魔の女王

香穂

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第三五話

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 破魔の色である赤が多用された天井や柱はもちろんのこと、調度品にまで豪華絢爛な細工が施されている。広々とした板間。一段上がった上座には、王だけが座すことを許された畳が一枚。その淵にある紋様は神女たちの腕にあるそれと酷似していた。

 まるで技術の粋を集めたかのような部屋。

 王の間。

 その名の通り、部屋の主は王だ。

 ――王であるべきなのだが、今その部屋に腰を下ろし、螺鈿細工がまぶしい文机で文をしたためているのはアガリエ――名実ともに月神女カーヤカーナとなった娘だった。

 文を書く手を止めた彼女は、ふう、と嘆息した。

 結い上げた髪に指す簪には珊瑚や宝玉が幾重にも連なる。そのひとつひとつが希少なものゆえ、随分と値が張る代物だったが、彼女は一度身に着けたものを二度は使わない。

 着物にしてもそうだ。袖を通した着物は必ず焼き捨てるよう指示し、毎日のように新しいものを誂えさせている。おかげでお針子は寝る間もない。

 そんな彼女がまとうのは神女装束ではなく、生前の王母を思わせるような煌びやかな衣装だった。

 生地の色は紫なれど、大輪の赤い花が全面に咲き誇るそれは、遠目には赤い着物のように見える。

 この城において赤は王の色だ。

 王母の死後、王は退位を望んだ。

 無論、臣下は引き止めた。

 王母により王位継承権を持つ王子はことごとく城から排除されており、くわえて王にはまだ子がない。そうした現状の中で王位継承権第二位にあるのは、先王の妃のひとりが産んだ齢一歳の幼子であった。次代の王として力不足なのは火を見るよりも明らかだ。

 何より問題は王位継承権だけではない。

 長く続く旱に、王母により高められた臣下や民衆の不満。

 この荒れた国を導こうと意気込む者は、誰一人としていなかった。





「誰もいないのであれば致し方なかろう。わたくしが王位を継ぐ」

「なれどカーヤカーナ様。女王というのは前例がなく……」

「よかろう。では、そなたが王となるべき者を、わたくしの前に連れて来るが良い。わたくしがこの目でしかと見極めてやる」





 いるわけがない。

 王母は我が子の邪魔になるものは徹底的に排除した。くだんの一歳児をのぞけば、可能性があるとすれば先王の第四子あたりだが、彼とてとうの昔に王位継承権を剝奪されている。

 継承権を取り戻すにあたり、まず必要になるのは王や月神女の許しとなる。

 それが唯々諾々と認められるはずがないことは、誰しも承知しているところだろう。そもそも認めるつもりがないから己が王になると月神女が言い出したのであろうことは想像に難くなかった。

 混沌の時代、王国は抱くべき新たな王を見失っていた。

 そして月神女には王命に匹敵する切り札がある。





「皆、心して聞け。これは神のお告げによるものである。新たな王は女であるべしと、神々も望んでおられるのだ」





 神託には誰も逆らえない。

 こうしてアガリエは月神女の座を取り戻したばかりか、王座に最も近い場所を手に入れた。

 残すところは継承の儀だ。この継承の儀で王から王位を賜れば、晴れてリウ王国史上初の女王が誕生することになる。

 思えば遠いところまで来たものだ。

 今よりもっと幼かった時分、波に漂うような夢うつつの合間に神の声が聴こえた。

 そなたの弟はいずれ王になる、と。

 当時、すでに同母の兄である第二王子が世継ぎとされていた。

 それなのに弟が王になる。

 それがいつのことか、そこまでは分からない。

 兄王子が年老いて、何らかの理由で弟に王位を譲るのか、それとも弟が兄に対して謀反を起こすのか。

 分からない。

 分からないけれど、それは明確な、いつの日か必ず訪れる事実であった。

 弟が王になる。

 それはつまりこの腐りきった王国の頂点に君臨するということだ。

 なんと哀れな。

 腹違いの弟だ。後ろ盾とする家も違う。そもそもアガリエ自身、その生まれゆえに人前に出ることがほとんどなかったため、顔すらろくに合わせたことがない弟だった。血のつながりがあるとはいえ、もはや他人にも等しい。

