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ケース2:①
榊さんから連絡があった、と縁が言ったのは、あの件から二週間後の水曜日だった。
「食べられるようになったって。まだ量は少ないけど、おかゆと味噌汁は毎日食べてるそうです」
「よかったな」
「あと、お母さんに電話したって」
「何て」
「『お母さんの料理、実はあんまり好きじゃなかった』って言ったらしいです。お母さん泣いたって」
「それは」
「泣いた後に、じゃあ何が好きなのって聞かれて、自分でも分からなくて二人で笑ったって。二十年ぶりに一緒に笑えたって」
棘は冷蔵庫から麦茶を出しながら、少しだけ口元が緩むのを感じた。自分の感情だった。今度こそ自分のものだと、区別がついた。
「傷跡は」
「残ってます。特定の匂いで気分が悪くなることは、たぶんこの先もある。完全には戻らない」
縁は胃薬を飲んだ。コーヒーは三杯目。新しい豆に変えてから、酸っぱいとは言わなくなった。ただ、相変わらず量が多い。
「縁さん」
「なに」
「手首」
棘が顎で指した。縁の左手首の内側。皮膚の下に透けていた文字。あれがどうなったのか、棘は聞けないまま二週間を過ごしていた。聞かないのが不文律だった。だが見えてしまうものは仕方がない。
縁は左手首を見た。袖をまくった。
「消えてるよ。三日で消えた」
嘘か本当か、棘には分からなかった。縁の手首には何も見えなかった。ただ、縁の指先の針傷は増えていた。前回の治療で縫合したぶんの、新しい傷。
棘はそれ以上何も言わなかった。縁も何も言わなかった。
同じカフェの、別のテーブル。いつも通りの距離。
松永から届いた紹介状には、「睡眠時の全身硬直。解離の可能性あり。通常の治療で改善見込めず」と書かれていた。縁はそれを読みながらコーヒーを飲み、棘はその横でカルテ用のファイルを準備した。
金曜日の午後三時。
インターホンが鳴った。今回は二回。短く、遠慮がちに。
棘がドアを開けた。
見下ろさなければならなかった。身長が低い。百四十センチあるかないか。紺色のポロシャツにベージュのハーフパンツ。運動靴。スポーツバッグを肩にかけている。野球帽を被り、つばを深く下げている。
小学生だった。
帽子の下から覗く顔は、目の下に濃いくまがあった。頬の肉が落ちて、年齢のわりに顔が鋭い。唇が乾いている。爪を噛む癖があるのか、指先の皮がめくれていた。
その後ろに、女性が立っていた。四十代前半。目元が赤い。最近よく泣いているのだろう。
「三崎さんですね。お待ちしておりました」
棘が腰を落とした。正座はしなかった。子供の目線まで、しゃがんだ。
「こんにちは。俺、鉤谷っていいます。中入る?」
口調が変わっていた。
敬語が消えている。年上に使う礼儀正しい言葉遣いではなく、近所の兄ちゃんが声をかけるような、力の抜けた話し方。声のトーンも半音高い。表情に乏しいはずの顔に、ごく自然な笑みが浮かんでいた。作ったものではない。子供の前でだけ出る、棘の素顔だった。
男の子は棘を見上げた。警戒の目だった。知らない大人の、知らない場所。体がわずかに後ろに引いている。
「おれ、ここ何するところか知らない」
「うん。それでいいよ。とりあえず中入って、ジュースでも飲もう。何が好き?」
「カルピス」
「あるよ。おいで」
母親が頭を下げた。棘はそれにも気づいて、丁寧に会釈を返した。子供への口調と母親への態度が同時に切り替わる。その動作がよどみなかった。
事務所の中。縁がデスクに座っていた。書類の山を脇にどけて、男の子に手を振った。
「どうも、糸守です。名前は」
「三崎瑛太」
「瑛太くん。学校何年生?」
「五年」
「五年か。私が五年生のときは、掛け算の七の段でつまずいてましたよ。七六四十二ってやつ。嘘みたいな数字じゃないですか、四十二って。信用できない」
