10 / 57
第八話
しおりを挟む
自慢ではないが寝つきは良いほうだ。
そして太陽が昇るとともに自然と目が覚める。
しかし目が覚めると同時に昏倒しそうになったことは、いまだかつて経験がない。
音が聞こえそうなほど脈打つ心臓を押さえ、何とか悲鳴を飲み込む。体中の血流が逆走しそうだ。それほど驚き、混乱していた。
なんだってこんなことに!
これで何度目かわからない嘆きは、今朝も虚しくゼンの頭の中で響いた。
ゼンの左側に、アガリエ。
そして右側にはイリが静かに寝息を立ててそこにいた。
アガリエはまだしも、イリはおかしいだろ! 三人で朝を迎えるって……ありなのか?
いかんせんそちらの方面には知識が乏しい。
二人を起こさないように静かに深呼吸を重ね、強張った体を落ち着かせる。とにかく彼女たちの間から出よう。ここは危険な香りしかしない。
幸い寝台から降りるのは簡単だった。
その振動にマヤーだけが気づいたらしい。目を開け、ゆらりと尾を持ち上げる。そんなマヤーを腕に抱き上げ、戸口へ向かう。
廊下には女官、そして庭には衛兵が数人控えていた。
「おはよう。オルの……第一王子から俺あてに薬が届いてたりしないかな?」
「おそれながらマヤー様の薬であれば、わたくしがこちらにご用意しております」
「ああ、そうなんだ。ありがとう」
応じたのは第二王子が遣わしてくれた神女だ。手にしていた膳に薬湯が入った椀が載っている。
「でもオルも毎日届けてくれるって言ってたんだけど……」
「さようでございましたか。ですが今朝はまだ届いておらぬようです。処置が遅れては差し障りがございますので、どうぞこちらをお使いくださいませ」
神女から差し出された椀は実に豪奢だった。さすが王の城と言えばよいか、見事な細工が施されている。
それをマヤーに飲ませようとして、ふと手が止まった。
――いや、背後から伸びてきた手が無理やり止めたのだ。
振り返ると、夜着のままのアガリエがそこにいた。
「……おはよう」
「おはようございます。その薬、わたくしに毒見をさせていただけますか?」
「毒見? だってこれ薬なんだろ?」
「おそれながら申し上げます。主たる二の君の名に懸けて、毒など入ってはおりません」
「わたくしも兄上の臣であるそなたを疑っているわけではない。ただマヤーが侵されている毒については、誰よりもわたくしが一番よく知っている。つまりその毒を中和する薬についても一番理解しているのはわたくしだ。ゼン様、毒だと疑っているのではなく、薬の効能を確かめたいだけです。お許しいただけますね?」
特に問題はない。首肯すると、アガリエはゼンから受け取った椀をあおり、少しだけ口に含ませ、時間をかけて咀嚼した。
「問題ないだろ?」
「……はい」
「マヤー。ほら、飲んで。それで早く元気になってくれよ」
嫌がるマヤーの口内に無理やり薬を流し込む。苦いから薬は嫌いなのだ。けれど抵抗するだけの体力が戻ってきたのだと思うと、嫌がってゼンの指に牙を立てる姿も微笑ましい。
「よしよし。大丈夫。俺が傍にいるからな」
ぽんぽんと軽く背を撫でてやると、今度は肩口に嚙みつかれた。よほど不満らしい。
「姫様、あの……」
女官の一人がアガリエに何事かを耳打ちする。
「ゼン様。月神女カーヤカーナが、是非ともお会いしたいと申しているそうです。身支度を整えたら一緒に参りましょう」
「え、なに? 呼び出し? べつに悪いこと何にもしてないけど」
思わず及び腰になる。
するとアガリエが無言のまま距離を詰め、ゼンの耳元でそっと囁いた。
「マヤーの健康はゼン様の手にかかっているということをお忘れなく」
まだ脅す気か。
「……紫色じゃない着物を用意してくれるなら行く」
