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第19章「夜の経済談義」
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「お嬢様、今日は特別な献立にしましょう」
マリアの提案に、私は首を傾げた。
「特別?」
「はい。閣下が頻繁にいらっしゃいますから」
侍女は微笑んだ。私は頬が少し熱くなるのを感じた。
「別に、普通でいいわ」
「でも、お嬢様」
マリアは私の目を見た。
「閣下は、お嬢様に会いに来ているのですよ」
「視察よ。仕事で」
「……そうでしょうか」
マリアは意味深に笑った。
私は答えられなかった。
確かに、カイルの訪問頻度は異常だ。
一ヶ月に一度だったのが、二週間に一度。そして今度は一週間に一度。
しかも、今回は夕方到着の予定だ。
つまり——
「一泊、するつもりなのかしら」
「おそらく」
マリアは頷いた。
「だからこそ、特別な献立を」
「……わかったわ」
私は折れた。マリアは嬉しそうに微笑む。
「オスカーに伝えます」
侍女が部屋を出ていく。
私は窓の外を見た。
夕日が、街道を赤く染めている。
もうすぐ、彼が来る。
胸の奥に、妙な高揚感があった。
――――
夕方、予定通りカイルが到着した。
だが、今回は護衛が二人しかいない。
馬車も小さい。まるで、私的な訪問のような。
「お待ちしておりました、閣下」
私は玄関で出迎えた。カイルは軽く頷く。
「……ああ」
彼の声は、いつもより柔らかい。
「今日は、遅い時間に」
「ああ。朝は、王都で会議があった」
カイルは空を見上げた。既に星が見え始めている。
「夜道は危険です。今晩は、こちらでお休みください」
「……そのつもりだ」
カイルは短く答えた。私は少し驚く。
彼から、滞在を申し出るなんて。
「客室を用意しております」
「ありがとう」
カイルは館へ入った。
私は彼の後ろ姿を見つめた。
彼の歩き方が、前より自然だ。
まるで、ここが自分の家であるかのような。
――――
「今日は、何を視察なさいますか」
応接室で、私は尋ねた。カイルは紅茶を口にする。
「……いや」
「いや、とは」
「今日は、視察は不要だ」
カイルは私を見た。
「あなたと、話がしたい」
私は目を瞬いた。
「話、ですか」
「ああ。経済政策の話がしたいだけです」
カイルは強調した。だが、その声はやや早口だ。
まるで、照れ隠しのような。
「かしこまりました」
私は微笑んだ。カイルは目を逸らす。
「それよりも、夕食の時間だ」
「はい。もう準備ができているはずです」
私たちは食堂へ向かった。
――――
食卓に並んだ料理を見て、カイルが目を見開いた。
「……いつもより、豪華だな」
ローストビーフ、グリル野菜、クリームスープ、焼きたてのパン。
そして、デザートには果物のタルト。
「閣下が頻繁に来てくださるので」
私は答えた。カイルが私を見る。
「感謝している、という意味です」
「……そうか」
カイルは僅かに頬を染めた。
私は驚いた。
彼が、照れている?