瑛太は返事をしなかった。ソファの端に座り、足をぶらぶらさせている。バッグを膝の上に抱えたまま。棘がカルピスを持ってきた。コップに氷を入れて、少し濃いめに作った。子供が好きな濃さを知っていた。
「お母さんは、あちらでお待ちいただけますか。少しだけ瑛太くんとお話をさせてください」
棘が母親を別室に案内した。廊下に出たところで、母親が小さな声で言った。
「私が、あの子に布団から出るなって言ってたんです。あの人が怒ってるときは、出てきちゃだめだって。それが」
棘は母親の言葉を最後まで聞かなかった。聞かなくても分かった。母親の声が、体の中で震えていた。守るためにしたことが、子供を縛った。それを母親自身が一番分かっている。
「今日はまず、瑛太くんの話を聞かせてください。お母さんの話は、また別に」
棘がそう言うと、母親は唇を噛んで頷いた。
三人になった。縁と棘と、十歳の男の子。
「それで、瑛太くん」
縁がソファの向かいに座った。足を組もうとして、やめた。組むと偉そうに見えるから。
「眠れないんだって?」
瑛太がカルピスのコップを握った。飲まなかった。
「眠れないっていうか」
「うん」
「眠ると、体が動かなくなる」
「動かなくなる」
「寝てると、体がぎゅってなる。手も足も動かなくなって、目も開けられなくて。息もできなくなりそうになる。怖くて起きる。起きたら動ける。でもまた寝ると同じ」
瑛太の声は平坦だった。怖がっている様子を見せまいとしている。十歳の男の子のプライドが、声を平坦に保とうとしていた。だが足のぶらぶらが止まっていた。つま先が床に触れたまま、動かない。
棘がソファの横に座った。瑛太との間に、座布団一枚分の距離を空けて。近すぎず、遠すぎず。
「いつからだ?」
棘の口調。兄ちゃんの口調。
「四月くらいから」
「四月って、五年生になってからか」
「うん」
「何かあった? 四月に」
瑛太がカルピスを一口飲んだ。飲んでから、答えた。
「お父さんが出てった」
棘の右手が、膝の上で握りしめられた。親指の爪が人差し指に食い込んだ。瑛太の声が、体の中で反響していた。「出てった」という言葉の裏にある感情の層。安堵と寂しさと怒りと混乱が、区別のつかない塊になって棘の胸に落ちた。
縁は相槌を打った。それだけだった。
「お母さんと二人になった?」
「うん」
「それで、眠れなくなった」
「前は眠れた。お父さんがいるときのほうが、怖かったのに。出てってから怖くなくなったのに。なのに眠れなくなった。意味わかんない」
瑛太の声が、少しだけ震えた。怒りに近い震え。自分の体が自分の言うことを聞かないことへの、十歳なりの苛立ち。
「お父さんがいるとき、怖かったんだ」
縁が言った。声は平坦。判断も感情もない。ただ事実の確認。
瑛太は黙った。カルピスのコップを両手で握って、中の氷を見ていた。氷がカラカラと鳴った。手が震えているからだ。
「怖いときに、どうしてた?」
棘が聞いた。兄ちゃんの声で。
瑛太はしばらく黙っていた。それから、小さく言った。
「寝たふり」
棘の呼吸が止まった。一秒。二秒。再開した。
「寝たふりしてたら、お父さんは来なかった。寝てる子には何もしなかった。だから、お父さんが怒鳴ってるとき、お母さんが泣いてるとき、布団の中で寝たふりしてた。目をぎゅって閉じて、体を動かさないようにして。息も聞こえないようにして。死んだみたいに」
瑛太がカルピスを置いた。手がテーブルの上に残った。十歳の小さな手。爪が噛みちぎられた指。
「死んだみたいにしてたら、安全だった。だから眠るのと死ぬのが、同じになっちゃった。体がそう覚えちゃった。眠ろうとすると、体が死んだふりを始める。硬くなって、動けなくなって。でも意識はあるから、怖い。死んでるみたいなのに、起きてるから」
縁は何も言わなかった。心は動いていなかった。動かない心で、正確に聞いていた。