「では王も驚くほどの赤にしましょうか」
「冗談でもやめてくれ!」
「では紫で我慢してくださいね」
はたしてそれは我慢というのだろうか。
釈然としない気持ちで、けれどゼンは首を縦に振った。
*
月神女カーヤカーナは応接のための広間で待っていた。深く頭を垂れてゼンとアガリエを出迎える。
しばしの沈黙の後、ゼンは背後に控えるアガリエに促されて、ようやく気づいた。この城では顔を上げる動作ひとつにも許可が必要なのだった。
「ああ、ええと、顔を上げてくれるかな。直言も許す」
「恐悦至極にございます。この善き日に、いま一つ神にお頼み申し上げてもよろしゅうございますか?」
「なに?」
「二人きりでお話がしとうございます」
「うん。いいけど……」
後ろからアガリエが慌てた様子でゼンの袖を引いたが、時すでに遅し。
月神女は目元の皺を深め、揚々とした声でアガリエに命じた。
「アガリエ、お下がり」
「カーヤカーナ様。神はまだこの城に慣れておられません。おひとりにするわけには」
「その神が良いと仰せなのだ。無礼ぞ。控えよ」
アガリエはちらりとゼンを一瞥し、それ以上は何も言わずに部屋から出て行った。
どうやらこの二人の力関係は歴然のようだ。
いくつあるのか数えるのが億劫なほどある戸は、すべて開け放たれていて、廊下も石畳の庭も難なく一瞥することができる。射しこむ日差しとともに風が吹き、汗ばむ肌を撫ぜていった。
広く色鮮やかな装いの部屋に妙齢の月神女と二人きり。中央にある座卓をはさんで座す。上座はもちろんゼンだが、威圧感で言えば月神女のほうが圧倒的だった。
両手と頬には神女の紋様。艶やかな黒髪を高く結い上げ、すらりと伸びた珊瑚の簪を挿している。王の姉ということだから、壮年の王よりも年嵩なのだろうが、凛とした振る舞いは実に若々しい。
「ほんに情けないこと」
しかしそんな彼女の第一声は、地を這うように低い声だった。
「初夜を邪魔された挙句、先に寝入ってしまうなど、恥さらしもよいところでございます」
「ええー? 俺のせいなの? ていうか、なんで知ってるの?」
「ここはわたくしが治める斎場。わたくしの知らぬことなど何一つとしてございません」
なんてことだ。あの閨は監視されていたのか。
「何を驚いておられるのですか。第二王子の間諜もすぐ傍にいるではございませぬか」
間諜。情報を盗む者。内通者。
思い当たる節がない。
「第二王子からは、医術に詳しい神女を……」
月神女はあからさまに顔をしかめる。
「えっ、なに。じゃあ薬を作ってくれたあの娘もそうなの? ……ああ、だからアガリエが心配して、毒見をするなんて言い出したのか」
ゼン様は恵まれた環境で育ったのですねと、意味深なことを言っていた。いま思えばあれは、ゼンが易々と第二王子の手の者を内に引き入れたことを皮肉っていたのか。
「でもアガリエと第二王子は同腹だって言ってたのに、間諜なんか忍び込ませる必要なんてあるかな」
「王家の歴史は血塗られているもの。母親が同じとて、信頼の置ける相手とはかぎりませぬ。特にアガリエは幼き頃から神女として優れていたゆえ、二の君にとっては扱いにくい妹姫であったことでしょう。世継ぎといえど、あの娘の機嫌を損ねてしまえば、次代の王に選ばれるのは他の王子であるやもしれぬのですから」
「王が月神女を選ぶのではなく、月神女が王を選ぶってことか?」
「無論、月神女を任命するのは王でございますとも。ですが時として月神女は王よりも強い力を持ち得ることがあるのです。政にも神事にも、そして民の心を惹きつけるためにも霊力は必要不可欠なものゆえに」
月神女は悠然と笑む。