 けれどそんなアガリエに、イリは会いに来てくれた。

 彼女いわく、妹が幽閉されているということを知らなかったそうだ。こちらも姉がいるとは知らなかったので驚いた。それまでは産みの母を死に追いやった穢れゆえに屋敷を出ることを禁じられているのだと聞かされていた。血濡れの姫、魔物の取り換え子という忌み名も、そのためだと。

 同じ顔、同じ声で、彼女は目を輝かせて言った。

 会いたかった、と。

 心が震えた気がした。

 だからだろう。弟に会ってみようという気持ちになったのは。

 そうして幼い弟を抱く女性に告げた。まだ赤子の弟は言葉を解さなかったから、母である彼女に神のお告げを託した。

 自分たちはどこで道を違えてしまったのだろう。

 あの時、確かに想いは同じだった。

 この幼子が王位に就くまでの茨の道を、少しでも歩きやすいように均し、少しでも憂いが晴れるように努めようと、誓ったはずだった。

 それなのに。

 地位や権力は人の心を狂わせる。王母も、先代であった父王も、あるいはその犠牲者だったのか。

 仮にそうだとして、ならばわたくしはいつ狂うのか……。

 新王への挨拶に来る者は皆、心尽くしだと言っては金子や同等の献上品を置いていく。

 その品の中には人もいた。年頃の男だ。唄や舞を御覧にいれましょうと口にしながらも、あわよくば傍に召し上げてもらい、子を孕ませるのが目的であることは明白だった。

 はじめて金子や男を受け取った時、王母はどう感じたのだろう。

 でも結局はすべてが己の責任、か。欲に溺れず何事にも惑わされず、強い心根で王母として王を支えてくださっていれば、わたくしとて手を下す必要はなかったのに……。

 しかしそのように愁う反面、実に好都合な結末になったと、合理的に判断する気持ちもある。

 王母は数々に悪事に手を染めた。政に不慣れな彼女は甘言と忠告の違いすらわからなかったようだ。王母はいつしか厳しい言葉には耳を閉ざし、己に都合が良い言葉ばかりを取り入れるようになった。

 そのような調子だから賄賂や不正は日常茶飯事となり、彼女はそれが悪しき慣習であることには気づきもしない。

 そればかりか次第に権力を振るうことを覚えると、正義の名の下、目障りな政敵を捕らえ、処刑するようになった。

 王母の暗殺未遂事件が起きたのはその頃で、おびえた彼女は処刑をやめるのではなく、刑罰を与える際は一族郎党幼子までも根絶やしにするよう命じる始末。

 よくもまあ、そのように悪事の限りを尽くせるものだと、いっそ感心したほどだ。

 自分で動くよりも、彼女に任せて後からその功績を奪い取った方が手間が省けて良いと考えたのは、おそらく彼女から月神女カーヤカーナの名を貸してほしいと乞われた時のことだ。

 当然の結果として政は乱れ、国の礎はより一層傾いていったが、王城という狭い世界で生きてきた王母は、目前に広がる世界しか認識できていなかった。

 城の外でどれだけの民が苦しんでいようとも、己の膳が山盛りに満たされていれば、他の膳もそうであろうと判断し、他者の不満に気づけなかった。――気づかせるつもりもなかったのだが。

 入室の許可を求める声に応じると、ややあってセイシュが姿を見せた。

 老人は今や月神女カーヤカーナの腹心の部下として政に関わるすべてを一手に引き受けている。この異例の抜擢には反対する声も多かったが、当人は意に介する様子もなく、その務めを粛々とこなしていた。

「畏れながら申し上げます。イリ様率いる西の勢力がこの王都を目指し進軍しているとの報告が上がってまいりました」

「……生きていたか」
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