怪談 四方山

おばやしりゅうき

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【赤乱雲】

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【赤乱雲】

私は積乱雲ーー所謂入道雲というやつが嫌いだ。

入道雲は夏場、強い上昇気流によって急速に発達して雷雨をもたらし、時には河川の氾濫や土砂災害など甚大な災禍をもたらす事もある自然現象だ。

しかし積乱雲自体は季節が夏に差し掛かってくれば自然と見られるありふれた現象であり、一般的には夏の雲としてノスタルジーを感じる人も多い。

だが、私はあの分厚く膨らんだ雲の内側に、得体の知れない何かが潜んでいて、私たちを見下ろしているような気がしてならない。

これは私がそのように感じるきっかけとなった、私がまだ小学校へあがる以前の頃の話だ。



私は中学で部活を始めるまで、長期の休みは祖父母の家がある長野県で過ごしていた。

祖父母の家は山間のちょっとした盆地にあり、ポツンポツンと大きな家が点在する以外はほとんどが水田や畑であった。

かつて雑木林を切り拓いたという山際の広大な農地のその一画に、農家だった私の祖父母の畑があった。

その畑では夏の間きゅうりやナス、トマトなど色々と栽培していた。

夏休みの間、私はほとんど毎日祖父母に連れられ畑を訪れていたのだが、野菜には関心がなく虫や近くを流れる用水路の魚などを捕まえて遊んでばかりいた。

その日は朝からうだるような暑さで、早く畑に行こうとせびる私に、祖父が笑いながら涼しくなった夕方に行こうと言っていたのを覚えている。

「おーい、マー坊。畑行くぞー」

ケーブルテレビで放送していたアニメを居間でぼーっと眺めていると、ノースリーブの白い下着に短パン、さらに長靴と麦わら帽をかぶったいつもの農作業スタイルの祖父に声を
かけられた。

「ちょっと待ってー!」

買ってもらったばかりの虫取り網と虫かごを手にすると、サンダルを足に突っかけて外へ飛び出した。

背後で祖母がテレビをつけっぱなしにしている事について小言を言うのが聞こえる。きっと帰ってきた後に何か文句を言われるだろうと思ったが、畑で遊べる事に比べれば些細な事だった。



ガコガコとギアを操作して、私を助手席に乗せた軽トラックを祖父が畑の近くの空き地に停めた。

時刻は6時から7時のあいだ位だっただろうか。
昼間あれほど燦々と輝いていた太陽も山と山の隙間に半分以上埋れていた。

あまり遠くに行くんじゃないぞ、という祖父の忠告に空返事を返す。

私は早速畑のすぐそばにある水田へと走っていった。

目当てはウシガエルのオタマジャクシだった。

その前日、祖父の友人である米農家から、フナよりも大きな、ウシガエルのオタマジャクシが最近田んぼに出るようになったという話を聞いてから、私はいてもたってもいられなかったのだ。

すぐ近くの田んぼに着くと、私はしゃがみ込んで一生懸命目を凝らした。

太陽が真上にある昼間と違って、水面が鏡のようになって見づらかったが、手で影を作ってやると、カブトエビやホウネンエビ、そしてどこにでもいる普通のオタマジャクシなどが活発に動き回っているのがわかった。

しかし、肝心のウシガエルのオタマジャクシが見つからない。

私はしゃがみ込んだままの姿勢で、少しずつ左右へ動き回り、目を皿のようにして巨大なオタマジャクシを探していた。

「何してんの?」

なのでそう声をかけられた時、私は飛び上がるほど驚いた。

見れば、いつの間に近づいていたのか、私の背後にはフラスコのような腫れぼったい顔をし、やや突き出たような目蓋の、私と同い年くらいの少年が立っていた。

私はその特徴的な顔立ちに見覚えがあった。

祖父母の住むこの田舎で、かつて大地主だったという最も大きな屋敷の子どもで、名前をタカシといった。

ーーしまった。

私は、幼いながらも内心舌打ちをした。

幼い頃の私は、正直言ってタカシ君が嫌いだった。

大人になってからよく考えてみれば、恐らくタカシ君はなんらかの知的障害を持っていたのだと思う。

だが、その頃の私にそんなことがわかるはずもなく、訳の分からないことばかりを口にし、突然なんの前触れもなく激昂したと思えば、なぜか周りの大人達から守られるタカシ君のことを、なんだかいけすかない、頭のおかしなやつだと思っていた。