「ひとつ、昔話をいたしましょう。かつて民から賢王と敬われた王がいたそうです。当時の月神女は王妹であったと伝わりますが、ある日突然、王の代替わりを行うよう神からのお告げを受けたと、皆の前で宣言したそうです」
「それで、王は?」
「最後には玉座を追われ、命を落としました」
神女として優れているアガリエがその気になれば、王位継承権がどうであれ、望む王子を神の名のもと次代の王に指名することができるというわけだ。
幼い頃から、と月神女は言った。
だとすれば次代の月神女になるために、神の嫁の座を狙ったという彼女の話は嘘になる。すでに彼女は彼女であるだけで、月神女にふさわしい実力を備えているのだ。
また、嘘か。
「イリは? 月神女になる可能性はないのか?」
「アガリエがいる限りその可能性は皆無でごさいましょう。その下の妹姫や、縁戚にあたる娘たちも同様に。資格はあれどアガリエとの力の差は明白です」
「あなたは? アガリエが不利になるような話をして、俺がどう動くことを願ってるの?」
月神女は静かに睫毛を伏せた。
「月神女が祈るのはいつの時代も国の安寧でございます。そして叶うならば王位継承がつつがなく終わるように、と。……ああ、今宵ばかりは、神と神嫁にはつつがなく床入りを終えて欲しゅうございますけれども」
「いや、うん。俺たちのことは祈らなくていいから」
「それはアガリエが神嫁として至らぬゆえでございますか?」
「そういうわけじゃないけどさ……」
「神よ。神が拒めば、アガリエの立場が悪くなるということは、ご理解いただいておりますでしょうか?」
座卓には茶器一式が用意されていた。月神女が手ずから茶を注ぐと、爽やかな花の香りが周囲に広がった。広く民草にまで好まれているマツリカの茶だ。
「王城とはさまざまな思惑が交差する場所なのでございます。ですからこうしてわたくしが淹れた茶を、皆の前で神が拒めば、皆はわたくしと神が仲違いをしていると思うことでしょう。あるいはわたくしを陥れたい者たちは、茶の中に毒が入っていたのだろうと囃し立て、王に申し上げるやもしれませぬ」
「俺はべつに疑ってないし、拒んだりもしない」
「ですがアガリエとの床入りは拒んだ、と?」
「違う。あれはイリがっ」
「ではイリが邪魔をしなければ、今宵こそ床入りする、と?」
是とは言えない。
けれど、否と、言ってもいけないのだと、ゼンはようやく理解した。
どこで誰が聞き耳を立てているかわかったものではないのだから、内輪の戯言だと高をくくってはいけない。そう月神女は苦言を呈しているのだ。
なんて息苦しい場所なのだろう。
「俺とアガリエが契りを結んでないってことは、この城にいる人たちはもうみんな知ってるのかな」
「昨夜最も注目された寝所でしたので、知っていて不思議はございませぬ。一言で寝所と申しましても、寝所を片付ける者、寝具を洗う者、夜着を用意する者、戸の外で控えている者、警備の者など無数の人間が関わっておりますゆえ、情報などどこからでも抜き取ることができましょう」
「もう誰を信じていいのかわからなくなってきた……」
差し出された茶器を覗き込む。実に情けない表情をした自分の顔がゆらゆらと揺れていて、思わず項垂れた。
アガリエもこんな気持ちだったのだろうか。
広い広い王城で、幼い頃からたくさんの目や耳に晒されて、些細な隠し事もままならない。
アガリエは平然とゼンに嘘を吐く。
ゼンはそのたびに憤ってきたけれど、彼女はもっと多くの嘘に囲まれて育ったのだ。
アガリエの願いを叶えたい。
けれど彼女はまだ心の底からゼンを信じることができていないのかもしれない。信じるに足る相手ではないから、本心を語らず、ただ神と崇めながら手駒のように利用する。
アガリエじゃなくて、問題は俺の方なのか、も?
