゃあ薬を作ってくれたあの娘もそうなの? ……ああ、だからアガリエが心配して、毒見をするなんて言い出したのか」
ゼン様は恵まれた環境で育ったのですねと、意味深なことを言っていた。いま思えばあれは、ゼンが易々と第二王子の手の者を内に引き入れたことを皮肉っていたのか。
「でもアガリエと第二王子は同腹だって言ってたのに、間諜なんか忍び込ませる必要なんてあるかな」
「王家の歴史は血塗られているもの。母親が同じとて、信頼の置ける相手とはかぎりませぬ。特にアガリエは幼き頃から神女として優れていたゆえ、二の君にとっては扱いにくい妹姫であったことでしょう。世継ぎといえど、あの娘の機嫌を損ねてしまえば、次代の王に選ばれるのは他の王子であるやもしれぬのですから」
「王が月神女を選ぶのではなく、月神女が王を選ぶってことか?」
「無論、月神女を任命するのは王でございますとも。ですが時として月神女は王よりも強い力を持ち得ることがあるのです。政にも神事にも、そして民の心を惹きつけるためにも霊力は必要不可欠なものゆえに」
月神女は悠然と笑む。
「ひとつ、昔話をいたしましょう。かつて民から賢王と敬われた王がいたそうです。当時の月神女は王妹であったと伝わりますが、ある日突然、王の代替わりを行うよう神からのお告げを受けたと、皆の前で宣言したそうです」
「それで、王は?」
「最後には玉座を追われ、命を落としました」
神女として優れているアガリエがその気になれば、王位継承権がどうであれ、望む王子を神の名のもと次代の王に指名することができるというわけだ。
幼い頃から、と月神女は言った。
だとすれば次代の月神女になるために、神の嫁の座を狙ったという彼女の話は嘘になる。すでに彼女は彼女であるだけで、月神女にふさわしい実力を備えているのだ。
また、嘘か。
「イリは? 月神女になる可能性はないのか?」
「アガリエがいる限りその可能性は皆無でごさいましょう。その下の妹姫や、縁戚にあたる娘たちも同様に。資格はあれどアガリエとの力の差は明白です」
「あなたは? アガリエが不利になるような話をして、俺がどう動くことを願ってるの?」
月神女は静かに睫毛を伏せた。
「月神女が祈るのはいつの時代も国の安寧でございます。そして叶うならば王位継承がつつがなく終わるように、と。……ああ、今宵ばかりは、神と神嫁にはつつがなく床入りを終えて欲しゅうございますけれども」
「いや、うん。俺たちのことは祈らなくていいから」
「それはアガリエが神嫁として至らぬゆえでございますか?」
「そういうわけじゃないけどさ……」
「神よ。神が拒めば、アガリエの立場が悪くなるということは、ご理解いただいておりますでしょうか?」
座卓には茶器一式が用意されていた。月神女が手ずから茶を注ぐと、爽やかな花の香りが周囲に広がった。広く民草にまで好まれているマツリカの茶だ。
「王城とはさまざまな思惑が交差する場所なのでございます。ですからこうしてわたくしが淹れた茶を、皆の前で神が拒めば、皆はわたくしと神が仲違いをしていると思うことでしょう。あるいはわたくしを陥れたい者たちは、茶の中に毒が入っていたのだろうと囃し立て、王に申し上げるやもしれませぬ」
「俺はべつに疑ってないし、拒んだりもしない」
「ですがアガリエとの床入りは拒んだ、と?」
「違う。あれはイリがっ」
「ではイリが邪魔をしなければ、今宵こそ床入りする、と?」
是とは言えない。
けれど、否と、言ってもいけないのだと、ゼンはようやく理解した。
どこで誰が聞き耳を立てているかわかったものではないのだから、内輪の戯言だと高をくくってはいけない。そう月神女は苦言を呈しているのだ。
なんて息苦しい場所なのだろう。
「俺とアガリエが契りを結んでないってことは、この城にいる人たちはもうみんな知ってるのかな」
「昨夜最も注目された寝所でしたので、知っていて不思議はございませぬ。一言で寝所と申しましても、寝所を片付ける者、寝具を洗う者、夜着を用意する者、戸の外で控えている者、警備の者など無数の人間が関わっておりますゆえ、情報などどこからでも抜き取ることができましょう」
「もう誰を信じていいのかわからなくなってきた……」
差し出された茶器を覗き込む。実に情けない表情をした自分の顔がゆらゆらと揺れていて、思わず項垂れた。
アガリエもこんな気持ちだったのだろうか。
広い広い王城で、幼い頃からたくさんの目や耳に晒されて、些細な隠し事もままならない。
アガリエは平然とゼンに嘘を吐く。
ゼンはそのたびに憤ってきたけれど、彼女はもっと多くの嘘に囲まれて育ったのだ。
アガリエの願いを叶えたい。
けれど彼女はまだ心の底からゼンを信じることができていないのかもしれない。信じるに足る相手ではないから、本心を語らず、ただ神と崇めながら手駒のように利用する。
アガリエじゃなくて、問題は俺の方なのか、も?