いつも冷静なカイルが、こんな表情を見せるなんて。
「どうぞ、召し上がってください」
「ああ」
カイルはフォークを手に取った。
ローストビーフを口に運び、目を閉じる。
「……美味い」
「オスカーが腕を振るいました」
「彼に、礼を言いたい」
カイルは続けて料理を口にした。
食事が進む。会話も、自然に弾んだ。
農業の話。王都の経済状況。近隣領地の動向。
だが、次第に話題が変わっていく。
仕事の話から、私的な内容へ。
「エリナ」
「はい」
「あなたの……幼少期は、どんなだった」
カイルが尋ねた。私は少し考える。
「平凡、でしょうか」
「平凡?」
「ええ。公爵家の令嬢として、普通の教育を受けました」
カイルは首を傾げた。
「だが、あなたの知識は普通ではない」
「独学です」
「独学で、あれほどの経営知識が身につくとは思えない」
彼は私を見つめる。
「何か、特別な師がいたのではないか」
「……いえ」
私は首を横に振った。
前世の記憶、とは言えない。
「ただ、本を読むのが好きでした」
「本?」
「ええ。父の書斎には、古い経済書がたくさんありました」
嘘ではない。実際、公爵家の書斎には膨大な蔵書があった。
カイルは納得したように頷いた。
「なるほど」
食事が続く。オスカーとマリアが給仕をしている。
だが、やがてカイルが二人を見た。
「……少し、席を外してもらえないか」
オスカーとマリアが顔を見合わせる。
「私たちが、お邪魔でしたか」
マリアが尋ねた。カイルは首を横に振る。
「いや。ただ、二人で話したいだけだ」
オスカーが一礼する。
「かしこまりました」
二人は退室した。
私とカイル、二人きりになる。
食堂に、静寂が降りる。
だが、不快な沈黙ではない。
むしろ、心地よい。
「エリナ」
「はい」
「もう少し、話をしたい」
カイルは立ち上がった。
「書斎で、いいか」
「もちろんです」
――――
書斎は、静かだった。
本棚に囲まれた部屋。暖炉の火が、柔らかく揺れている。
私とカイルは、ソファに向かい合って座った。
「紅茶をお持ちしましょうか」
「いや、不要だ」
カイルは首を横に振った。
「ただ、話がしたい」
「経済政策の、ですか」
「……ああ」
カイルは目を逸らした。
また、照れ隠しのような仕草だ。
私は微笑んだ。
「では、何をお聞きになりたいですか」
「あなたの……いや」
カイルは言葉を切った。
「婚約破棄されて、辛くなかったか」
また、その質問だ。
だが、今回は前回とは違う。
カイルの声に、明確な心配がある。
「私が傷ついていないか、心配してくださっているのですか」
「……ああ」
カイルは頷いた。
私は驚いた。
彼が、私を心配している。
財務大臣が、一介の辺境領主を。
「ありがとうございます」
「答えてくれるか」
「ええ」
私は微笑んだ。
「正直に言えば、もう辛くありません」
「もう?」
「ええ。最初は、少し傷つきました」
私は窓の外を見た。
「でも、この地に来て。自分の力で何かを創って」
「……そうか」
「今は、幸せです」
私は彼を見た。
「本当に、幸せです」
カイルは何も言わなかった。
ただ、じっと私を見つめている。
その視線に、深い何かがあった。
やがて、彼の唇が僅かに動いた。
「……良かった」
小さな声。だが、確かに聞こえた。
「閣下?」
「あなたが幸せなら、それでいい」
カイルは目を伏せた。
私は胸の奥に、温かいものが広がるのを感じた。
彼は、私の幸せを願っている。
なぜ。
なぜ、そこまで。
「カイル様」
「……カイルでいい」
彼は顔を上げた。
「閣下、ではなく」
「でも——」
「頼む」
カイルの声は、真剣だった。
私は頷いた。
「……カイル」
「ああ」
彼の表情が、柔らかくなった。
そして——
笑った。
初めて見る、彼の笑顔。
優しく、穏やかで、温かい。
私は息を呑んだ。
彼が、こんな表情を見せるなんて。
「エリナ」
「はい」
「なぜ、そこまで領民を大切にする」
「それは……」
私は少し考えた。
「彼らは、私を信じてくれたからです」
「信じた?」
「ええ。荒れ果てた土地に来た私を、疑わずに従ってくれました」
私は微笑んだ。
「だから、私も彼らを裏切りたくない」
カイルは黙って聞いている。
「彼らの生活を、より良くしたい」
「……あなたは、優しいな」
「優しい、というより——」
私は言葉を探した。
「責任、でしょうか」
カイルが首を傾げる。
「責任?」
「ええ。領主として、彼らの生活を守る責任」
「……なるほど」
カイルは納得したように頷いた。
「あなたは、本当に優れた領主だ」
「そんなことは」
「いや、本当だ」
彼は真剣な顔で言った。
「私は、多くの領主を見てきた」
「……はい」
「だが、あなたのような領主は、初めてだ」
カイルは立ち上がった。
窓の外を見る。
月が、フェルゼンの大地を照らしている。
「この領地は、必ず発展する」
「ありがとうございます」
「私が、保証しよう」
カイルは振り返った。
「あなたを、全力で支援する」
