路地裏オメガの餌付け婚~味覚を失った最強公爵様は、僕の料理とフェロモンにだけ発情するようです~

水凪しおん

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第8話「発熱と理性の境界線」

 意識が高熱の沼の中を漂っているようだった。

 視界は涙と熱気で霞み、世界が歪んで見える。自分の体なのに、指先一つ動かすのも億劫で、ただ内側から突き上げてくる甘い疼きに翻弄されていた。

 恐怖によって引き起こされた強制的な発情期(ヒート)。

 抑制剤を飲んでいたとしても、本能の濁流は理性の堤防を容易く決壊させる。

 甘く、淫らな果実の香りが、自分自身からとめどなく溢れ出ているのがわかった。

「はっ、ぁ……あつい、くるしい……」

 僕は誰かに抱き抱えられていた。

 硬く逞しい胸板。包み込むような太い腕。そして、鼻先をくすぐる冷涼な雪と氷の香り。

 レオンハルト様だ。

 彼の匂いを嗅ぐだけで、体の奥の芯が痺れるように歓喜する。

 欲しい。もっと触れてほしい。

 本能がそう叫んでいた。オメガとして、運命のアルファを求める根源的な渇望。

「……我慢しろ、ノア。もうすぐ部屋に着く」

 耳元で聞こえる彼の声は、鋼のように硬く、けれど微かに震えていた。

 彼は早足で廊下を進んでいく。すれ違う使用人たちが驚愕の声を上げても、彼は一切構わずに主寝室の重厚な扉を蹴り開けた。

 天蓋付きの巨大なベッドに、壊れ物を扱うようにそっと寝かされる。

 シルクのシーツがひんやりとして気持ちいい。けれど、体内の炎は消えるどころか、ますます勢いを増して僕を焼き尽くそうとしていた。

「レオンハルト、さま……」

 僕は無意識のうちに腕を伸ばし、離れようとする彼の襟元を掴んでいた。

 行かないで。一人にしないで。

 懇願するように潤んだ瞳で見上げると、レオンハルト様は苦悶くもんに顔を歪めた。その瞳孔は細まり、捕食者の凶暴な光を宿しているのに、必死で己を律しているのが痛いほど伝わってくる。

「ノア、手を離せ。今の俺は……危険だ」

 彼の喉が大きく動く。

 目の前に、発情した番のオメガがいるのだ。アルファとしての本能は、今すぐに僕を組み敷き、喉元に喰らいついて所有の印を刻み込めと命じているはずだ。

 それでも、彼は僕を傷つけまいと踏みとどまっている。

「いや……です。そばに、いて……」

 僕の理屈じゃない言葉に、彼の最後の理性がきしむ音が聞こえた気がした。

 彼はゆっくりとベッドの縁にひざまずき、僕の熱い頬に大きな手を添えた。

 冷たい。

 氷狼の異名を持つ彼の体温は、火照った僕の肌にはこの上ない救いだった。

「……愚かな。食われても知らんぞ」

 そうつぶやくと、彼は覆いかぶさるようにして身を寄せた。

 唇が重なる。

 初めてのキスは、甘くて、少ししょっぱくて、溶けるように熱かった。

 彼の舌が僕の口腔を割り入り、絡みつく。

 思考が白く弾けた。

 背筋を駆け上がる快楽のスパーク。

 僕は彼の背中に爪を立て、夢中でしがみついた。

「んぅ、あ……っ」

 荒い息遣いが部屋に満ちる。

 彼の手がシャツの裾から入り込み、敏感な腰を撫で上げる。その指先から冷気が染み込み、熱と冷たさが混ざり合って、得も言われぬ感覚に襲われる。

 このまま、一つになりたい。

 彼に全てを委ねてしまいたい。

 けれど、ギリギリのところでレオンハルト様は動きを止めた。

「……これ以上は、だめだ」

 彼は荒い息を吐きながら、額を僕の額に押し付けた。

 至近距離で見つめ合う瞳は、欲望の炎で青く燃え上がっているのに、その奥には深い慈愛があった。

「こんな、本能に流されただけの交わりで、お前を縛りたくない。俺が欲しいのは、お前の心だ。お前自身の意思で、俺を選んでほしい」

 彼の言葉が、熱に浮かされた僕の脳裏に深く刻まれた。

 なんて、高潔で不器用な人なのだろう。

 最強の公爵様が、こんなにも臆病に愛を乞うている。

「……レオンハルト様」

「眠れ、ノア。熱を冷ます魔法をかける」

 彼がつぶやくと、部屋の中に粉雪のような光の粒子が舞い始めた。

 涼やかな風が肌を撫でる。

 激しかった動悸が、少しずつ穏やかなリズムを取り戻していく。

 魔法の心地よさと、彼の腕の安心感に包まれて、僕の意識は急速に暗闇へと沈んでいった。

 最後に感じたのは、髪を撫でる優しい手つきと、「愛している」という微かなつぶやきだった。

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