彼女の嘘を見破ることができず、第二王子の間諜も易々と受け入れ、月神女に言われるままにアガリエを傍から遠ざける。あまつさえ傍仕えが自分たちを監視しているかもしれないなどと考えたこともなかった。神とされる自分の発言や態度が、相手の立場にどのように作用するのかも。
茶器が空になる頃、ゼンは部屋を辞した。
予想通り、戸の向こうではアガリエが憮然とした表情で待っていた。
これは珍しく本気で苛立っているのではないだろうか。座した彼女が上目遣いにこちらを見上げてくる。その瞳は実に剣呑だ。
「お顔の色が優れないご様子ですが、何かございましたか」
「大丈夫。きみの伯母上に御小言をもらっていただけだから。大したことないよ。あ、違う。ええと、そうじゃなくて、有意義な話だったから、問題ないよ」
「……急によそよそしくなって、どうされたのですか? 久々にわたくしをきみ、と呼びましたね」
「え? そう?」
思えばアガリエに振り回されて、猫をかぶっている余裕もなくなっていたが、彼女は気づいていたようだ。
しばらく一人になりたい。
けれどゼンが歩き出すとアガリエも当然のようについてくる。
そんな彼女に悪態を吐きたくなったが、つい背後を見やってしまった。
そうだ。後ろをついてくるのは何もアガリエだけではないのだ。
回廊を歩く時とて二人きりにはなれない。女官や護衛が幾人も連なってついてきている。彼らのうち何人が間諜で、何人がそうでないのかなんて、ゼンにわかるわけがない。
逃げ出したい。
でもつい先日も逃げ出して、タキに叱られたばかりだ。
言葉を選ぼうとして、選んで、でも間違えているような気がして、結局こぼれ出たのはあまりにも情けない溜息だった。
「……ちょっと、疲れたかも」
アガリエは食い入るようにゼンを見上げ、そしてしばし考え込んだかと思うと、驚きの提案をした。
「では墓参りといきましょうか」
そして太陽が昇るとともに自然と目が覚める。
しかし目が覚めると同時に昏倒しそうになったことは、いまだかつて経験がない。
音が聞こえそうなほど脈打つ心臓を押さえ、何とか悲鳴を飲み込む。体中の血流が逆走しそうだ。それほど驚き、混乱していた。
なんだってこんなことに!
これで何度目かわからない嘆きは、今朝も虚しくゼンの頭の中で響いた。
ゼンの左側に、アガリエ。
そして右側にはイリが静かに寝息を立ててそこにいた。
アガリエはまだしも、イリはおかしいだろ! 三人で朝を迎えるって……ありなのか?
