魔の女王

香穂

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幕間 シシ

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 その村では時折、赤毛の子が生まれる。

 赤毛の子は神の子だ。

 人と神とが今よりもっと近くに住んでいた頃のこと、浜辺にひとりの娘が流れ着いた。

 娘の髪は、水平線に沈む夕日のように赤かった。

 赤は破魔の色だ。

 金緑の瞳に白い肌、言葉を解さない彼女を村人は海神が遣わした神の子だと崇めた。

 やがて娘は村の男との間に子をもうけた。

 生まれた子は見事な赤毛で、以来娘の子孫に赤毛は受け継がれていたが、それも長くは続かない。

 子孫が増えるにつれて、黒髪を持って生まれる子が増えた。

 確率の問題だ。一族が赤毛であろうと、伴侶とする者はみな黒髪なのだから、当然黒髪の子も生まれる。

 そんな折、村を嵐が襲った。

 娘の子孫は赤毛を失いつつあるが、すでに巫覡の一族として確固たる地位を築いていた。

 彼らは三日三晩祈り続けた。

 やがて嵐が過ぎ去り、村人が数日ぶりに晴天を仰いだ時、一族の中でも最も色濃く赤毛を受け継いでいた娘が姿を消していた。

 どこを探しても見つからない。

 一族の長は村人を前にして告げた。

 娘はその身を神に捧げることで、嵐を鎮めたのだと。

 もとより海神に遣わされた娘の子孫だ。海神の下に還ったのであろうと村人は信じ、それまで以上に一族を崇めた。

 以来、神の怒りを鎮めるために、赤毛を差し出すことが村の慣例となった。

 それには赤毛の血筋を維持する必要がある。

 同族婚が行われるようになり、兄が赤毛の妹を妻として娶り、生まれた赤毛を近親の男に嫁がせるなど、血を濃くするための婚姻が幾度も繰り返された。

 けれどそうした努力も空しく、赤毛の継承は何度も危うい時期を迎えた。何年にもわたり黒髪の子しか生まれないこともあれば、せっかく赤毛が生まれても体が弱く短命であったり、村の危機に際して供物として捧げなくてはならず、結局その血を一族に遺すことなく村から姿を消したりした。

 そうした中でも時折、先祖返りと言われるほど色濃い赤毛の子が生まれる。

 数年ぶりに赤毛を持って生まれたその子が目を開けた時、村人は恐れおののいた。

 その双眸は陽光を受けると金色にも見える深い緑。

 赤毛の始祖である娘と同じ色だったのだ。

 長じるにつれて赤さが増すその髪に、村の誰もが次の供物はこの子で決まりだと囁き、一族の長は成人すると同時に妻を娶らせる算段を取りつけ、まだ幼いうちからこんこんと言い聞かせた。

 お役目を全うする前に、その血を次代に繋ぐことがそなたの使命である、と。

 まだ長時間正座をして、じっとしているのもつらい年頃のことだ。

 ああ、そういうことだったのか。長の話に少年は心当たりがいくつもあった。

 両親が健在にもかかわらず長の家に預けられていること。身の回りの世話をする女性は年上ばかりで、こぞって寵を得ようと閨に忍び込んでくること。些細な怪我で皆が大慌てすること。

 すべては赤毛ゆえだったのだ。

 そんなわけで遊び相手には事欠かなかった。

 人妻であろうと誰であろうと、望めばどんな女でも閨に侍る。女たちにとって赤毛の寵を得ることは何より尊いこととされ、拒んで赤毛の不興を買えば村では生きていくことさえできない。

 そして村を出るということは、すなわち死を意味する。

 小さな集落に住む彼らにとっては、隣村でさえ踏み込んではいけない異境のようなものだった。





 そんな辺境の村に、彼らは突然現れた。

 王の使者だ。

「この村には類稀なる巫覡の力を持つ者がいると聞く。我らは王命により、その者を迎えに参った」

 災厄が村を襲うたび、赤毛を供物として捧げてきた者たちだ。赤毛の少年を差し出すことに抵抗はなかった。

 来るべき時が来ただけのことだ。ただそれが思うより早く、少年の子種を村に遺すことができなかったのは無念でならないが、災厄を前には致し方ないことだと誰もが納得した。

 こうして少年は王に献上され――そのまま王に目通りすることなく下賜された。





「きれいな赤い髪」

「姫様、危のうございます。近づいてはなりませんよ」

「なにが危ないと? それ、おとなしいものではないか。このようにひ弱では、わたくしをさらうこともできまい」

 姫と呼ばれた幼子は、正座する少年の膝にちょこんと腰かけた。床に届くほど長く伸びた赤毛に触れ、両手に取ると、不思議そうに見つめている。

 膝が痛い。

 蝶よ花よと育てられた少年は、小柄な姫の体重を支えるのもやっとの有様で、まさにひ弱だった。

 姫は無邪気なものだ。結ってやろう、と申し出ると、許可も得ずに無造作に流れる赤毛を手櫛でまとめてゆく。乳母らしき老女や城主と名乗る男がやんわりと止めるが聞く耳を持たない。