彼女の嘘を見破ることができず、第二王子の間諜も易々と受け入れ、月神女に言われるままにアガリエを傍から遠ざける。あまつさえ傍仕えが自分たちを監視しているかもしれないなどと考えたこともなかった。神とされる自分の発言や態度が、相手の立場にどのように作用するのかも。
茶器が空になる頃、ゼンは部屋を辞した。
予想通り、戸の向こうではアガリエが憮然とした表情で待っていた。
これは珍しく本気で苛立っているのではないだろうか。座した彼女が上目遣いにこちらを見上げてくる。その瞳は実に剣呑だ。
「お顔の色が優れないご様子ですが、何かございましたか」
「大丈夫。きみの伯母上に御小言をもらっていただけだから。大したことないよ。あ、違う。ええと、そうじゃなくて、有意義な話だったから、問題ないよ」
「……急によそよそしくなって、どうされたのですか? 久々にわたくしをきみ、と呼びましたね」
「え? そう?」
思えばアガリエに振り回されて、猫をかぶっている余裕もなくなっていたが、彼女は気づいていたようだ。
しばらく一人になりたい。
けれどゼンが歩き出すとアガリエも当然のようについてくる。
そんな彼女に悪態を吐きたくなったが、つい背後を見やってしまった。
そうだ。後ろをついてくるのは何もアガリエだけではないのだ。
回廊を歩く時とて二人きりにはなれない。女官や護衛が幾人も連なってついてきている。彼らのうち何人が間諜で、何人がそうでないのかなんて、ゼンにわかるわけがない。
逃げ出したい。
でもつい先日も逃げ出して、タキに叱られたばかりだ。
言葉を選ぼうとして、選んで、でも間違えているような気がして、結局こぼれ出たのはあまりにも情けない溜息だった。
「……ちょっと、疲れたかも」
アガリエは食い入るようにゼンを見上げ、そしてしばし考え込んだかと思うと、驚きの提案をした。
「では墓参りといきましょうか」
そして太陽が昇るとともに自然と目が覚める。
しかし目が覚めると同時に昏倒しそうになったことは、いまだかつて経験がない。
音が聞こえそうなほど脈打つ心臓を押さえ、何とか悲鳴を飲み込む。体中の血流が逆走しそうだ。それほど驚き、混乱していた。
なんだってこんなことに!
これで何度目かわからない嘆きは、今朝も虚しくゼンの頭の中で響いた。
ゼンの左側に、アガリエ。
そして右側にはイリが静かに寝息を立ててそこにいた。
アガリエはまだしも、イリはおかしいだろ! 三人で朝を迎えるって……ありなのか?
いかんせんそちらの方面には知識が乏しい。
二人を起こさないように静かに深呼吸を重ね、強張った体を落ち着かせる。とにかく彼女たちの間から出よう。ここは危険な香りしかしない。
幸い寝台から降りるのは簡単だった。
その振動にマヤーだけが気づいたらしい。目を開け、ゆらりと尾を持ち上げる。そんなマヤーを腕に抱き上げ、戸口へ向かう。
廊下には女官、そして庭には衛兵が数人控えていた。
「おはよう。オルの……第一王子から俺あてに薬が届いてたりしないかな?」
「おそれながらマヤー様の薬であれば、わたくしがこちらにご用意しております」
「ああ、そうなんだ。ありがとう」
応じたのは第二王子が遣わしてくれた神女だ。手にしていた膳に薬湯が入った椀が載っている。
「でもオルも毎日届けてくれるって言ってたんだけど……」
「さようでございましたか。ですが今朝はまだ届いておらぬようです。処置が遅れては差し障りがございますので、どうぞこちらをお使いくださいませ」
神女から差し出された椀は実に豪奢だった。さすが王の城と言えばよいか、見事な細工が施されている。
それをマヤーに飲ませようとして、ふと手が止まった。
――いや、背後から伸びてきた手が無理やり止めたのだ。
振り返ると、夜着のままのアガリエがそこにいた。
「……おはよう」
「おはようございます。その薬、わたくしに毒見をさせていただけますか?」