いかんせんそちらの方面には知識が乏しい。
二人を起こさないように静かに深呼吸を重ね、強張った体を落ち着かせる。とにかく彼女たちの間から出よう。ここは危険な香りしかしない。
幸い寝台から降りるのは簡単だった。
その振動にマヤーだけが気づいたらしい。目を開け、ゆらりと尾を持ち上げる。そんなマヤーを腕に抱き上げ、戸口へ向かう。
廊下には女官、そして庭には衛兵が数人控えていた。
「おはよう。オルの……第一王子から俺あてに薬が届いてたりしないかな?」
「おそれながらマヤー様の薬であれば、わたくしがこちらにご用意しております」
「ああ、そうなんだ。ありがとう」
応じたのは第二王子が遣わしてくれた神女だ。手にしていた膳に薬湯が入った椀が載っている。
「でもオルも毎日届けてくれるって言ってたんだけど……」
「さようでございましたか。ですが今朝はまだ届いておらぬようです。処置が遅れては差し障りがございますので、どうぞこちらをお使いくださいませ」
神女から差し出された椀は実に豪奢だった。さすが王の城と言えばよいか、見事な細工が施されている。
それをマヤーに飲ませようとして、ふと手が止まった。
――いや、背後から伸びてきた手が無理やり止めたのだ。
振り返ると、夜着のままのアガリエがそこにいた。
「……おはよう」
「おはようございます。その薬、わたくしに毒見をさせていただけますか?」
「毒見? だってこれ薬なんだろ?」
「おそれながら申し上げます。主たる二の君の名に懸けて、毒など入ってはおりません」
「わたくしも兄上の臣であるそなたを疑っているわけではない。ただマヤーが侵されている毒については、誰よりもわたくしが一番よく知っている。つまりその毒を中和する薬についても一番理解しているのはわたくしだ。ゼン様、毒だと疑っているのではなく、薬の効能を確かめたいだけです。お許しいただけますね?」
特に問題はない。首肯すると、アガリエはゼンから受け取った椀をあおり、少しだけ口に含ませ、時間をかけて咀嚼した。
「問題ないだろ?」
「……はい」
「マヤー。ほら、飲んで。それで早く元気になってくれよ」
嫌がるマヤーの口内に無理やり薬を流し込む。苦いから薬は嫌いなのだ。けれど抵抗するだけの体力が戻ってきたのだと思うと、嫌がってゼンの指に牙を立てる姿も微笑ましい。
「よしよし。大丈夫。俺が傍にいるからな」
ぽんぽんと軽く背を撫でてやると、今度は肩口に嚙みつかれた。よほど不満らしい。
「姫様、あの……」
女官の一人がアガリエに何事かを耳打ちする。
「ゼン様。月神女カーヤカーナが、是非ともお会いしたいと申しているそうです。身支度を整えたら一緒に参りましょう」
「え、なに? 呼び出し? べつに悪いこと何にもしてないけど」
思わず及び腰になる。
するとアガリエが無言のまま距離を詰め、ゼンの耳元でそっと囁いた。
「マヤーの健康はゼン様の手にかかっているということをお忘れなく」
まだ脅す気か。
「……紫色じゃない着物を用意してくれるなら行く」
「では王も驚くほどの赤にしましょうか」
「冗談でもやめてくれ!」
「では紫で我慢してくださいね」
はたしてそれは我慢というのだろうか。
釈然としない気持ちで、けれどゼンは首を縦に振った。
*
月神女カーヤカーナは応接のための広間で待っていた。深く頭を垂れてゼンとアガリエを出迎える。
しばしの沈黙の後、ゼンは背後に控えるアガリエに促されて、ようやく気づいた。この城では顔を上げる動作ひとつにも許可が必要なのだった。
「ああ、ええと、顔を上げてくれるかな。直言も許す」
「恐悦至極にございます。この善き日に、いま一つ神にお頼み申し上げてもよろしゅうございますか?」
「なに?」
「二人きりでお話がしとうございます」
「うん。いいけど……」
後ろからアガリエが慌てた様子でゼンの袖を引いたが、時すでに遅し。
月神女は目元の皺を深め、揚々とした声でアガリエに命じた。
「アガリエ、お下がり」
「カーヤカーナ様。神はまだこの城に慣れておられません。おひとりにするわけには」
「その神が良いと仰せなのだ。無礼ぞ。控えよ」
