魔の女王

香穂

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第二三話

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「はい、もう動いてもよろしいですよ」

 アガリエのその言葉を契機に、ゼンは肩から力を抜いて座り込んだ。だらしなく足を延ばして後ろ手をつく。

 後を片していたアガリエが渋面になる。

「せっかく着付けたのに、そのように仏頂面では台無しではありませんか」

「アガリエだって嬉しくなんかないくせに」

「そのようなことはございませんよ」

 誰かに着付けてもらわなければならないような大層な着物に袖を通したのは、王母主催の茶会に招かれたからだ。

 その衣の色が赤というのも気に喰わない。

 ゼンがまとう赤は、神であると示めすためのもので、立ち振る舞いにも言葉にも気を付けなければ、思わぬところで波紋を広げてしまうことになる。それが心底嫌だ。

 それもあって王母からの宴の誘いも断り続けていたのだが、それならば茶会はどうかということになったらしい。

 さすがにこれ以上断るのは体裁が悪いとアガリエが言うので、渋々参加すると頷いたものの、やはり気乗りはしない。

 むしゃくしゃして頭をかきむしると、結ったばかりなのに、とまたアガリエにたしなめられてしまった。

「飢饉で民が苦しんでるって時に、なんで茶会なんか……」

「気晴らしでもなさりたいのでしょう。さあ、そのように不貞腐れていないで、しゃんとなさってください。そろそろ参りますよ」

 アガリエを伴って廊下を進む。その前後を女官や神女、護衛の隊士やら守人やらがぞろぞろと続くので、目立ってしかたがない。

 ふだんは屋根の上を歩くことが多いため、廊下を何度も曲がって案内された先が奥御殿のどこなのか、皆目見当もつかなかった。王城は隅々まで装飾や手入れが行き渡っており、城の中枢でも端のほうにある部屋でも、ゼンの目には変わりなく映るので厄介だ。一体今どこを歩いて、どこへ向かっているのだろう。

 やがて板間の向こうに石畳の庭が見えた。

 四方を建物に囲まれたその庭の中央には石舞台があった。あれほど広範囲に平らな面を持つ巨岩は珍しい。神を招くとされても不思議はないような立派な岩だ。

 どこからともなく弦の音が聴こえてくる。

 周囲に視線をめぐらせると、庭の片隅に楽師が控えていた。隣にいるのは舞い手だろうか。舞台映えする色鮮やかな衣装に、目鼻立ちをくっきりとさせる艶やかな化粧。にこりと微笑む姿が妙に華やかで目が留まる。

 これは本当に茶会だろうか。

「まあまあ、ゼン様。ようこそお越しくださいました。さあさ、こちらへいらしてくださいまし」

 上機嫌な声は王母のものだ。

 傍らにはまだ面差しに幼さが残る王が座している。まとっているのは無論、ゼンと同じ最高位を示す赤の衣だった。

「……これのどこが茶会だよ」

「ゼン様、皆に聞こえます」

 ゼンとアガリエはしばし無言で睨み合う。

 けれどそうしていても何も始まらない。何事かと戸惑い不安がる周囲の視線も痛い。

 ここでゼンが帰れば大騒ぎになるのは目に見えている。体裁を気にして出席するのに、逆に騒ぎになるのはアガリエとしては望まないことだろう。ゼンも彼女に迷惑をかけるのは避けたい。

 となると大変不服だが、帰るという選択肢はないようだ。

 かくなる上はさっさと終わらせて帰るしかない。

 ゼンが王の隣に腰を下ろすと、その向こう側で王母は満足そうに微笑んだ。

 彼女が述べる儀礼的な謝辞やなんかはゼンの耳にからするすると抜けていってしまう。軽やかな声が耳障りだとさえ思うほどには、ゼンは彼女が苦手だった。

 石舞台の上に踊り子が立つ。その赤い唇から朗々と紡がれるのは、古より伝わる王国の繁栄を希う唄だ。いつの世までも末永く安寧であるように、と祈るのは、今も昔も変わりないらしい。