「毒見? だってこれ薬なんだろ?」
「おそれながら申し上げます。主たる二の君の名に懸けて、毒など入ってはおりません」
「わたくしも兄上の臣であるそなたを疑っているわけではない。ただマヤーが侵されている毒については、誰よりもわたくしが一番よく知っている。つまりその毒を中和する薬についても一番理解しているのはわたくしだ。ゼン様、毒だと疑っているのではなく、薬の効能を確かめたいだけです。お許しいただけますね?」
特に問題はない。首肯すると、アガリエはゼンから受け取った椀をあおり、少しだけ口に含ませ、時間をかけて咀嚼した。
「問題ないだろ?」
「……はい」
「マヤー。ほら、飲んで。それで早く元気になってくれよ」
嫌がるマヤーの口内に無理やり薬を流し込む。苦いから薬は嫌いなのだ。けれど抵抗するだけの体力が戻ってきたのだと思うと、嫌がってゼンの指に牙を立てる姿も微笑ましい。
「よしよし。大丈夫。俺が傍にいるからな」
ぽんぽんと軽く背を撫でてやると、今度は肩口に嚙みつかれた。よほど不満らしい。
「姫様、あの……」
女官の一人がアガリエに何事かを耳打ちする。
「ゼン様。月神女カーヤカーナが、是非ともお会いしたいと申しているそうです。身支度を整えたら一緒に参りましょう」
「え、なに? 呼び出し? べつに悪いこと何にもしてないけど」
思わず及び腰になる。
するとアガリエが無言のまま距離を詰め、ゼンの耳元でそっと囁いた。
「マヤーの健康はゼン様の手にかかっているということをお忘れなく」
まだ脅す気か。
「……紫色じゃない着物を用意してくれるなら行く」
「では王も驚くほどの赤にしましょうか」
「冗談でもやめてくれ!」
「では紫で我慢してくださいね」
はたしてそれは我慢というのだろうか。
釈然としない気持ちで、けれどゼンは首を縦に振った。
*
月神女カーヤカーナは応接のための広間で待っていた。深く頭を垂れてゼンとアガリエを出迎える。
しばしの沈黙の後、ゼンは背後に控えるアガリエに促されて、ようやく気づいた。この城では顔を上げる動作ひとつにも許可が必要なのだった。
「ああ、ええと、顔を上げてくれるかな。直言も許す」
「恐悦至極にございます。この善き日に、いま一つ神にお頼み申し上げてもよろしゅうございますか?」
「なに?」
「二人きりでお話がしとうございます」
「うん。いいけど……」
後ろからアガリエが慌てた様子でゼンの袖を引いたが、時すでに遅し。
月神女は目元の皺を深め、揚々とした声でアガリエに命じた。
「アガリエ、お下がり」
「カーヤカーナ様。神はまだこの城に慣れておられません。おひとりにするわけには」
「その神が良いと仰せなのだ。無礼ぞ。控えよ」
アガリエはちらりとゼンを一瞥し、それ以上は何も言わずに部屋から出て行った。
どうやらこの二人の力関係は歴然のようだ。
いくつあるのか数えるのが億劫なほどある戸は、すべて開け放たれていて、廊下も石畳の庭も難なく一瞥することができる。射しこむ日差しとともに風が吹き、汗ばむ肌を撫ぜていった。
広く色鮮やかな装いの部屋に妙齢の月神女と二人きり。中央にある座卓をはさんで座す。上座はもちろんゼンだが、威圧感で言えば月神女のほうが圧倒的だった。
両手と頬には神女の紋様。艶やかな黒髪を高く結い上げ、すらりと伸びた珊瑚の簪を挿している。王の姉ということだから、壮年の王よりも年嵩なのだろうが、凛とした振る舞いは実に若々しい。
「ほんに情けないこと」
しかしそんな彼女の第一声は、地を這うように低い声だった。
「初夜を邪魔された挙句、先に寝入ってしまうなど、恥さらしもよいところでございます」
「ええー? 俺のせいなの? ていうか、なんで知ってるの?」
「ここはわたくしが治める斎場。わたくしの知らぬことなど何一つとしてございません」
なんてことだ。あの閨は監視されていたのか。
