デバッグゲームⅡ

zax022

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17話:接触、あるいは侵食

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1. ズレる日常、数値化される世界

 かつて芳醇な香りで私を安らかにしてくれたモーニングコーヒーは、今やただの「高温液体データ」として認識されていた。

 アジトのリビング。私は、湯気を立てるマグカップを、意識的に左手で握りしめていた。
 私の視界(UI)には、カップの中身がリアルタイムで解析され、タグ付けされている。
 【Object: Coffee / Temp: 82°C / Composition: Caffeine, H2O...】
 見たくもない情報が、網膜に直接プロジェクションマッピングされる感覚。瞬きをしても、この数値の羅列は消えない。

 そして、右手。
 膝の上に置いたその腕は、肘から先が物理的な皮膚を失い、青白く明滅するクリスタルのような『ノイズ』の集合体と化していた。
 意識を集中すれば、物理干渉(コリジョン)を有効化して物に触れることはできる。だが、少しでも気を抜くと、私の腕は幽霊のように現実をすり抜けてしまう。

 カチャン。
 テーブルにスプーンを置こうとして、指先が木製の天板を透過(パススルー)した。スプーンが不格好な音を立てて転がる。

「……イヴ、大丈夫か? 俺がやろうか?」
 キッチンでトーストを焼いていたカイが、背中越しに声をかけてくる。
 振り返ると彼の顔の横には、赤いゲージが浮かんでいた。
 【Target: Kai / Stress Level: High / Emotion: Worry】
 彼の優しささえも、パラメータとして可視化されてしまう。その事実が、私たちがもう「同じ種類の生物」ではないことを残酷に突きつけてくるようで、私は息が詰まった。

「平気よ。ちょっと、出力調整(キャリブレーション)に慣れてないだけ」
 私は努めて明るく振る舞い、透過しかけた右手でスプーンを拾い上げた。指先に走る、微かな電気的抵抗の感触。これが今の私にとっての「触覚」だ。

 脳内では、常に何千ものプロセスがバックグラウンドで走っている。世界中のネットワークノイズが、遠くの耳鳴りのように絶えず響いている。
 私は、人間としての自我(エゴ)を維持するために、無意識のうちに膨大な処理能力を浪費し続けていた。

「無理すんなよ。お前の体は今、バグだらけのベータ版OSみたいなもんなんだから」
 リナがソファから身を乗り出し、私の右腕を覗き込む。彼女の瞳には、純粋な好奇心と、わずかな畏怖が混ざっていた。
「でもさ、近くで見るとすっげー綺麗だよね。サファイアみたいに透き通ってて、中で光が流れてるんだよな」
「綺麗だけど、凶器よ。あんたのスマホ、うっかり触ったら中身が初期化されるかもよ」
「うげっ、マジ勘弁。バックアップ取ってないのに」

 軽口を叩き合う。そうでもしていないと、日常の境界線がガラガラと崩れ落ちてしまいそうだったからだ。

 2. 都市のバグ、破綻するテクスチャ

 その時、アジト全体に張り巡らされた監視システムの警報が、けたたましく鳴り響いた。
 リビングの大型モニターが自動起動し、ノイズと共にアキの姿が映し出される。

「休息の邪魔をして悪いが、仕事だ。渋谷区の第3ブロック、スクランブル交差点付近で、大規模な『空間異常』が発生している」
「空間異常?」
 カイが素早くトーストを放り出し、メインコンソールへと飛びついた。キーボードを叩く指が残像を生む。
「なんだこれ……! 街の一部が、地図データから消失してる? いや、座標(ジオメトリ)はあるのに、表面情報(テクスチャ)が貼られていないみたいだ……」

 現場のライブ映像がメインスクリーンに展開される。
 私たちは息を呑んだ。

 そこは、見慣れたはずの繁華街だった。だが、景色は狂っていた。
 巨大な商業ビルの半分が、建設途中のCGのように緑色のワイヤーフレームだけになり、アスファルトの地面は、テレビの砂嵐(グリッチ)のように激しく明滅している。
 逃げ惑う人々の動きもおかしい。まるで通信環境の悪いオンラインゲームのように、数メートル瞬間移動したり、同じ動作を何度も繰り返したりしている。物理法則のレンダリングが追いついていないのだ。

「ガーディアンが消滅した影響だ」
 アキの声は、氷のように冷静だった。
「歴史の自浄作用が一時的に麻痺している。本来この時間軸にあるべきではない『矛盾』が、物理的なバグとして表面化し始めた。放置すれば、この侵食は連鎖的に拡大し、都市全体が崩壊領域(ヴォイド)に飲み込まれるぞ」

「つまり、私の出番ってことね」
 私は立ち上がった。戦闘への意志(トリガー)を感じ取ったのか、右手のノイズが、キィンという鋭い駆動音と共に強く輝き始めた。

 3. 物理編集(フィジカル・エディット)

 現場は、デジタルな地獄絵図と化していた。
 空間の裂け目からは、プログラミングのゴミデータが凝縮されたような、黒い霧状の怪物が次々と這い出してきている。目も鼻もない、ただ「破壊」という命令(コード)だけで動くバグの群体だ。

「リナ、右翼の市民を誘導して! カイは空間構造の解析を! 私は中枢を叩く!」
「了解! 無茶すんなよイヴ、お前のその体、まだ実戦データがないんだからな!」

 カイの制止を背に、私はグリッチの嵐の中へ飛び込んだ。
 黒い霧の怪物が、不快なノイズ音を撒き散らしながら襲い掛かってくる。
 以前の私なら、ここでカイにハッキングコードを要請し、タイミングを合わせて弱点に物理攻撃を叩き込んでいただろう。
 だが、今は違う。