蔵書症。第三期。
寝かしつけ絵本。「おやすみ」という言葉が、この子の中で腐っている。眠ることは安全のはずだった。絵本の中では、クマのぬいぐるみが「おやすみ」と言って、子供を優しい眠りに誘う。だがこの子にとって、眠ることは死んだふりだった。安全を得るための擬死。その記憶が絵本に感染し、「おやすみ」が「死んでください」に変わっている。
「瑛太くん」
縁が言った。
「好きだった絵本、ある?」
瑛太の体が強張った。榊と同じだった。反応の出方まで同じ。体が先に反応する。
「クマ」
「クマ?」
「クマのぬいぐるみの絵本。お母さんが読んでくれた」
瑛太の声が小さくなった。
「お父さんが出てく前は、毎晩読んでくれた。クマのぬいぐるみが『おやすみ』って言って、子供が眠るやつ。好きだった。あの絵本読んでもらうと、眠れた」
「今は」
「思い出すと体が固まる」
棘がそっと立ち上がった。台所へ行き、カルピスのおかわりを作った。少し薄めにした。さっきの濃いめを飲んだから、次は口直しに薄いほうがいい。子供の口が覚えている順番を、棘は知っていた。
カルピスをテーブルに置きながら、棘が言った。
「俺もさ、読めない本があるんだ」
瑛太が顔を上げた。
「小説が読めない。読むと具合が悪くなるんだ。だから図鑑とか辞書ばっかり読んでる。取扱説明書とか」
「取説おもしろい?」
「たまに。洗濯機の取説に『洗濯物にペットを入れないでください』って書いてあったときは笑った」
瑛太の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑みにはならなかった。だが筋肉が動こうとした。
「瑛太くん」
縁が立ち上がった。
「今日はもう帰っていいよ。お母さん待ってるし。次来るときに、もう少し詳しい話を聞かせてくれる?」
「おれ、治るの」
瑛太がまっすぐ縁を見た。十歳の目だった。子供の目であると同時に、もう子供ではない何かの目だった。自分の体が壊れていることを知っている人間の目。
縁は少し考えた。
「たぶんね」
「たぶん」
「うん。たぶん。確実なことは言えない。でも、同じような人を前にも治したから。たぶん大丈夫」
棘が横目で縁を見た。縁の「たぶん」は前回と同じだった。確実なことを言わない。保証しない。だが「たぶん」と言うとき、縁は見捨てていない。棘はそれを知っていた。
「あと、瑛太くん」
縁がデスクの引き出しを開けた。何かを探している。ペン、消しゴム、胃薬のシート、使いかけの絆創膏、レシートの束。雑然とした中から、小さな巾着袋を取り出した。
「はい、これ」
瑛太に渡した。中身は小さなクッション。手のひらに乗るサイズの、四角い布の塊。
「何これ」
「握るやつ。夜、怖くなったら握って。体が固まりそうになったら、それだけ握って。指が動くことだけ確認して」
瑛太がクッションを握った。柔らかい。中に何か粒状のものが入っている。小豆だった。
「これ何でできてるの」
「私が縫ったの。中身は小豆。あっためてもいいよ。レンジで三十秒」
「縁さんが縫ったんですか」
棘が少し驚いた顔をした。あの巾着袋は見たことがなかった。いつ作ったのだろう。
「昨日。ちょっと思いついて」
縁は何でもないように言った。ゴミ箱に胃薬のシートを捨てながら。
「裁縫だけは得意なんです。料理はだめだけど」
瑛太がクッションを握ったまま、巾着袋に戻した。バッグに入れた。
「ありがとう」
小さな声だった。十歳の男の子が、知らない大人に「ありがとう」と言うのに必要な勇気の分だけ、声が小さかった。
棘が瑛太を玄関まで送った。母親と合流させ、階段を降りるのを見届けた。瑛太が母親の隣を歩いている。手は繋いでいない。少し距離がある。母親が何か話しかけている。瑛太は頷いている。
棘がドアを閉めた。
「縁さん」
「なに」
「あのクッション、いつ作ったんだ。昨日、俺が帰った後か」