 歌声を追うように弦楽器が鳴り響く。そこに笛や鈴の音が加わり、茶会は一気に華やかな雰囲気になった。

 目の前に次々と運ばれる料理の山を睥睨しながら、ゼンは正面を向いたまま隣に座すアガリエに呟いた。

「宴だって知ってたら来なかったのに」

「一応、並んでいるのは茶菓子ばかりのようですけれど。ゼン様、お気持ちはお察しいたします。ですがどうか食事に箸をつけてください」

「食べたくない」

 アガリエは朱塗りの小皿を手に取ると、菓子の山からいくか選び、それをひとつひとつ丁寧に盛ってゆく。

「ゼン様がこの料理に一切口をつけないとなると、誰が罰せられるとお思いですか?」

 罰するのは王ではなく、この宴を主催した王母だろう。

 では、その罰を受けるのは誰か。

「神のお口に合わない料理を作った者も、膳を並べた者も、もしかしたら今あそこで舞っている娘も、罰を受けるかもしれません。何よりゼン様が食べなかったからといって、ここにある食べ物が民に下賜されることはないのですから、せめてこの宴に関わる者のために、充分な歓待を受けて満足であると示してやってください」

 はい、と小皿を差し出される。

 菓子はどれも色鮮やかで、芳醇な果物の香りは食指をくすぐる。飢饉に苦しむこの国の一体どこにこれほどの食糧があったのか。

 添えられていた箸を手に取り、菓子を口に運ぶ。

 美味しい。けれど租借するのに随分と労力を要した。これだけの食糧があれば失われゆく命を、一体どれだけ救うことができたかと、どうしても考えてしまう。

 ――まるで砂を食べているかのようだ。

 箸を進めるほど、体が冷たい水底に沈んでゆくように感じる。

「美味しい」

 あえて周囲に聞こえるように呟くと、王母は無邪気に喜んだ。

「それはようございました。さあ、酒も選りすぐりのものをご用意しております。どうぞご堪能くださいませ」

 酒器を持つ王母の手には紋様がある。左の頬にもだ。

 その紋様が月神女カーヤカーナにのみ許されたものであることは、この場にいる誰もが知っているであろうに、表立って指摘する者はいない。

 勧められるままに酒器を傾け、ちらりと横目で王を盗み見る。

 そこに座す王は偽物だ。

 よく似た容貌だが、まとう気配の違いから、影武者の少年だとゼンにはわかる。

 王の身に危険が及ばないように影武者を立てているのかもしれない。けれど即位式でさえ皆が王と崇めていたのは、この影武者の少年だった。本物の王はどこにいるのだろう。

 音楽の流れが変わり、踊り子がまとう薄布を一枚脱いだ。演目が変わるようだ。

「美しい娘でございましょう。神よ、あの娘は神の目にはどのように映るのでしょうか」

 正直なところ女性の造形の美しさについて、ゼンはさして興味がない。なにしろ故郷では身近にいる女性といえば姉弟子だけだった。姉弟子のことは綺麗だと思うが、この島で出会う女性もゼンには大抵可愛く見えている。ただしその可愛さに上下をつけろと言われても、よくわからない。

 そもそもゼンは公の場で好みを言うのは避けている。なんでもかんでも神のお墨付きだと言われてはかなわない。

 どうしたものかと思案して、ひとまず隣の王に話の矛先を向けてみた。

「王は? どう思う?」

「……カーヤカーナと同じ意見である」

 なんと驚くほど無難な返答だった。

「ではあの娘をこちらへ呼びましょう。そこな者、王の御前へ……」

「お待ちください!」

 突如、割って入った声に驚き、楽の音が止まる。

 王の前に飛び出してきたのは、イリだった。

 アガリエと瓜二つの容貌が今は面やつれ、緑の黒髪にも艶がない。

 彼女を見た途端、王母の表情が険しくなった。

「またこのように贅沢な宴を開いて! カーヤカーナ様はこの国がいかに困窮しているのか、いつになれば理解していただけるのでしょうか」

「誰じゃ、この者を通したのは。イリ、王の御前であるぞ。控えよ」

「いいえ! 今日こそはお聞き入れいただきますわ!」

 イリは近寄る隊士の手を振りほどき、まるで毛を逆なでた猫のように周囲を威嚇するが、その程度で怯んでいては隊士の名折れだろう。じりじりと追いつめられながらも彼女は懸命に訴えていた。