「何を驚いておられるのですか。第二王子の間諜もすぐ傍にいるではございませぬか」
間諜。情報を盗む者。内通者。
思い当たる節がない。
「第二王子からは、医術に詳しい神女を……」
月神女はあからさまに顔をしかめる。
「えっ、なに。じゃあ薬を作ってくれたあの娘もそうなの? ……ああ、だからアガリエが心配して、毒見をするなんて言い出したのか」
ゼン様は恵まれた環境で育ったのですねと、意味深なことを言っていた。いま思えばあれは、ゼンが易々と第二王子の手の者を内に引き入れたことを皮肉っていたのか。
「でもアガリエと第二王子は同腹だって言ってたのに、間諜なんか忍び込ませる必要なんてあるかな」
「王家の歴史は血塗られているもの。母親が同じとて、信頼の置ける相手とはかぎりませぬ。特にアガリエは幼き頃から神女として優れていたゆえ、二の君にとっては扱いにくい妹姫であったことでしょう。世継ぎといえど、あの娘の機嫌を損ねてしまえば、次代の王に選ばれるのは他の王子であるやもしれぬのですから」
「王が月神女を選ぶのではなく、月神女が王を選ぶってことか?」
「無論、月神女を任命するのは王でございますとも。ですが時として月神女は王よりも強い力を持ち得ることがあるのです。政にも神事にも、そして民の心を惹きつけるためにも霊力は必要不可欠なものゆえに」
月神女は悠然と笑む。
「ひとつ、昔話をいたしましょう。かつて民から賢王と敬われた王がいたそうです。当時の月神女は王妹であったと伝わりますが、ある日突然、王の代替わりを行うよう神からのお告げを受けたと、皆の前で宣言したそうです」
「それで、王は?」
「最後には玉座を追われ、命を落としました」
神女として優れているアガリエがその気になれば、王位継承権がどうであれ、望む王子を神の名のもと次代の王に指名することができるというわけだ。
幼い頃から、と月神女は言った。
だとすれば次代の月神女になるために、神の嫁の座を狙ったという彼女の話は嘘になる。すでに彼女は彼女であるだけで、月神女にふさわしい実力を備えているのだ。
また、嘘か。
「イリは? 月神女になる可能性はないのか?」
「アガリエがいる限りその可能性は皆無でごさいましょう。その下の妹姫や、縁戚にあたる娘たちも同様に。資格はあれどアガリエとの力の差は明白です」
「あなたは? アガリエが不利になるような話をして、俺がどう動くことを願ってるの?」
月神女は静かに睫毛を伏せた。
「月神女が祈るのはいつの時代も国の安寧でございます。そして叶うならば王位継承がつつがなく終わるように、と。……ああ、今宵ばかりは、神と神嫁にはつつがなく床入りを終えて欲しゅうございますけれども」
「いや、うん。俺たちのことは祈らなくていいから」
「それはアガリエが神嫁として至らぬゆえでございますか?」
「そういうわけじゃないけどさ……」
「神よ。神が拒めば、アガリエの立場が悪くなるということは、ご理解いただいておりますでしょうか?」
座卓には茶器一式が用意されていた。月神女が手ずから茶を注ぐと、爽やかな花の香りが周囲に広がった。広く民草にまで好まれているマツリカの茶だ。
「王城とはさまざまな思惑が交差する場所なのでございます。ですからこうしてわたくしが淹れた茶を、皆の前で神が拒めば、皆はわたくしと神が仲違いをしていると思うことでしょう。あるいはわたくしを陥れたい者たちは、茶の中に毒が入っていたのだろうと囃し立て、王に申し上げるやもしれませぬ」
「俺はべつに疑ってないし、拒んだりもしない」
「ですがアガリエとの床入りは拒んだ、と?」
「違う。あれはイリがっ」
「ではイリが邪魔をしなければ、今宵こそ床入りする、と?」
是とは言えない。
けれど、否と、言ってもいけないのだと、ゼンはようやく理解した。
どこで誰が聞き耳を立てているかわかったものではないのだから、内輪の戯言だと高をくくってはいけない。そう月神女は苦言を呈しているのだ。