縁がコーヒーを飲んだ。四杯目。
「棘くんが寝た後。夜中の二時くらいに」
「なんで」
「なんでって、なんとなく。次の相談者が子供だって聞いてたから。子供に渡せるもの、何かないかなって。薬じゃなくて、物。触れるもの。握れるもの」
縁はカップを置いた。
「共感できないんですよ、私。あの子が怖いって言ってるのを聞いても、怖さが分からない。眠れないって言ってるのを聞いても、眠れない辛さが分からない。だから、せめて手が動くことだけでも確認できるようにって。それくらいしか思いつかなかった」
棘は何も言わなかった。縁が自分の欠陥だと思っているものが、時々こういう形で裏返ることを、棘は知っていた。共感できないから、共感の代わりに手を動かす。心が動かないから、指先を動かす。それが縁のやり方だった。
棘はそれを言葉にしなかった。言えば縁は「そんな大したことじゃないですよ」と棒読みで返すだろう。それが嘘に聞こえて、本当は嘘じゃないことも、棘は知っていた。
「次の予約、いつにする」
「来週の金曜。学校終わってからの時間がいいと思う」
「あの子のトラウマ、予想ついてるか」
縁が天井を見た。染みを数えるように。
「父親のDV。たぶん直接殴られたんじゃない。お母さんが殴られてるのを、寝たふりしてやり過ごしてた。『寝ていれば安全』が体に刷り込まれてる。で、父親がいなくなって安全になったのに、体がまだ『寝る=死んだふり=安全装置』のモードから抜けられない。寝かしつけ絵本の『おやすみ』が、あの子の中で『死んでください』に変わってる」
「蔵書症の第三期」
「第三期。体に出てる。睡眠時の硬直。金縛りじゃない。あれは体が自分を縫い止めてる。動いたら見つかる、動いたら殴られる、だから動くなって。体が勝手に自分を拘束してる」
縁はコーヒーカップを流しに持っていった。洗わなかった。置いただけ。棘がそれを見て、後で洗うことを決めた。
「棘くん」
「ああ」
「あの子の世界に入ったら、たぶん子供部屋になる。ベッドがあって、ぬいぐるみがあって、絵本があって。綺麗な部屋。安全な部屋。に見える」
縁が窓の外を見た。夕暮れの空。オレンジ色の雲が、ビルの隙間に挟まっている。
「でも、夜が来る。あの子の世界では、夜が来ると部屋が変わる。ベッドが棺桶になる。毛布が縫合糸になる。ぬいぐるみの中に、何かが詰まってる」
「何が」
「まだ分からない。入ってみないと。でも一つだけ確実なのは、あの世界では『眠ること』が死を意味する。私たちがあの世界で眠ったら、たぶん動けなくなる」
「俺も?」
「棘くんは特に危ない。あの子の恐怖を体で受けるから。あの子の『眠りたいけど眠れない』が棘くんの体に入ったら、棘くんの体も同じ硬直を起こす可能性がある」
棘は右手を見た。グローブの下の手。さっき瑛太にカルピスを渡したとき、瑛太の指先に触れた。冷たかった。子供の指先にしては冷たすぎた。末端の血流が悪い。慢性的な睡眠不足の体。
あの冷たさが、まだ指先に残っていた。
「気をつける」
「うん」
縁が振り返った。日常の顔。だらしなく弛緩した顔。
「棘くん、今日の晩ご飯なに」
「何がいい」
「カレー」
「縁さんは作らないでくれよ」
「なんでそこ念押すんだよ」
「前科があるからだ」
棘はエプロンを取った。冷蔵庫を開けた。じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、鶏肉。カレーの材料は揃っている。棘が買い置きしておいたものだ。縁が買い物をすると、必ず何かを買い忘れるから。
包丁を取り出した。
じゃがいもの皮をむきながら、棘は考えていた。
あの子の世界では、眠ることが死を意味する。
棘の左目の奥で、赤ずきんの少女がまだ走っている。少女は一度も眠らない。一度も立ち止まらない。走り続けている。眠ったら終わるから。止まったら捕まるから。
少女と瑛太の恐怖は、似ている。
棘は玉ねぎを切った。涙が出た。玉ねぎのせいだった。今度こそ。
「食べられるようになったって。まだ量は少ないけど、おかゆと味噌汁は毎日食べてるそうです」
「よかったな」
「あと、お母さんに電話したって」
「何て」
「『お母さんの料理、実はあんまり好きじゃなかった』って言ったらしいです。お母さん泣いたって」
「それは」
「泣いた後に、じゃあ何が好きなのって聞かれて、自分でも分からなくて二人で笑ったって。二十年ぶりに一緒に笑えたって」
棘は冷蔵庫から麦茶を出しながら、少しだけ口元が緩むのを感じた。自分の感情だった。今度こそ自分のものだと、区別がついた。
「傷跡は」
「残ってます。特定の匂いで気分が悪くなることは、たぶんこの先もある。完全には戻らない」
縁は胃薬を飲んだ。コーヒーは三杯目。新しい豆に変えてから、酸っぱいとは言わなくなった。ただ、相変わらず量が多い。
「縁さん」
「なに」
「手首」
棘が顎で指した。縁の左手首の内側。皮膚の下に透けていた文字。あれがどうなったのか、棘は聞けないまま二週間を過ごしていた。聞かないのが不文律だった。だが見えてしまうものは仕方がない。
縁は左手首を見た。袖をまくった。
「消えてるよ。三日で消えた」
嘘か本当か、棘には分からなかった。縁の手首には何も見えなかった。ただ、縁の指先の針傷は増えていた。前回の治療で縫合したぶんの、新しい傷。
棘はそれ以上何も言わなかった。縁も何も言わなかった。
同じカフェの、別のテーブル。いつも通りの距離。
松永から届いた紹介状には、「睡眠時の全身硬直。解離の可能性あり。通常の治療で改善見込めず」と書かれていた。縁はそれを読みながらコーヒーを飲み、棘はその横でカルテ用のファイルを準備した。
金曜日の午後三時。
インターホンが鳴った。今回は二回。短く、遠慮がちに。
棘がドアを開けた。
見下ろさなければならなかった。身長が低い。百四十センチあるかないか。紺色のポロシャツにベージュのハーフパンツ。運動靴。スポーツバッグを肩にかけている。野球帽を被り、つばを深く下げている。
小学生だった。
帽子の下から覗く顔は、目の下に濃いくまがあった。頬の肉が落ちて、年齢のわりに顔が鋭い。唇が乾いている。爪を噛む癖があるのか、指先の皮がめくれていた。
その後ろに、女性が立っていた。四十代前半。目元が赤い。最近よく泣いているのだろう。
「三崎さんですね。お待ちしておりました」
棘が腰を落とした。正座はしなかった。子供の目線まで、しゃがんだ。
「こんにちは。俺、鉤谷っていいます。中入る?」
口調が変わっていた。
敬語が消えている。年上に使う礼儀正しい言葉遣いではなく、近所の兄ちゃんが声をかけるような、力の抜けた話し方。声のトーンも半音高い。表情に乏しいはずの顔に、ごく自然な笑みが浮かんでいた。作ったものではない。子供の前でだけ出る、棘の素顔だった。
男の子は棘を見上げた。警戒の目だった。知らない大人の、知らない場所。体がわずかに後ろに引いている。
「おれ、ここ何するところか知らない」
「うん。それでいいよ。とりあえず中入って、ジュースでも飲もう。何が好き?」
「カルピス」
「あるよ。おいで」
母親が頭を下げた。棘はそれにも気づいて、丁寧に会釈を返した。子供への口調と母親への態度が同時に切り替わる。その動作がよどみなかった。
事務所の中。縁がデスクに座っていた。書類の山を脇にどけて、男の子に手を振った。
「どうも、糸守です。名前は」
「三崎瑛太」
「瑛太くん。学校何年生?」
「五年」
「五年か。私が五年生のときは、掛け算の七の段でつまずいてましたよ。七六四十二ってやつ。嘘みたいな数字じゃないですか、四十二って。信用できない」
瑛太は返事をしなかった。ソファの端に座り、足をぶらぶらさせている。バッグを膝の上に抱えたまま。棘がカルピスを持ってきた。コップに氷を入れて、少し濃いめに作った。子供が好きな濃さを知っていた。