 私は、襲い来る怪物の顔面と覚しき箇所へ、右手を突き出した。
 殴るのではない。**「掴む」**のだ。

 私の指が怪物の輪郭に触れた瞬間、脳内にコマンドウィンドウがポップアップする。
 【Target Identified: Error_Data_Type_C】
 【Action Select: Delete】

 私は思考だけでエンターキーを叩く。
 私の右腕から溢れ出した青い光のコードが、怪物の体を侵食し、その存在定義(ソースコード)を強制的に書き換える。

 バシュッ!!
 怪物は断末魔を上げる暇もなく、0と1のバイナリデータへと分解され、青い粒子となって霧散した。

「すげぇ……。ハッキングじゃない、現実そのものの『編集』だ……」
 ドローン経由で見ているカイの震える声が、インカムから聞こえる。

 私は走った。
 アスファルトが液状化して波打つ地面を跳躍し、垂直なビルの壁面を蹴る。足場が崩れても関係ない。右手を一振りすれば、空中に新たな「不可視の足場(プラットフォーム)」を生成できる。重力係数さえ、今の私には書き換え可能なパラメータの一つに過ぎない。

 万能感。
 まるで、この空間全てが私の支配下にある箱庭のような、圧倒的な自由。
 これが、境界を越えた者の視界。

 空間異常の中心核(コア)が見えた。空中に浮かぶ、巨大なエラーメッセージの結晶体。赤黒く脈動し、周囲の現実を腐らせている元凶。
 私は高く跳び上がり、右腕を槍のように鋭く変形させて突き出した。

「修正(デバッグ)……完了ッ!!」

 結晶体が砕け散る。
 瞬間、世界を覆っていたグリッチが波紋のように収束し、ワイヤーフレームだったビルにテクスチャが戻り、人々の動作(フレームレート)が正常化していく。
 世界が、あるべき形に再構成された。

 4. 代償の侵食

「やった……! 完璧だ、イヴ!」
 リナが瓦礫を乗り越えて駆け寄ってくる。少し離れた場所から、カイも安堵の表情でこちらへ向かってくるのが見えた。
 私は着地し、二人に向かってサムズアップをしようと右手を上げた。

 だが。
 ズキン、と脳髄を直接焼かれるような激痛が右肩を走った。

「ぐっ……!?」
 私は声にならない悲鳴を上げ、その場に膝をついた。
 見ると、右腕の青いノイズが、肘の境界線を超えて、生身の二の腕の方まで這い上がってきている。
 皮膚がジジジと焼け焦げるような音。肉体がデータに分解され、「食われて」いる。

「イヴ!?」
 カイが血相を変えて駆け寄り、私を支えようと手を伸ばす。
 しかし、彼の手が私の肩に触れた瞬間、バチィッ! と激しいスパークが弾けた。
「うわっ!?」
「触らないで! ……くっ、大丈夫、すぐに収まる……!」

 私は歯を食いしばり、脂汗を流しながら、暴走する右腕の出力を精神力で捩じ伏せる。
 脳内のイメージでファイアウォールを展開し、ノイズを肘の先へと押し戻す。
 数秒の必死の格闘の末、侵食はようやく後退し、痛みも引いていった。

 荒い息をつく私を、カイが痛ましげに見下ろしている。自分の手が弾かれたことへのショックと、私への心配がないまぜになった表情。

「……アキの言っていた通りだ」
 カイの声が震えている。
「その力を使えば使うほど、お前の体は『あちら側』へ引っ張られる。侵食が進めば、最後にはお前自身の存在が……」

 消失(ロスト)する。
 カイは口にしなかったが、その言葉の意味は、痛いほどこの場の空気を支配していた。

 5. 観測者の影

 私たちが去った後。
 正常に戻ったビルの屋上から、眼下の街を見下ろす二つの人影があった。

 一人は、仕立てのいい黒いスーツに身を包んだ長身の男。
 もう一人は、豪奢なゴシックドレスを着た幼い少女。だが、その瞳に白目はなく、代わりに無数のバーコードのような紋様が回転している。

「――確認しました。対象『イヴ・クロセ』の覚醒レベルは、予測値(ベータ)を大幅に超過」
 少女が、愛らしい外見に似合わぬ無機質な機械音声で呟く。
「旧式(ガーディアン・モデル)の排除も納得ですね。彼女は、すでにシステムへの『鍵(アクセス権)』としての機能を獲得しています」

 男は、手の中にあるアンティークな懐中時計のようなデバイスをもてあそびながら、口角を歪めた。
「ああ。だが、非常に不安定だ。あの出力では、器が持たないぞ」

「回収しますか? 歴史修正官(コレクター)として」
 少女の問いに、男はデバイスの蓋を閉じた。パチン、という乾いた音が風に乗る。

「いや、まだ早い」
 男の目が、獲物を狙う蛇のように細められた。
「泳がせよう。彼女がどこまで『進化』するか、見ものだ。それに、我々が手を下さずとも、彼女自身の力が、彼女を内側から食い尽くすかもしれない」

 新たな刺客の冷ややかな視線になど気づかず、私はアジトへの帰路で、自分の右腕を強く握りしめていた。
 手に入れた圧倒的な力と、刻一刻と迫る破滅へのカウントダウン。
 私のデバッグゲームは、より過酷で、引き返せないステージへと進んでいた。


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