その言葉に、私は胸が熱くなった。
「なぜ、そこまで」
「……なぜだろうな」
カイルは苦笑した。
「自分でも、わからない」
彼は窓の外を見た。
「ただ、あなたの成功を見たい」
「カイル……」
「もう遅い。休もう」
カイルは急に話を切り上げた。
まるで、これ以上話すと危険だと感じたかのように。
「はい」
私も立ち上がった。
二人で、書斎を出る。
廊下で、カイルが振り返った。
「次は……一週間後……いや」
「はい?」
「三日後にでも、来てもいいか」
私は目を瞬いた。
「三日後、ですか」
「……ああ」
カイルは目を逸らした。
「確認したいことが、多い」
その声は、言い訳がましかった。
「もちろんです」
私は微笑んだ。
「いつでも、お待ちしております」
「……ありがとう」
カイルは客室へ向かった。
私も自分の部屋へ戻る。
扉を開けると、マリアが待っていた。
「お嬢様」
「マリア」
「お疲れ様でした」
侍女は微笑んだ。
私はベッドに座った。
マリアが隣に座る。
「お嬢様」
「何?」
「これは、恋ですよ」
私は固まった。
「恋……?」
「はい」
マリアは頷いた。
「閣下は、お嬢様に恋をしています」
「まさか」
私は首を横に振った。
「彼は、仕事で——」
「お嬢様」
マリアは私の手を握った。
「閣下の目を、見ましたか」
「目……?」
「あれは、恋する男性の目です」
侍女は断言した。
私は何も言えなかった。
カイルの目。
確かに、前回とは違った。
優しく、温かく、そして——
「でも、私は……」
「お嬢様は、どう思っていますか」
マリアが尋ねた。
私は答えられなかった。
どう思っているのだろう。
カイルのことを。
胸の奥に、妙な温かさがある。
彼と話していると、心地よい。
彼の笑顔を見ると、嬉しい。
彼が来ると、待ち遠しい。
これは——
「……わからないわ」
私は呟いた。
マリアは優しく微笑んだ。
「いずれ、わかりますよ」
侍女は立ち上がった。
「おやすみなさい、お嬢様」
「おやすみ、マリア」
扉が閉まる。
私は一人、窓の外を見た。
月が、静かに輝いている。
カイル。
彼の笑顔が、脳裏に浮かぶ。
私は、頬に手を当てた。
熱い。
私は、一体どうしてしまったのだろう。
マリアの提案に、私は首を傾げた。
「特別?」
「はい。閣下が頻繁にいらっしゃいますから」
侍女は微笑んだ。私は頬が少し熱くなるのを感じた。
「別に、普通でいいわ」
「でも、お嬢様」
マリアは私の目を見た。
「閣下は、お嬢様に会いに来ているのですよ」
「視察よ。仕事で」
「……そうでしょうか」
マリアは意味深に笑った。
私は答えられなかった。
確かに、カイルの訪問頻度は異常だ。
一ヶ月に一度だったのが、二週間に一度。そして今度は一週間に一度。
しかも、今回は夕方到着の予定だ。
つまり——
「一泊、するつもりなのかしら」
「おそらく」
マリアは頷いた。
「だからこそ、特別な献立を」
「……わかったわ」
私は折れた。マリアは嬉しそうに微笑む。
「オスカーに伝えます」
侍女が部屋を出ていく。
私は窓の外を見た。
夕日が、街道を赤く染めている。
もうすぐ、彼が来る。
胸の奥に、妙な高揚感があった。
――――
夕方、予定通りカイルが到着した。
だが、今回は護衛が二人しかいない。
馬車も小さい。まるで、私的な訪問のような。
「お待ちしておりました、閣下」
私は玄関で出迎えた。カイルは軽く頷く。
「……ああ」
彼の声は、いつもより柔らかい。
「今日は、遅い時間に」
「ああ。朝は、王都で会議があった」
カイルは空を見上げた。既に星が見え始めている。
「夜道は危険です。今晩は、こちらでお休みください」
「……そのつもりだ」
カイルは短く答えた。私は少し驚く。
彼から、滞在を申し出るなんて。
「客室を用意しております」
「ありがとう」
カイルは館へ入った。
私は彼の後ろ姿を見つめた。
彼の歩き方が、前より自然だ。
まるで、ここが自分の家であるかのような。
――――
「今日は、何を視察なさいますか」
応接室で、私は尋ねた。カイルは紅茶を口にする。
「……いや」
「いや、とは」
「今日は、視察は不要だ」
カイルは私を見た。
「あなたと、話がしたい」
私は目を瞬いた。
「話、ですか」
「ああ。経済政策の話がしたいだけです」
カイルは強調した。だが、その声はやや早口だ。
まるで、照れ隠しのような。
「かしこまりました」
私は微笑んだ。カイルは目を逸らす。
「それよりも、夕食の時間だ」
「はい。もう準備ができているはずです」
私たちは食堂へ向かった。
――――
食卓に並んだ料理を見て、カイルが目を見開いた。
「……いつもより、豪華だな」
ローストビーフ、グリル野菜、クリームスープ、焼きたてのパン。
そして、デザートには果物のタルト。
「閣下が頻繁に来てくださるので」
私は答えた。カイルが私を見る。
「感謝している、という意味です」
「……そうか」
カイルは僅かに頬を染めた。
私は驚いた。
彼が、照れている?