「お母さんは、あちらでお待ちいただけますか。少しだけ瑛太くんとお話をさせてください」
棘が母親を別室に案内した。廊下に出たところで、母親が小さな声で言った。
「私が、あの子に布団から出るなって言ってたんです。あの人が怒ってるときは、出てきちゃだめだって。それが」
棘は母親の言葉を最後まで聞かなかった。聞かなくても分かった。母親の声が、体の中で震えていた。守るためにしたことが、子供を縛った。それを母親自身が一番分かっている。
「今日はまず、瑛太くんの話を聞かせてください。お母さんの話は、また別に」
棘がそう言うと、母親は唇を噛んで頷いた。
三人になった。縁と棘と、十歳の男の子。
「それで、瑛太くん」
縁がソファの向かいに座った。足を組もうとして、やめた。組むと偉そうに見えるから。
「眠れないんだって?」
瑛太がカルピスのコップを握った。飲まなかった。
「眠れないっていうか」
「うん」
「眠ると、体が動かなくなる」
「動かなくなる」
「寝てると、体がぎゅってなる。手も足も動かなくなって、目も開けられなくて。息もできなくなりそうになる。怖くて起きる。起きたら動ける。でもまた寝ると同じ」
瑛太の声は平坦だった。怖がっている様子を見せまいとしている。十歳の男の子のプライドが、声を平坦に保とうとしていた。だが足のぶらぶらが止まっていた。つま先が床に触れたまま、動かない。
棘がソファの横に座った。瑛太との間に、座布団一枚分の距離を空けて。近すぎず、遠すぎず。
「いつからだ?」
棘の口調。兄ちゃんの口調。
「四月くらいから」
「四月って、五年生になってからか」
「うん」
「何かあった? 四月に」
瑛太がカルピスを一口飲んだ。飲んでから、答えた。
「お父さんが出てった」
棘の右手が、膝の上で握りしめられた。親指の爪が人差し指に食い込んだ。瑛太の声が、体の中で反響していた。「出てった」という言葉の裏にある感情の層。安堵と寂しさと怒りと混乱が、区別のつかない塊になって棘の胸に落ちた。
縁は相槌を打った。それだけだった。
「お母さんと二人になった?」
「うん」
「それで、眠れなくなった」
「前は眠れた。お父さんがいるときのほうが、怖かったのに。出てってから怖くなくなったのに。なのに眠れなくなった。意味わかんない」
瑛太の声が、少しだけ震えた。怒りに近い震え。自分の体が自分の言うことを聞かないことへの、十歳なりの苛立ち。
「お父さんがいるとき、怖かったんだ」
縁が言った。声は平坦。判断も感情もない。ただ事実の確認。
瑛太は黙った。カルピスのコップを両手で握って、中の氷を見ていた。氷がカラカラと鳴った。手が震えているからだ。
「怖いときに、どうしてた?」
棘が聞いた。兄ちゃんの声で。
瑛太はしばらく黙っていた。それから、小さく言った。
「寝たふり」
棘の呼吸が止まった。一秒。二秒。再開した。
「寝たふりしてたら、お父さんは来なかった。寝てる子には何もしなかった。だから、お父さんが怒鳴ってるとき、お母さんが泣いてるとき、布団の中で寝たふりしてた。目をぎゅって閉じて、体を動かさないようにして。息も聞こえないようにして。死んだみたいに」
瑛太がカルピスを置いた。手がテーブルの上に残った。十歳の小さな手。爪が噛みちぎられた指。
「死んだみたいにしてたら、安全だった。だから眠るのと死ぬのが、同じになっちゃった。体がそう覚えちゃった。眠ろうとすると、体が死んだふりを始める。硬くなって、動けなくなって。でも意識はあるから、怖い。死んでるみたいなのに、起きてるから」
縁は何も言わなかった。心は動いていなかった。動かない心で、正確に聞いていた。
蔵書症。第三期。
寝かしつけ絵本。「おやすみ」という言葉が、この子の中で腐っている。眠ることは安全のはずだった。絵本の中では、クマのぬいぐるみが「おやすみ」と言って、子供を優しい眠りに誘う。だがこの子にとって、眠ることは死んだふりだった。安全を得るための擬死。その記憶が絵本に感染し、「おやすみ」が「死んでください」に変わっている。
「瑛太くん」
縁が言った。
「好きだった絵本、ある?」
瑛太の体が強張った。榊と同じだった。反応の出方まで同じ。体が先に反応する。
「クマ」
「クマ?」
「クマのぬいぐるみの絵本。お母さんが読んでくれた」
瑛太の声が小さくなった。
「お父さんが出てく前は、毎晩読んでくれた。クマのぬいぐるみが『おやすみ』って言って、子供が眠るやつ。好きだった。あの絵本読んでもらうと、眠れた」
「今は」
「思い出すと体が固まる」
棘がそっと立ち上がった。台所へ行き、カルピスのおかわりを作った。少し薄めにした。さっきの濃いめを飲んだから、次は口直しに薄いほうがいい。子供の口が覚えている順番を、棘は知っていた。
カルピスをテーブルに置きながら、棘が言った。
「俺もさ、読めない本があるんだ」
瑛太が顔を上げた。
「小説が読めない。読むと具合が悪くなるんだ。だから図鑑とか辞書ばっかり読んでる。取扱説明書とか」
「取説おもしろい?」
「たまに。洗濯機の取説に『洗濯物にペットを入れないでください』って書いてあったときは笑った」
瑛太の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑みにはならなかった。だが筋肉が動こうとした。
「瑛太くん」
縁が立ち上がった。
「今日はもう帰っていいよ。お母さん待ってるし。次来るときに、もう少し詳しい話を聞かせてくれる?」
「おれ、治るの」
瑛太がまっすぐ縁を見た。十歳の目だった。子供の目であると同時に、もう子供ではない何かの目だった。自分の体が壊れていることを知っている人間の目。
縁は少し考えた。
「たぶんね」
「たぶん」
「うん。たぶん。確実なことは言えない。でも、同じような人を前にも治したから。たぶん大丈夫」
棘が横目で縁を見た。縁の「たぶん」は前回と同じだった。確実なことを言わない。保証しない。だが「たぶん」と言うとき、縁は見捨てていない。棘はそれを知っていた。
「あと、瑛太くん」
縁がデスクの引き出しを開けた。何かを探している。ペン、消しゴム、胃薬のシート、使いかけの絆創膏、レシートの束。雑然とした中から、小さな巾着袋を取り出した。
「はい、これ」
瑛太に渡した。中身は小さなクッション。手のひらに乗るサイズの、四角い布の塊。
「何これ」
「握るやつ。夜、怖くなったら握って。体が固まりそうになったら、それだけ握って。指が動くことだけ確認して」
瑛太がクッションを握った。柔らかい。中に何か粒状のものが入っている。小豆だった。
「これ何でできてるの」
「私が縫ったの。中身は小豆。あっためてもいいよ。レンジで三十秒」
「縁さんが縫ったんですか」
棘が少し驚いた顔をした。あの巾着袋は見たことがなかった。いつ作ったのだろう。
「昨日。ちょっと思いついて」
縁は何でもないように言った。ゴミ箱に胃薬のシートを捨てながら。
「裁縫だけは得意なんです。料理はだめだけど」
瑛太がクッションを握ったまま、巾着袋に戻した。バッグに入れた。
「ありがとう」
小さな声だった。十歳の男の子が、知らない大人に「ありがとう」と言うのに必要な勇気の分だけ、声が小さかった。
棘が瑛太を玄関まで送った。母親と合流させ、階段を降りるのを見届けた。瑛太が母親の隣を歩いている。手は繋いでいない。少し距離がある。母親が何か話しかけている。瑛太は頷いている。
棘がドアを閉めた。
「縁さん」
「なに」
「あのクッション、いつ作ったんだ。昨日、俺が帰った後か」
縁がコーヒーを飲んだ。四杯目。
「棘くんが寝た後。夜中の二時くらいに」
「なんで」
「なんでって、なんとなく。次の相談者が子供だって聞いてたから。子供に渡せるもの、何かないかなって。薬じゃなくて、物。触れるもの。握れるもの」
縁はカップを置いた。
「共感できないんですよ、私。あの子が怖いって言ってるのを聞いても、怖さが分からない。眠れないって言ってるのを聞いても、眠れない辛さが分からない。だから、せめて手が動くことだけでも確認できるようにって。それくらいしか思いつかなかった」
棘は何も言わなかった。縁が自分の欠陥だと思っているものが、時々こういう形で裏返ることを、棘は知っていた。共感できないから、共感の代わりに手を動かす。心が動かないから、指先を動かす。それが縁のやり方だった。
棘はそれを言葉にしなかった。言えば縁は「そんな大したことじゃないですよ」と棒読みで返すだろう。それが嘘に聞こえて、本当は嘘じゃないことも、棘は知っていた。
「次の予約、いつにする」
「来週の金曜。学校終わってからの時間がいいと思う」
「あの子のトラウマ、予想ついてるか」
縁が天井を見た。染みを数えるように。
「父親のDV。たぶん直接殴られたんじゃない。お母さんが殴られてるのを、寝たふりしてやり過ごしてた。『寝ていれば安全』が体に刷り込まれてる。で、父親がいなくなって安全になったのに、体がまだ『寝る=死んだふり=安全装置』のモードから抜けられない。寝かしつけ絵本の『おやすみ』が、あの子の中で『死んでください』に変わってる」
「蔵書症の第三期」
「第三期。体に出てる。睡眠時の硬直。金縛りじゃない。あれは体が自分を縫い止めてる。動いたら見つかる、動いたら殴られる、だから動くなって。体が勝手に自分を拘束してる」
縁はコーヒーカップを流しに持っていった。洗わなかった。置いただけ。棘がそれを見て、後で洗うことを決めた。
「棘くん」
「ああ」
「あの子の世界に入ったら、たぶん子供部屋になる。ベッドがあって、ぬいぐるみがあって、絵本があって。綺麗な部屋。安全な部屋。に見える」
縁が窓の外を見た。夕暮れの空。オレンジ色の雲が、ビルの隙間に挟まっている。
「でも、夜が来る。あの子の世界では、夜が来ると部屋が変わる。ベッドが棺桶になる。毛布が縫合糸になる。ぬいぐるみの中に、何かが詰まってる」
「何が」
「まだ分からない。入ってみないと。でも一つだけ確実なのは、あの世界では『眠ること』が死を意味する。私たちがあの世界で眠ったら、たぶん動けなくなる」
「俺も?」
「棘くんは特に危ない。あの子の恐怖を体で受けるから。あの子の『眠りたいけど眠れない』が棘くんの体に入ったら、棘くんの体も同じ硬直を起こす可能性がある」
棘は右手を見た。グローブの下の手。さっき瑛太にカルピスを渡したとき、瑛太の指先に触れた。冷たかった。子供の指先にしては冷たすぎた。末端の血流が悪い。慢性的な睡眠不足の体。
あの冷たさが、まだ指先に残っていた。
「気をつける」
「うん」
縁が振り返った。日常の顔。だらしなく弛緩した顔。
「棘くん、今日の晩ご飯なに」
「何がいい」
「カレー」
「縁さんは作らないでくれよ」
「なんでそこ念押すんだよ」
「前科があるからだ」
棘はエプロンを取った。冷蔵庫を開けた。じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、鶏肉。カレーの材料は揃っている。棘が買い置きしておいたものだ。縁が買い物をすると、必ず何かを買い忘れるから。
包丁を取り出した。
じゃがいもの皮をむきながら、棘は考えていた。
あの子の世界では、眠ることが死を意味する。
棘の左目の奥で、赤ずきんの少女がまだ走っている。少女は一度も眠らない。一度も立ち止まらない。走り続けている。眠ったら終わるから。止まったら捕まるから。
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