なんて息苦しい場所なのだろう。
「俺とアガリエが契りを結んでないってことは、この城にいる人たちはもうみんな知ってるのかな」
「昨夜最も注目された寝所でしたので、知っていて不思議はございませぬ。一言で寝所と申しましても、寝所を片付ける者、寝具を洗う者、夜着を用意する者、戸の外で控えている者、警備の者など無数の人間が関わっておりますゆえ、情報などどこからでも抜き取ることができましょう」
「もう誰を信じていいのかわからなくなってきた……」
差し出された茶器を覗き込む。実に情けない表情をした自分の顔がゆらゆらと揺れていて、思わず項垂れた。
アガリエもこんな気持ちだったのだろうか。
広い広い王城で、幼い頃からたくさんの目や耳に晒されて、些細な隠し事もままならない。
アガリエは平然とゼンに嘘を吐く。
ゼンはそのたびに憤ってきたけれど、彼女はもっと多くの嘘に囲まれて育ったのだ。
アガリエの願いを叶えたい。
けれど彼女はまだ心の底からゼンを信じることができていないのかもしれない。信じるに足る相手ではないから、本心を語らず、ただ神と崇めながら手駒のように利用する。
アガリエじゃなくて、問題は俺の方なのか、も?
彼女の嘘を見破ることができず、第二王子の間諜も易々と受け入れ、月神女に言われるままにアガリエを傍から遠ざける。あまつさえ傍仕えが自分たちを監視しているかもしれないなどと考えたこともなかった。神とされる自分の発言や態度が、相手の立場にどのように作用するのかも。
茶器が空になる頃、ゼンは部屋を辞した。
予想通り、戸の向こうではアガリエが憮然とした表情で待っていた。
これは珍しく本気で苛立っているのではないだろうか。座した彼女が上目遣いにこちらを見上げてくる。その瞳は実に剣呑だ。
「お顔の色が優れないご様子ですが、何かございましたか」
「大丈夫。きみの伯母上に御小言をもらっていただけだから。大したことないよ。あ、違う。ええと、そうじゃなくて、有意義な話だったから、問題ないよ」
「……急によそよそしくなって、どうされたのですか? 久々にわたくしをきみ、と呼びましたね」
「え? そう?」
思えばアガリエに振り回されて、猫をかぶっている余裕もなくなっていたが、彼女は気づいていたようだ。
しばらく一人になりたい。
けれどゼンが歩き出すとアガリエも当然のようについてくる。
そんな彼女に悪態を吐きたくなったが、つい背後を見やってしまった。
そうだ。後ろをついてくるのは何もアガリエだけではないのだ。
回廊を歩く時とて二人きりにはなれない。女官や護衛が幾人も連なってついてきている。彼らのうち何人が間諜で、何人がそうでないのかなんて、ゼンにわかるわけがない。
逃げ出したい。
でもつい先日も逃げ出して、タキに叱られたばかりだ。
言葉を選ぼうとして、選んで、でも間違えているような気がして、結局こぼれ出たのはあまりにも情けない溜息だった。
「……ちょっと、疲れたかも」
アガリエは食い入るようにゼンを見上げ、そしてしばし考え込んだかと思うと、驚きの提案をした。
「では墓参りといきましょうか」
0
あなたにおすすめの小説
無能妃候補は辞退したい
水綴(ミツヅリ)
ファンタジー
貴族の嗜み・教養がとにかく身に付かず、社交会にも出してもらえない無能侯爵令嬢メイヴィス・ラングラーは、死んだ姉の代わりに15歳で王太子妃候補として王宮へ迎え入れられる。
しかし王太子サイラスには周囲から正妃最有力候補と囁かれる公爵令嬢クリスタがおり、王太子妃候補とは名ばかりの茶番レース。
帰る場所のないメイヴィスは、サイラスとクリスタが正式に婚約を発表する3年後までひっそりと王宮で過ごすことに。
誰もが不出来な自分を見下す中、誰とも関わりたくないメイヴィスはサイラスとも他の王太子妃候補たちとも距離を取るが……。
果たしてメイヴィスは王宮を出られるのか?
