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第3話「秘密の夜の誓い」
季節は移ろい、ドラマの撮影も佳境に入っていた。リュウとハルトの関係は、周囲には気づかれないまま、ゆっくりと、しかし確実に深まっていた。視線が合えば、どちらからともなく微笑みがこぼれる。二人きりになれる僅かな時間を見つけては、他愛ない言葉を交わす。その全てが、二人にとってはかけがえのない宝物だった。
だが、運命は時に、恋人たちに過酷な試練を与える。
その日は、特に重要なシーンの撮影が朝から深夜まで続いていた。緊張感と寝不足、そして迫り来るクランクアップへのプレッシャーが、ハルトの心身を知らず知らずのうちに蝕んでいた。オメガである彼は、もともとストレスに弱い体質だ。周期をコントロールするための抑制剤は服用していたが、極度の疲労は、その効果をいとも簡単に揺るがしてしまう。
最後のカットの声がかかった直後、ハルトは立っていられないほどの強い目眩に襲われた。ぐらりと揺れた体を、隣にいたリュウが咄嗟に支える。
「おい、大丈夫か?」
「……すみません、ちょっと、立ちくらみが……」
そう答えるハルトの声は掠れ、呼吸も浅くなっている。何より、彼の体から放たれる微かな香りに、リュウのアルファとしての本能が警鐘を鳴らした。甘く、とろけるような、危険な香り。予期せぬヒートの兆候だった。
まだフェロモンは微弱で、ベータのスタッフたちは気づいていない。だが、この場には他のアルファの俳優やスタッフもいる。彼らがこの香りを嗅ぎつければ、パニックになることは必至だ。そして何より、ハルトが好奇の目に晒され、俳優生命を絶たれてしまう可能性すらある。
リュウの頭が、猛烈な速さで回転する。
「結衣さん!」
リュウは鋭い声でマネージャーを呼ぶと、ハルトの体を支えながら早口で指示した。
「桜庭くん、貧血で倒れた。俺の楽屋に運ぶ。後のことは頼む」
結衣はリュウのただならぬ様子と、ハルトの尋常でない顔色を見て、瞬時に状況を察した。彼女は動揺を見せることなく、冷静に頷く。
「わかったわ。プロデューサーには私から話しておく」
リュウは周囲に気づかれないよう、さりげなく、しかし力強くハルトを抱えるようにして廊下に出ると、足早に自分の楽屋へと向かった。
鍵のかかる楽屋に入った瞬間、リュウはハルトをソファにそっと横たえた。密室になったことで、甘いフェロモンが一層濃密になる。それは、どんなアルファの理性をも麻痺させる、抗いがたい誘惑の香りだった。リュウの体も熱を帯び、本能がハルトを支配しろと叫んでいる。
「……っ、はぁ、……りゅう、さん……」
ハルトは苦し気に喘ぎながら、潤んだ瞳でリュウを見上げた。意識は朦朧とし、自分の身に何が起きているのか、完全には理解できていないようだった。だが、目の前のリュウが自分を守ろうとしてくれていることだけは、ぼんやりと分かった。
「大丈夫だ。俺がいる」
リュウは自分自身に言い聞かせるように、強く言った。彼はポケットから抑制剤の予備を取り出すと、震える手でハルトの口元へと運ぶ。しかし、ハルトはそれを飲む力も残っていないようだった。
「……だめ、です……もう、きかない……」
絶望的な言葉と共に、さらに強いフェロモンの波が放たれる。リュウは奥歯をギリリと噛み締めた。全身の血が沸騰するようだ。今すぐこの華奢な体を組み敷き、その全てを自分のものにしてしまいたい。剥き出しの本能が、理性の壁を突き破ろうと暴れ狂う。
だが、リュウは首を横に振った。ここで本能に負ければ、自分は獣と変わらない。そして、何より大切なこの存在を、心も体も深く傷つけてしまうことになる。
「陽翔」
リュウは、初めてハルトを名前で呼んだ。そして、彼の汗で濡れた前髪を優しくかき分ける。
「しっかりしろ。俺を見ろ」
その声には、アルファとしての強い意志が込められていた。ハルトの焦点の合わなかった瞳が、ゆっくりとリュウを捉える。
「君を、傷つけたくない。意に染まない形で、君を抱きたくはないんだ」
リュウは必死だった。獣になりかけた自分を抑えつけ、一人の男として、愛する人を守るために。彼は冷たい水で濡らしたタオルでハルトの額を拭い、ただひたすら、嵐が過ぎるのを待った。自分のフェロモンを極限まで抑え込み、代わりに落ち着かせる効果のある香りを放ちながら、ハルトを優しく抱きしめた。
それは、理性と本能の、壮絶な戦いだった。
どれほどの時間が経ったのか。ハルトの呼吸が少しずつ穏やかになり、危険なフェロモンの嵐が、ようやく凪いできた。
「……りゅうや、さん……」
意識を取り戻したハルトが、リュウの胸の中で小さな声で呟いた。
「……もう大丈夫か?」
リュウの声は、極度の緊張と疲労で掠れていた。
ハルトは、自分がしでかしてしまったことの重大さに気づき、顔を青ざめさせた。そして、自分のために必死に戦ってくれたリュウの姿に、涙が止めどなく溢れてくる。
「ごめんなさい……ごめんなさい、迷惑を……」
「謝るな」
リュウは、その言葉を遮るように、しかし穏やかに言った。そして、ハルトの涙を指で優しく拭う。