アガリエはちらりとゼンを一瞥し、それ以上は何も言わずに部屋から出て行った。
どうやらこの二人の力関係は歴然のようだ。
いくつあるのか数えるのが億劫なほどある戸は、すべて開け放たれていて、廊下も石畳の庭も難なく一瞥することができる。射しこむ日差しとともに風が吹き、汗ばむ肌を撫ぜていった。
広く色鮮やかな装いの部屋に妙齢の月神女と二人きり。中央にある座卓をはさんで座す。上座はもちろんゼンだが、威圧感で言えば月神女のほうが圧倒的だった。
両手と頬には神女の紋様。艶やかな黒髪を高く結い上げ、すらりと伸びた珊瑚の簪を挿している。王の姉ということだから、壮年の王よりも年嵩なのだろうが、凛とした振る舞いは実に若々しい。
「ほんに情けないこと」
しかしそんな彼女の第一声は、地を這うように低い声だった。
「初夜を邪魔された挙句、先に寝入ってしまうなど、恥さらしもよいところでございます」
「ええー? 俺のせいなの? ていうか、なんで知ってるの?」
「ここはわたくしが治める斎場。わたくしの知らぬことなど何一つとしてございません」
なんてことだ。あの閨は監視されていたのか。
「何を驚いておられるのですか。第二王子の間諜もすぐ傍にいるではございませぬか」
間諜。情報を盗む者。内通者。
思い当たる節がない。
「第二王子からは、医術に詳しい神女を……」
月神女はあからさまに顔をしかめる。
「えっ、なに。じゃあ薬を作ってくれたあの娘もそうなの? ……ああ、だからアガリエが心配して、毒見をするなんて言い出したのか」
ゼン様は恵まれた環境で育ったのですねと、意味深なことを言っていた。いま思えばあれは、ゼンが易々と第二王子の手の者を内に引き入れたことを皮肉っていたのか。
「でもアガリエと第二王子は同腹だって言ってたのに、間諜なんか忍び込ませる必要なんてあるかな」
「王家の歴史は血塗られているもの。母親が同じとて、信頼の置ける相手とはかぎりませぬ。特にアガリエは幼き頃から神女として優れていたゆえ、二の君にとっては扱いにくい妹姫であったことでしょう。世継ぎといえど、あの娘の機嫌を損ねてしまえば、次代の王に選ばれるのは他の王子であるやもしれぬのですから」
「王が月神女を選ぶのではなく、月神女が王を選ぶってことか?」
「無論、月神女を任命するのは王でございますとも。ですが時として月神女は王よりも強い力を持ち得ることがあるのです。政にも神事にも、そして民の心を惹きつけるためにも霊力は必要不可欠なものゆえに」
月神女は悠然と笑む。
「ひとつ、昔話をいたしましょう。かつて民から賢王と敬われた王がいたそうです。当時の月神女は王妹であったと伝わりますが、ある日突然、王の代替わりを行うよう神からのお告げを受けたと、皆の前で宣言したそうです」
「それで、王は?」
「最後には玉座を追われ、命を落としました」
神女として優れているアガリエがその気になれば、王位継承権がどうであれ、望む王子を神の名のもと次代の王に指名することができるというわけだ。
幼い頃から、と月神女は言った。
だとすれば次代の月神女になるために、神の嫁の座を狙ったという彼女の話は嘘になる。すでに彼女は彼女であるだけで、月神女にふさわしい実力を備えているのだ。
また、嘘か。
「イリは? 月神女になる可能性はないのか?」
「アガリエがいる限りその可能性は皆無でごさいましょう。その下の妹姫や、縁戚にあたる娘たちも同様に。資格はあれどアガリエとの力の差は明白です」
「あなたは? アガリエが不利になるような話をして、俺がどう動くことを願ってるの?」
月神女は静かに睫毛を伏せた。
「月神女が祈るのはいつの時代も国の安寧でございます。そして叶うならば王位継承がつつがなく終わるように、と。……ああ、今宵ばかりは、神と神嫁にはつつがなく床入りを終えて欲しゅうございますけれども」
「いや、うん。俺たちのことは祈らなくていいから」
「それはアガリエが神嫁として至らぬゆえでございますか?」
「そういうわけじゃないけどさ……」
「神よ。神が拒めば、アガリエの立場が悪くなるということは、ご理解いただいておりますでしょうか?」