「そなた、名は?」

「んなもんねえよ。名があると魔物に魅入られっかんな」

「待て!」

 膝の上にいた幼い姫が急に声を荒げたので驚いた。

 何事かと見やれば、城主の傍らにいた隊士が抜刀している。その切っ先がなぜこちらに向けられているのか少年にはわからない。

 けれど姫にはわかるらしい。

 もっともらしい顔つきで、隊士ではなく城主を睨みつけている。

「まだ分別もわからぬようなこどもだ。この場は見逃してやるがよい」

「ですが一の姫様になんと無礼な物言いを!」

「わたくしが良いというておる。そうだ、そなたはこれより武術を学ぶがよい。さすればそのひ弱な体も強くなろうというもの。礼儀作法も言葉遣いも身につくであろうしな。名案であろう」

 己より十は年下の娘に、分別がないと言われて腹立たしかった。

 しかも小生意気なその娘のせいで、少年は翌日から武術の鍛錬を義務付けられることとなった。

 王の使者に伴われて村から出た時、供物として王に捧げられるのだからと死を覚悟した。

 それなのに現実はどうだ。

 土と汗にまみれ、体力の限界を迎えて地面に伏してなお、立ち向かって来いと屈強な武人たちに煽られる。そのくせ立ち上がるとまた次の稽古がはじまるのだ。

 村にいた頃とは違う過酷で、なんの面白味もない生活に、少年は嫌気がさしていた。

 村に帰りたい。

 日に日に思いが勝り、ついに新月を迎えたその日、夜陰に紛れて部屋から抜け出した。

 ともに稽古を積む同年代の男子が十人ほどつめこまれた相部屋だったが、誰も彼も日々の鍛錬で疲れ果てているため眠りが深い。

 このまま無事城の外に出ることができれば、皆が起き出してくるまで脱走したことに気づかれることはないはずだ。

 巡回中の隊士の目をかいくぐり、床下や庭を横切ってゆく。

 ――しかし。

 なしてだ! なして外に出られねんだよ!

 迷子になるのに時間はそうかからなかった。

 複雑に入り組んだ回廊。高い塀。夜間だというのに煌々と灯された松明。そのどれもが少年の行く手を阻んだ。極めつけは定期的に場内を見回っている隊士だ。見つかったらただでは済まない。

 それなのにすでに戻り方もわからない。

 赤毛が目立たないように濃紺の布を巻いた頭を抱える。

 そんな少年の耳に泣き声が聞こえてきた。幼い子が癇癪を起して泣く時の、あの身も蓋もない盛大な泣き方だ。

 この城であんな風に泣けるのは王の娘であり、西の神女としてこの地にやってきた、あの姫しかいない。

 初めて会った時は誰ともわからずにいたが、あの姫はとてつもなく凄い地位にあるらしい。王の娘らしい。しかも長女、一の姫らしい。そしてこの城の一番偉い神女らしい。……聞いた話ばかりなので、らしいと曖昧なことしかわらかないが。

 そうだ。あの姫の一言で武術を学ばされるはめになったのだから、どうにか説得して、武術の稽古をせずにすむよう取り計らってもらえばいい。村に帰れずとも、ともかくこのつらい現状を打破できれば良い。うん、そうだ。それで良しとしよう。

 声を頼りに進む。

 姫は家屋から離れたところにある、石造りの露台で泣いていた。

 周囲に目を配るが、石壁の向こうに防風林が風に揺れるばかりで、四六時中傍にいる護衛の姿はない。

 どうやら本当にひとりきりのようだ。

 なんて不用心な。仮にも王家の姫であるのに、このような夜更けにひとりにするとは。

 などと思案に耽っていたら捕らえられた。

 しかも姫がわざわざ王都から連れて来た女性の武人であるクムイに。どうやら距離を取って警護をしていたらしい。

 間抜けにもほどがある!

 後ろ手に縛りあげられ、頭に巻いていた布を乱雑に取り上げられる。抵抗しようとすると髪を引っ張られ、地面に体ごと押さえつけられた。

 小さな足音が駆けてくる。姫だ。

「そなた、なにをしておるのだ。……家が恋しくなったのか?」

「んなわけっ、なかろ」

 背にくくりつけた荷を見てそう判断したらしい。

 でもな、と姫は涙に濡れた頬をぬぐいながら言った。

「かわいそうだが、そなたはもう家には戻れないぞ。わたくしといっしょでな。それでも帰るというなら、帰してやろう。手をはなしてやれ」

 幼い姫の命令に、クムイは易々と従った。

「父王はそなたのめずらしい赤毛に興味をひかれて、わたくしの婿にしようとお考えになられたのだ。だからそなたが逃げ出せば、父王はお怒りになる。そなたの村を攻め滅ぼしてしまうかもしれん。それにな、きっとそなたを村から譲り受けたとき、父王は村に相応のほうびを渡しているから、村のものたちも戻ってきたそなたを快く受けいれはしないであろう」