 大きなその眸には涙が浮かんでいる。

「義母君、我が国はいま未曽有の災厄に見舞われているのです。あなた様が卓を賑わせるためだけに作らせ、箸もつけずに捨ててしまわれるその菓子があれば、一体どれほどの民を救えるか、どうか今一度お考えください! 民は国の礎。民なくして国は成り立ちません。そしてわたくし達は民を救うべき立場にあるのです。お願いですから城の外をご覧になって!」

「外なら、そなたが見ればよいではないか」

 王母はゆったりとした仕草で菓子をひとつ手に取り、にこりと笑った。その指の間で菓子がはかなく崩れ落ち、床に散らばる。

「そこまで言うのであれば、そなたが見ればよい。月神女カーヤカーナの名において、今ここで、西の神女イリの任を解いてやろうではないか。さあ、そなたは自由だ。どこへなりと行くがよい」

 呆然とするイリの腕を隊士が捕らえ、後ろにひねりあげる。彼女は先王の娘であるのに、地面に膝をつかされるその姿はまるで罪人であるかのようだ。

 痛みにうめきながらも彼女は叫んだ。

「王よ、どうか民の声を聞いてください! わたくし達にはやるべきことが、王族としてやらねばならぬことがあるはずです!」

「連れて行け」

 両側から隊士に抑えつけられては、イリの細腕ではどう足掻いても抵抗できない。

 引きずられてゆく彼女を前に、ゼンは己の愚かさを悟った。

 隣にいるアガリエがこちらを見つめている。それがわかる。事を荒立てるなと、無言で伝えている。

 それでも我慢ならなかった。

「ごめん。アガリエ」

「なりません」

「でもさ、俺にはイリの言ってることは正しいように聞こえた。ここで黙ってたら、たしかに騒ぎにならずにすむのかもしれないけど、……それって保身のためにイリを見捨てるってことだろ。そんなことしたら俺、アオヌスマに二度と帰れなくなる」

 ゼンは裸足のまま庭へ降りると、イリを捕らえていた隊士たちの後ろ首を手刀で打った。息が詰まった隊士の手が緩む。その隙に彼らの手からイリを奪い取る。

 王母の表情が険しくなる。

「神よ。お戯れはほどほどになさいまし。その者に情けをおかけになる必要はございませんわ」

「情けなんかじゃない。俺はここにいる誰よりイリの言うことが正しいと思う。ごめんな、イリ。周りのことばっかり気にして、俺きっと大切なことを見誤ってた。一人で頑張らせてごめん」

 イリの顔がくしゃくしゃに歪む。とめどなく流れる涙に、その薄汚れた姿に、彼女が一人でどれほど苦しんできたのかが窺い知れて、よけいに胸が苦しくなった。

 いつからだろう。人目を気にし、聞き耳を恐れ、知らず知らずのうちに自ら行動を制限するようになっていた。

 指笛を吹く。

 どこからともなく駆け寄ってきたのはマヤーだ。

 ゼンの傍らで猫のようだった体躯が瞬く間に巨大化する。

 その背にイリを乗せると、ゼンはまっすぐに王母を見据えた。

「――カーヤカーナ、きみが王母ではなく月神女を名乗るのなら、その名に見合った行いをすべきだ。このままではこの国の行く末は明るくない」

 呪詛にも似た言葉だ。

 その自覚がある。

 それでも止めることはできなかった。

「きみの王が国を生かすのか、それとも滅ぼすのか。選ぶ時が来たんだよ」









 王母はすぐさまゼンとイリに追っ手を差し向けた。

 俄かに騒々しくなる周囲とは裏腹に、王母とアガリエの間には長い沈黙が横たわっていた。

 先に動いたのは王母だ。

 ぱん、と空気を打ったような音が静寂を割る。アガリエの頬は赤く腫れていた。

「誰ぞ、この娘を捕らえよ!」

 王母の命令に背くことができる者はこの場にはいない。

 アガリエは静かに瞳を閉じた。

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