いつも冷静なカイルが、こんな表情を見せるなんて。
「どうぞ、召し上がってください」
「ああ」
カイルはフォークを手に取った。
ローストビーフを口に運び、目を閉じる。
「……美味い」
「オスカーが腕を振るいました」
「彼に、礼を言いたい」
カイルは続けて料理を口にした。
食事が進む。会話も、自然に弾んだ。
農業の話。王都の経済状況。近隣領地の動向。
だが、次第に話題が変わっていく。
仕事の話から、私的な内容へ。
「エリナ」
「はい」
「あなたの……幼少期は、どんなだった」
カイルが尋ねた。私は少し考える。
「平凡、でしょうか」
「平凡?」
「ええ。公爵家の令嬢として、普通の教育を受けました」
カイルは首を傾げた。
「だが、あなたの知識は普通ではない」
「独学です」
「独学で、あれほどの経営知識が身につくとは思えない」
彼は私を見つめる。
「何か、特別な師がいたのではないか」
「……いえ」
私は首を横に振った。
前世の記憶、とは言えない。
「ただ、本を読むのが好きでした」
「本?」
「ええ。父の書斎には、古い経済書がたくさんありました」
嘘ではない。実際、公爵家の書斎には膨大な蔵書があった。
カイルは納得したように頷いた。
「なるほど」
食事が続く。オスカーとマリアが給仕をしている。
だが、やがてカイルが二人を見た。
「……少し、席を外してもらえないか」
オスカーとマリアが顔を見合わせる。
「私たちが、お邪魔でしたか」
マリアが尋ねた。カイルは首を横に振る。
「いや。ただ、二人で話したいだけだ」
オスカーが一礼する。
「かしこまりました」
二人は退室した。
私とカイル、二人きりになる。
食堂に、静寂が降りる。
だが、不快な沈黙ではない。
むしろ、心地よい。
「エリナ」
「はい」
「もう少し、話をしたい」
カイルは立ち上がった。
「書斎で、いいか」
「もちろんです」
――――
書斎は、静かだった。
本棚に囲まれた部屋。暖炉の火が、柔らかく揺れている。
私とカイルは、ソファに向かい合って座った。
「紅茶をお持ちしましょうか」
「いや、不要だ」
カイルは首を横に振った。
「ただ、話がしたい」
「経済政策の、ですか」
「……ああ」
カイルは目を逸らした。
また、照れ隠しのような仕草だ。
私は微笑んだ。
「では、何をお聞きになりたいですか」
「あなたの……いや」
カイルは言葉を切った。
「婚約破棄されて、辛くなかったか」
また、その質問だ。
だが、今回は前回とは違う。
カイルの声に、明確な心配がある。
「私が傷ついていないか、心配してくださっているのですか」
「……ああ」
カイルは頷いた。
私は驚いた。
彼が、私を心配している。
財務大臣が、一介の辺境領主を。
「ありがとうございます」
「答えてくれるか」
「ええ」
私は微笑んだ。
「正直に言えば、もう辛くありません」
「もう?」
「ええ。最初は、少し傷つきました」
私は窓の外を見た。
「でも、この地に来て。自分の力で何かを創って」
「……そうか」
「今は、幸せです」
私は彼を見た。
「本当に、幸せです」
カイルは何も言わなかった。
ただ、じっと私を見つめている。
その視線に、深い何かがあった。
やがて、彼の唇が僅かに動いた。
「……良かった」
小さな声。だが、確かに聞こえた。
「閣下?」
「あなたが幸せなら、それでいい」
カイルは目を伏せた。
私は胸の奥に、温かいものが広がるのを感じた。
彼は、私の幸せを願っている。
なぜ。
なぜ、そこまで。
「カイル様」
「……カイルでいい」
彼は顔を上げた。
「閣下、ではなく」
「でも——」
「頼む」
カイルの声は、真剣だった。
私は頷いた。
「……カイル」
「ああ」
彼の表情が、柔らかくなった。
そして——
笑った。
初めて見る、彼の笑顔。
優しく、穏やかで、温かい。
私は息を呑んだ。
彼が、こんな表情を見せるなんて。
「エリナ」
「はい」
「なぜ、そこまで領民を大切にする」
「それは……」
私は少し考えた。
「彼らは、私を信じてくれたからです」
「信じた?」
「ええ。荒れ果てた土地に来た私を、疑わずに従ってくれました」
私は微笑んだ。
「だから、私も彼らを裏切りたくない」
カイルは黙って聞いている。
「彼らの生活を、より良くしたい」
「……あなたは、優しいな」
「優しい、というより——」
私は言葉を探した。
「責任、でしょうか」
カイルが首を傾げる。
「責任?」
「ええ。領主として、彼らの生活を守る責任」
「……なるほど」
カイルは納得したように頷いた。
「あなたは、本当に優れた領主だ」
「そんなことは」
「いや、本当だ」
彼は真剣な顔で言った。
「私は、多くの領主を見てきた」
「……はい」
「だが、あなたのような領主は、初めてだ」
カイルは立ち上がった。
窓の外を見る。
月が、フェルゼンの大地を照らしている。
「この領地は、必ず発展する」
「ありがとうございます」
「私が、保証しよう」
カイルは振り返った。
「あなたを、全力で支援する」
その言葉に、私は胸が熱くなった。
「なぜ、そこまで」
「……なぜだろうな」
カイルは苦笑した。
「自分でも、わからない」
彼は窓の外を見た。
「ただ、あなたの成功を見たい」
「カイル……」
「もう遅い。休もう」
カイルは急に話を切り上げた。
まるで、これ以上話すと危険だと感じたかのように。
「はい」
私も立ち上がった。
二人で、書斎を出る。
廊下で、カイルが振り返った。
「次は……一週間後……いや」
「はい?」
「三日後にでも、来てもいいか」
私は目を瞬いた。
「三日後、ですか」
「……ああ」
カイルは目を逸らした。
「確認したいことが、多い」
その声は、言い訳がましかった。
「もちろんです」
私は微笑んだ。
「いつでも、お待ちしております」
「……ありがとう」
カイルは客室へ向かった。
私も自分の部屋へ戻る。
扉を開けると、マリアが待っていた。
「お嬢様」
「マリア」
「お疲れ様でした」
侍女は微笑んだ。
私はベッドに座った。
マリアが隣に座る。
「お嬢様」
「何?」
「これは、恋ですよ」
私は固まった。
「恋……?」
「はい」
マリアは頷いた。
「閣下は、お嬢様に恋をしています」
「まさか」
私は首を横に振った。
「彼は、仕事で——」
「お嬢様」
マリアは私の手を握った。
「閣下の目を、見ましたか」
「目……?」
「あれは、恋する男性の目です」
侍女は断言した。
私は何も言えなかった。
カイルの目。
確かに、前回とは違った。
優しく、温かく、そして——
「でも、私は……」
「お嬢様は、どう思っていますか」
マリアが尋ねた。
私は答えられなかった。
どう思っているのだろう。
カイルのことを。
胸の奥に、妙な温かさがある。
彼と話していると、心地よい。
彼の笑顔を見ると、嬉しい。
彼が来ると、待ち遠しい。
これは——
「……わからないわ」
私は呟いた。
マリアは優しく微笑んだ。
「いずれ、わかりますよ」
侍女は立ち上がった。
「おやすみなさい、お嬢様」
「おやすみ、マリア」
扉が閉まる。
私は一人、窓の外を見た。
月が、静かに輝いている。
カイル。
彼の笑顔が、脳裏に浮かぶ。
私は、頬に手を当てた。
熱い。
私は、一体どうしてしまったのだろう。
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