誰にも愛されないひとりぼっちの無気力令嬢が愛を得るまでの話。
この作品は「小説家になろう」「カクヨム」にも掲載しています。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
『婚約破棄された悪役令嬢ですが、嫁ぎ先で“連れ子三人”の母になりました ~三人の「ママ」が聞けるまで、私は絶対に逃げません~』
放浪人
恋愛
「母はいりません」と拒絶された悪役令嬢が、最強の“ママ”になるまでの物語。
「君のような可愛げのない女は、王妃にふさわしくない」
身に覚えのない罪で婚約破棄され、“悪役令嬢”の汚名を着せられたクラリス。 彼女が新たに嫁いだのは、北方の辺境を守る「氷の公爵」ことレオンハルト・フォン・グレイフだった。
冷え切った屋敷で彼女を待っていたのは、無表情な夫と、心に傷を負った三人の連れ子たち。 「僕たちに、母はいりません」 初対面で突きつけられた三つの拒絶。しかし、クラリスは諦めなかった。
「称号はいりません。私が欲しいのは――あなたたち三人の『ママ』になれる日だけです」
得意の生活魔法『灯(ともしび)』で凍えた部屋を温め、『鎮(しずめ)』の歌で夜泣きを癒やし、家政手腕で荒れた食卓を立て直す。 クラリスの献身的な愛情は、頑なだった子供たちの心を解きほぐし、やがて不器用な夫の氷の心さえも熱く溶かしていく。
これは、不遇な悪役令嬢が「最強の母」となり、家族を脅かす元婚約者や魔獣たちを華麗に撃退し、最愛の家族から「ママ」と呼ばれるその日までを綴った物語。
女神の白刃
玉椿 沢
ファンタジー
どこかの世界の、いつかの時代。
その世界の戦争は、ある遺跡群から出現した剣により、大きく姿を変えた。
女の身体を鞘とする剣は、魔力を収束、発振する兵器。
剣は瞬く間に戦を大戦へ進歩させた。数々の大戦を経た世界は、権威を西の皇帝が、権力を東の大帝が握る世になり、終息した。
大戦より数年後、まだ治まったとはいえない世界で、未だ剣士は剣を求め、奪い合っていた。
魔物が出ようと、町も村も知った事かと剣を求める愚かな世界で、赤茶けた大地を畑や町に、煤けた顔を笑顔に変えたいという脳天気な一団が現れる。
*表紙絵は五月七日ヤマネコさん(@yamanekolynx_2)の作品です*
死んだはずの貴族、内政スキルでひっくり返す〜辺境村から始める復讐譚〜
のらねこ吟醸
ファンタジー
帝国の粛清で家族を失い、“死んだことにされた”名門貴族の青年は、
偽りの名を与えられ、最果ての辺境村へと送り込まれた。
水も農具も未来もない、限界集落で彼が手にしたのは――
古代遺跡の力と、“俺にだけ見える内政スキル”。
村を立て直し、仲間と絆を築きながら、
やがて帝国の陰謀に迫り、家を滅ぼした仇と対峙する。
辺境から始まる、ちょっぴりほのぼの(?)な村興しと、
静かに進む策略と復讐の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる