悪役令嬢を救うためモブが婚約を申し込んだら、破滅フラグが全部俺に向いてきた

チャビューヘ

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「その世界の端役」

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 頭が、割れる。
 カイル・ヴェストリアはグラスを取り落とした。
 赤ワインが大理石の床に散る。
 その音は、耳に届かなかった。

 こめかみを針で突くような痛み。
 知らないはずの記憶が、洪水のように押し寄せる。

 画面。コントローラー。暗い部屋。
 何度も繰り返しプレイしたゲームの記憶だ。

 『聖灯のフィリア』。
 王太子を攻略対象にした乙女ゲーム。
 カイルはその世界の端役にすぎない。
 辺境伯家の次男。攻略本にすら載らないモブだ。

 だが全ルートの記憶がある。
 全エンディングの結末を知っている。
 三ヶ月後に何が起きるかも。

「カイル様? お加減が悪いのですか」

 従者の声で現実に引き戻された。
 バルコニーの手すりを掴む。
 冷たい石の感触と夜風が、過熱した頭を冷ました。

 大広間を振り返る。
 シャンデリアの魔法灯がオレンジ色に揺れていた。
 弦楽の旋律。グラスが触れ合う澄んだ音。
 絹の衣装を纏った貴族たちが、白百合の香りの中を行き交う。

 華やかな光景だ。
 だがカイルの目には、もう別のものが映っている。

 三ヶ月後、この社交界で一人の令嬢が婚約を破棄される。
 そこから転落が始まる。
 追放。幽閉。最悪の場合は、処刑。

 リゼット・クロムウェル。
 ゲームでは「高慢な悪役令嬢」と書かれた少女。

 カイルは後頭部を掻いた。
 全ルートをクリアした自分が言うのも変だ。
 だが、あのキャラクターだけはずっと引っかかっていた。

 主人公に敵対し、断罪されるだけの役。
 プレイヤーに嫌われるために作られた存在。
 けれど処刑エンディングを見たとき、思ったのだ。
 こいつを助けるルートはないのか、と。

 答えはなかった。
 ゲームにそんな選択肢は用意されていない。

 だが今、カイルはゲームの外側にいるのではない。
 この世界の中に、立っている。

「カイル様、お顔の色が」
「大丈夫だ。……少し、酔っただけ」

 嘘だ。酔ったのではない。
 頭の中はまだ嵐のように荒れている。
 だが足は地に着いている。
 それだけ確かめて、大広間へ戻ろうとした。

 柱の影から、令嬢たちの囁き声が滑り込んでくる。

「クロムウェル公爵令嬢、今日もお一人ですわよね」
「当然ですわ。あの方に近づく物好きなんていませんもの」
「王太子殿下のお気に召さないと聞きましたわ」

 足が止まった。
 クロムウェル公爵令嬢。
 たった今、記憶の中で名前を確かめたばかりだ。

 目が勝手に広間を探していた。

 見つけたのは大広間の端だった。
 給仕通路に近い、人目につかない場所。

 太った貴族の男が、若い給仕の襟を掴んでいる。
 男の袖口にワインの染み。給仕の顔は青ざめていた。

「おい、この粗忽者が! ワインを台無しにしおって」

 男の怒声が空気を裂く。
 周囲の貴族たちは視線を逸らしている。
 給仕は身分が低い。関わっても得はない。
 誰もが、そう判断した顔をしていた。

 その空気を断ち切ったのは、低く冷たい声だった。

「ネヴィル男爵」

 銀髪。紫水晶の瞳。
 背筋を一本の剣のように伸ばした少女が、男の前に立っている。

 リゼット・クロムウェル。

 カイルは柱の影から動けなかった。

「クロムウェル公爵令嬢か。これは使用人への躾でしてな」

 ネヴィルの声が一瞬揺れた。
 だが、すぐに尊大な笑みを貼り直す。
 社交界で孤立した令嬢に何ができる。
 腹の底でそう値踏みしている顔だった。

 リゼットは表情を変えなかった。

「あなたの使用人ではありませんわ」

 声に感情はない。
 冬の湖面のように、平らかだった。

「この場の給仕はランベール伯爵家の手配です。他家の人間に手を上げるのは、主催への侮辱ですけれど」

 一拍、間を置いた。

「ご存じなかったのかしら」

 ネヴィルの笑みが凍りついた。
 主催家への侮辱。その言葉の重さを、男は理解している。

「そ、それは……」
「ランベール伯爵に直接ご説明なさいますか? お呼びしましょうか」

 沈黙が落ちた。
 ネヴィルは給仕の襟から手を離す。
 唇を歪め、一言だけ吐き捨てて去っていった。

「……失礼した」

 給仕がリゼットに深く頭を下げる。
 リゼットは小さく頷くと、何事もなかったように踵を返した。

 その横顔を、カイルは柱の影から見つめていた。

 高慢で冷酷な悪役令嬢。
 ゲームのテキストは、そう書いていた。

 だが今、目の前にいるのは違う。
 誰も助けない場所で、一人の給仕を守った少女だ。
 感情を見せず、論理だけで相手を退けた。
 それは冷酷なのではない。
 この社交界で生き残るための、彼女の戦い方だ。

 カイルの左手が、無意識に右の手首を掴んでいた。

「全然、違うじゃないか」

 呟きは誰にも届かない。
 だがカイルの中で、何かが音を立てて噛み合った。

 三ヶ月。
 三ヶ月後にリゼットは婚約を破棄される。
 ゲームにその運命を変えるルートはなかった。

 なら――作ればいい。

 辺境伯家の次男に何ができる。
 権力はない。武力もない。
 あるのはゲームの知識だけだ。

 けれど、もう画面の前で見ているだけじゃない。

 魔法灯が一つ、芯を燃やし尽くして消えた。
 溶けた蝋が燭台を伝い、ゆっくりと垂れ落ちる。

 その灯りが消えた向こう側で、リゼットは一人佇んでいた。
 壁際に。誰にも声をかけられることなく。

 カイルは拳を握った。
 視線が定まる。

 ――俺が動く。


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