座卓には茶器一式が用意されていた。月神女が手ずから茶を注ぐと、爽やかな花の香りが周囲に広がった。広く民草にまで好まれているマツリカの茶だ。
「王城とはさまざまな思惑が交差する場所なのでございます。ですからこうしてわたくしが淹れた茶を、皆の前で神が拒めば、皆はわたくしと神が仲違いをしていると思うことでしょう。あるいはわたくしを陥れたい者たちは、茶の中に毒が入っていたのだろうと囃し立て、王に申し上げるやもしれませぬ」
「俺はべつに疑ってないし、拒んだりもしない」
「ですがアガリエとの床入りは拒んだ、と?」
「違う。あれはイリがっ」
「ではイリが邪魔をしなければ、今宵こそ床入りする、と?」
是とは言えない。
けれど、否と、言ってもいけないのだと、ゼンはようやく理解した。
どこで誰が聞き耳を立てているかわかったものではないのだから、内輪の戯言だと高をくくってはいけない。そう月神女は苦言を呈しているのだ。
なんて息苦しい場所なのだろう。
「俺とアガリエが契りを結んでないってことは、この城にいる人たちはもうみんな知ってるのかな」
「昨夜最も注目された寝所でしたので、知っていて不思議はございませぬ。一言で寝所と申しましても、寝所を片付ける者、寝具を洗う者、夜着を用意する者、戸の外で控えている者、警備の者など無数の人間が関わっておりますゆえ、情報などどこからでも抜き取ることができましょう」
「もう誰を信じていいのかわからなくなってきた……」
差し出された茶器を覗き込む。実に情けない表情をした自分の顔がゆらゆらと揺れていて、思わず項垂れた。
アガリエもこんな気持ちだったのだろうか。
広い広い王城で、幼い頃からたくさんの目や耳に晒されて、些細な隠し事もままならない。
アガリエは平然とゼンに嘘を吐く。
ゼンはそのたびに憤ってきたけれど、彼女はもっと多くの嘘に囲まれて育ったのだ。
アガリエの願いを叶えたい。
けれど彼女はまだ心の底からゼンを信じることができていないのかもしれない。信じるに足る相手ではないから、本心を語らず、ただ神と崇めながら手駒のように利用する。
アガリエじゃなくて、問題は俺の方なのか、も?
彼女の嘘を見破ることができず、第二王子の間諜も易々と受け入れ、月神女に言われるままにアガリエを傍から遠ざける。あまつさえ傍仕えが自分たちを監視しているかもしれないなどと考えたこともなかった。神とされる自分の発言や態度が、相手の立場にどのように作用するのかも。
茶器が空になる頃、ゼンは部屋を辞した。
予想通り、戸の向こうではアガリエが憮然とした表情で待っていた。
これは珍しく本気で苛立っているのではないだろうか。座した彼女が上目遣いにこちらを見上げてくる。その瞳は実に剣呑だ。
「お顔の色が優れないご様子ですが、何かございましたか」
「大丈夫。きみの伯母上に御小言をもらっていただけだから。大したことないよ。あ、違う。ええと、そうじゃなくて、有意義な話だったから、問題ないよ」
「……急によそよそしくなって、どうされたのですか? 久々にわたくしをきみ、と呼びましたね」
「え? そう?」
思えばアガリエに振り回されて、猫をかぶっている余裕もなくなっていたが、彼女は気づいていたようだ。
しばらく一人になりたい。
けれどゼンが歩き出すとアガリエも当然のようについてくる。
そんな彼女に悪態を吐きたくなったが、つい背後を見やってしまった。
そうだ。後ろをついてくるのは何もアガリエだけではないのだ。
回廊を歩く時とて二人きりにはなれない。女官や護衛が幾人も連なってついてきている。彼らのうち何人が間諜で、何人がそうでないのかなんて、ゼンにわかるわけがない。
逃げ出したい。
でもつい先日も逃げ出して、タキに叱られたばかりだ。
言葉を選ぼうとして、選んで、でも間違えているような気がして、結局こぼれ出たのはあまりにも情けない溜息だった。
「……ちょっと、疲れたかも」
アガリエは食い入るようにゼンを見上げ、そしてしばし考え込んだかと思うと、驚きの提案をした。
「では墓参りといきましょうか」
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