「……なしてそげなことに」

「神の怒りを鎮める供物。その赤毛が、父王は手駒としてほしいのだ。だからわたくしに産めと、そう仰せなのだ」

「んなこと言ってもよ、だっておまえさんが姫だろ? 王様は自分の娘が産んだ子を、赤毛だからって供物にするつもりなんか?」

「そのとおり。王家の血筋と、赤毛の神の末裔の婚姻は、願ってもないことなのだそうだ。それにわたくしは神女としての力が弱いから、兄が王になっても、月神女にはなれない。だから用無しなのだ……ううっ」

 姫の大きな瞳から涙があふれだす。

「ええっ、あんだよ? 何事だべ?」

「いもうとがっ」

「あん? 妹?」

 己の不憫な身の上を泣いているのかと思えば、どうやら違うらしい。

 石畳の上に崩れ落ちて泣く彼女は、切々と妹に会いたいと訴えた。

 彼女の妹姫は、東の城へ神女として遣わされたらしい。

「きっと泣いてる。あの子には、わたくしがついていてあげないと、いけなかったのに。父上の外道! ひとでなし!」

「姫さんあのさ、わしが言うのもなんだけどよ、王様の悪口はやめといたほうがいんでねえの。あと言葉遣いもよ……」

「あの子の味方はわたくししかいないのに! なによ、才能があるってわかったとたん、掌をひっくり返して! あの子はわたくしのたいせつな妹なのに!」

 無性に恥ずかしくなった。

 この幼い姫は、己よりも妹のことを案じ、泣いている。

 けれど自分が城へ上がってからこちら、姫が西の神女としての責務を放棄しているという噂は一度として耳にしたことがない。

 むしろ幼いながらも懸命に祭祀を執り行い、屈託のない明るい笑顔と気やすい性格で皆に慕われている。

 今ならわかる。

 己の立場をわきまえ、悲しみを押し隠して笑っていたのだ。

 それに比べて自分はどうだ。

 生き永らえたことに感謝するでもなく、稽古がつらいからと城を抜け出し、村へ帰ろうとした。それが周囲に迷惑をかけることになるかもしれないなどとは露程も考えなかった。村に戻ればつらいことも悲しいこともなく、まるで何事もなかったかのように平穏に過ごせると思っていた。

 冷静になってみればわかることだ。

 首尾よく城の外に出たところで、一体自分はどうするつもりだったのか。歩いて帰るにしても村まで随分な距離だろう。そもそも少年は故郷の村の正確な位置さえ知らない。太陽や星から方角を割り出せたとして、はたして無事に辿り着けるかどうか。路銀もない。くわえてこの赤毛だ。目立つことこの上ないだろう。

 我ながらなんと浅はかなことか。なんと短慮なことか。

 自分はただ逃げ出したかったのだ。駄々をこねる幼子のように。

 姫はまだ泣いている。

 少年は立ち上がり、その腕に彼女を抱き上げた。

「重てえ」

「……なによ! 勝手に持ち上げておいて、そのいいぐさはないわよ!」

 姫の乙女心をいたく傷つけてしまったらしい。烈火のごとく怒られた。腕の中で暴れる姫をなんとかなだめる。それだけのことで腕が痺れた。

 はじめて会った時に姫に言われたように、この体はまだまだひ弱だ。城を抜け出すことも、姫を守ることはおろか、腕に抱え続けることさえできない。

 帰る村はもうない。

 生きていることを信じ、待ってくれている人もいないだろう。

 ならば残ったこの命を、この心優しい姫に捧げよう。

「姫様、約束する。いつかきっとわしが……、私が、妹姫に会わせてやる。いんや、さしあげます」

「……まことか? でもそなた、弱いではないか」

「うっせえな。これからいっぱい稽古をつけてもらったらいいんだろ。絶対に強くなってやっからさ。だからよ、姫様ももう泣くなよな。あと、婿ってどういうこと、ですか?」

「婿は婿だ。わたくしが年頃になったら選ぶようにと、父王がたくさん用意してくれた。そなたもそのひとりだ」

「姫様が婿を取れる年齢まで、まだ随分あると思うけど……」

「ええと、あと五年、いや六年くらいかな?」

「いやいや、十年は待たされるんでねえの。姫様は小柄だからなあ」

「そなただって男にしては細いではないか」

「わしはもういろんな女の人からお墨付きもらってっから大丈夫。ただなあ、姫様はなあ」

「そなたが大丈夫なら、わたくしだって大丈夫だ!」

「うん。とりあえずもう少し太って、元気な赤子が産める体型になろうな」

「そういうものか。では、そのようにばあやに頼んでおく」

「それはやめれ。わしが怒られる気がすっから」

「そうだ! そなたの名を決めたぞ!」

「……うん。なに?」

 姫はまだ幼い。関心事はすでに別のことに移ったらしい。泣いていたことも忘れて、少年の肩からこぼれる赤毛を手につかんだ。

「シシ、だ」

「……それさ、今のくだりのどこで思いついたわけ?」

「うふふ」





 そうして赤毛は、この日を境にシシと名乗るようになった。

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