だからその時も私は「別に……」と素っ気なく答えると、すぐに顔を背けて再びウシガエルのオタマジャクシを探し始めた。

相手にしなければそのうち飽きてどこかへ行くだろうと考えていたのだが、背後の気配はいつまでも消えなかった。

薄気味悪く思い、私は祖父のいる畑の方へ帰ってしまおうと歩き出した。

しかしなぜかタカシ君もついて来る。

「ねぇ、やめてよ!ついて来んなよ!」

それまで無視をしていたものの、いい加減痺れを切らした私は、振り返って語気を強めてそう言った。

心のどこかで彼を祖父の所へ連れて行くのはまずいと思っていた。それがどうしてかは分からなかったが、とにかくそれだけは避けた
かった。

「気持ち悪いんだよ!死ね!」

小学生が思いつく限りの語彙で私がタカシ君を罵倒すると、それまでにやにやと薄ら笑いを浮かべていたタカシ君は、電池が切れたようにパッと無表情になった。

ーーしまった、言いすぎてしまった。

幼い私は凍りついたような無表情の彼の前で、謝るべきか否か、おろおろとしていると

「ねぇ、あっち」

とタカシ君が突然腕を上げて私の反対側の空に指を差した。

あまりにも突然のことだったので、私は彼が指を差した方へはすぐに振り返らず、まじまじとタカシ君の顔を見つめた。

彼の表情は相変わらず無表情で、なんの変化もない。

私は恐る恐るタカシ君の指を差す方向へ目を向けた。

山の背後から湧き上がる入道雲が、沈みかけの夕陽に照らされて赤みがかっていた。

「あっち」

タカシ君がもう一度言った。それで私は彼が何を指差しているのかが分かった。

ほんのりと赤く染まった程度の入道雲と入道雲の間から、やけに浮いて見えるほど赤い入道雲が近づいて来ていた。

赤い入道雲はゆっくりと渦を巻きながら成長してゆき、あっという間に周りの入道雲を覆い隠すほどに大きくなっていった。

「何あれ……」

思わず口をついて出た私の疑問にタカシ君は

「カミサマだよ」

と抑揚のない声で答えた。

赤い入道雲は、空を這うように山を降り、徐々に里へ近づいて来た。

「カミサマが来るよ」

タカシ君が赤い入道雲を指を差しながらそう言う。すると赤黒く影になった入道雲の底部が、にわかにうねりを上げ、そこから触手のように伸びた一本の太い漏斗雲が、私たちに向かって降りてくるのが見えた。

私はその異様な光景と、どうしようもないほどの巨大さに圧倒され、その場に立ち竦んで
しまう。

「来るよ。ねぇ、マサト君、来るよ来るよ来るよ来るよ来るよ来るよ……」

タカシ君は壊れたように何かが来ると連呼した。

私はタカシ君に対する恐れから、「何か来るんだよ!」と彼の声を打ち消すように叫んだ。

その瞬間、空から巨大な、ドーンというくぐもった爆破音のようなものが聞こえて来た。

今思えば、きっと雷か何かの音だったのだろうが、その時の私はその爆発音はタカシ君の言う「カミサマ」の声だと思った。

なぜかこれ以上「カミサマ」の声を聞いてはいけないと思った私は耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。

だが、耳を手で塞いだ程度では、外の音はどうしようもなく聞こえて来てしまう。

耳を塞ぐ私の手を通り抜けて、地面が砕けるんじゃないかと思うほどの轟音と、タカシ君の「来てるよ来てるよねぇマサト君来てるよカミサマ来てるよ」という言葉が聞こえてきた。

「うわぁぁぁぁぁぁ‼︎」

私は耳を塞ぐ手に力を込めて、それらをかき消すように大声で叫んだ。

「……来たよ」

耳元で囁かれたようにはっきりとそう聞こえた。

タカシ君の声はそれを最後にぱったりと途絶た。周囲の轟音も聞こえなくなっていた。

私はそれでもしばらくは動けずにいると「おい!雅人、雅人!大丈夫か、何があったんだ!」と血相を変え駆けつけてきた祖父に抱き起こされた。

閉じた目を恐る恐る開く。
あの赤い入道雲はいつの間にか跡形もなく消え去っていた。

そしてタカシ君の姿も……



このことについて、きっと夢を見ていたのだと私は思っていた。

あの日以来、この事について祖父に確かめることを何となくためらっていたのだが、この話を執筆する際、私は思い切って確かめてみることにした。

こんな些細な思い出を覚えているか不安であったが、実際に聞いてみればあっさりしたもので、既に齢80歳を過ぎ、顔を合わせるたびに物忘れが増えたと嘆いていた祖父だったが、あの時のことについては、直後に起きたもう一つの事件とともに、はっきりと覚えていた。

祖父の話によると、その日もいつも通り畑で作業をしており、そこから田んぼを覗き込む私の姿が見えていたという。

その為、余り遠くに行くなよと声をかけてからは、特に心配することもなく農作業に集中していた。  

そうしてしばらくした後、突然近くに雷が落ちたような轟音がし、その直後に私の悲鳴が聞こえてきたので何事かと驚き駆けつけたところ、幼い頃の私が田んぼの畦道で蹲っていたのだという。

「いやぁ、あん時はたまげたわ。雲も出てねえのにマー坊が雷に打たれたのかと思ったんだ」

祖父はそう笑っていた。

晴天の霹靂、とは言うがあの日は確かに入道雲が山の向こうに出てはいたとはいえ里の方は雷がなるとは思えない、雲ひとつない晴天だった。

にも関わらず祖父曰く、あの日の夕方、落雷のような正体不明の轟音を聞いた人は多かったらしい。

そしてもう一つ、その直後に起こった事件とは、あの時私と一緒にいたタカシ君が行方不明になっていた事である。

これについて、当時、雷のような轟音以上に騒がれたらしいのだが、あの後高熱を出して寝込んでいたらしい私はほとんど覚えていない。

ただ、後から聞いた話によると、タカシ君はちょうど雷のような轟音が聞こえる少し前、母親に「やって来る」と言い残して家を飛び出してしまったのだという。

祖父の話を聞いた後、私はそのことを思い出して何が得体の知れない漠然とした不安に襲われた。

近くを流れていた川へ転落した、山の奥の崖から落ちてしまった、あるいは人攫いにあった……村の人々は種々だねだね様々な噂や憶測を囁き合ったという。

しかし私はタカシ君が見つかったという話を未だ聞かない。

もしこの世界に「カミサマ」のような得体の知れない巨大な"何か"が潜んでいるのなら、彼らが私達の前に姿を現した時が、私達の終わりの時かもしれない。

外出中、ふと空を見上げた時、そこに赤い雲を見かけたのなら注意するべきだ。

少なくとも私はそう思う。

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