「俺は、君を守りたかった。ただ、それだけだ」
その真摯な瞳に見つめられ、ハルトの心臓が甘く痛んだ。
「……陽翔」
リュウはハルトの頬に手を添え、まっすぐにその瞳を見つめた。もう、気持ちを偽ることはできない。
「君が欲しい。俳優としてではなく、一人の男として。俺の番(つがい)になってほしい」
それは、芸能界の帝王としてではない。ただの藤堂竜也としての、魂からの告白だった。彼の瞳には、もうあの寂しい青色はなかった。代わりに、熱く、燃えるような情熱の炎が宿っていた。
ハルトは、その言葉の意味を噛み締めるように、瞬きを繰り返した。そして、こぼれ落ちる涙と共に、これ以上ないほど幸せな笑みを浮かべた。
「……はい」
涙で濡れた声で、しかしはっきりと頷く。
「僕も……竜也さんが好きです」
その答えを聞いて、リュウは安堵のため息をつくと、そっとハルトの唇に自分の唇を重ねた。それは、激しい情欲からではなく、慈しむような、優しい優しい口づけだった。
誰にも言えない、二人だけの秘密の恋。
それは、甘く危険なフェロモンの香りが残る、この静かな夜の楽屋で、固い誓いと共に始まったのだった。
だが、運命は時に、恋人たちに過酷な試練を与える。
その日は、特に重要なシーンの撮影が朝から深夜まで続いていた。緊張感と寝不足、そして迫り来るクランクアップへのプレッシャーが、ハルトの心身を知らず知らずのうちに蝕んでいた。オメガである彼は、もともとストレスに弱い体質だ。周期をコントロールするための抑制剤は服用していたが、極度の疲労は、その効果をいとも簡単に揺るがしてしまう。
最後のカットの声がかかった直後、ハルトは立っていられないほどの強い目眩に襲われた。ぐらりと揺れた体を、隣にいたリュウが咄嗟に支える。
「おい、大丈夫か?」
「……すみません、ちょっと、立ちくらみが……」
そう答えるハルトの声は掠れ、呼吸も浅くなっている。何より、彼の体から放たれる微かな香りに、リュウのアルファとしての本能が警鐘を鳴らした。甘く、とろけるような、危険な香り。予期せぬヒートの兆候だった。
まだフェロモンは微弱で、ベータのスタッフたちは気づいていない。だが、この場には他のアルファの俳優やスタッフもいる。彼らがこの香りを嗅ぎつければ、パニックになることは必至だ。そして何より、ハルトが好奇の目に晒され、俳優生命を絶たれてしまう可能性すらある。
リュウの頭が、猛烈な速さで回転する。
「結衣さん!」
リュウは鋭い声でマネージャーを呼ぶと、ハルトの体を支えながら早口で指示した。
「桜庭くん、貧血で倒れた。俺の楽屋に運ぶ。後のことは頼む」
結衣はリュウのただならぬ様子と、ハルトの尋常でない顔色を見て、瞬時に状況を察した。彼女は動揺を見せることなく、冷静に頷く。
「わかったわ。プロデューサーには私から話しておく」
リュウは周囲に気づかれないよう、さりげなく、しかし力強くハルトを抱えるようにして廊下に出ると、足早に自分の楽屋へと向かった。
鍵のかかる楽屋に入った瞬間、リュウはハルトをソファにそっと横たえた。密室になったことで、甘いフェロモンが一層濃密になる。それは、どんなアルファの理性をも麻痺させる、抗いがたい誘惑の香りだった。リュウの体も熱を帯び、本能がハルトを支配しろと叫んでいる。
「……っ、はぁ、……りゅう、さん……」
ハルトは苦し気に喘ぎながら、潤んだ瞳でリュウを見上げた。意識は朦朧とし、自分の身に何が起きているのか、完全には理解できていないようだった。だが、目の前のリュウが自分を守ろうとしてくれていることだけは、ぼんやりと分かった。
「大丈夫だ。俺がいる」
リュウは自分自身に言い聞かせるように、強く言った。彼はポケットから抑制剤の予備を取り出すと、震える手でハルトの口元へと運ぶ。しかし、ハルトはそれを飲む力も残っていないようだった。
「……だめ、です……もう、きかない……」
絶望的な言葉と共に、さらに強いフェロモンの波が放たれる。リュウは奥歯をギリリと噛み締めた。全身の血が沸騰するようだ。今すぐこの華奢な体を組み敷き、その全てを自分のものにしてしまいたい。剥き出しの本能が、理性の壁を突き破ろうと暴れ狂う。
だが、リュウは首を横に振った。ここで本能に負ければ、自分は獣と変わらない。そして、何より大切なこの存在を、心も体も深く傷つけてしまうことになる。
「陽翔」
リュウは、初めてハルトを名前で呼んだ。そして、彼の汗で濡れた前髪を優しくかき分ける。
「しっかりしろ。俺を見ろ」
その声には、アルファとしての強い意志が込められていた。ハルトの焦点の合わなかった瞳が、ゆっくりとリュウを捉える。
「君を、傷つけたくない。意に染まない形で、君を抱きたくはないんだ」
リュウは必死だった。獣になりかけた自分を抑えつけ、一人の男として、愛する人を守るために。彼は冷たい水で濡らしたタオルでハルトの額を拭い、ただひたすら、嵐が過ぎるのを待った。自分のフェロモンを極限まで抑え込み、代わりに落ち着かせる効果のある香りを放ちながら、ハルトを優しく抱きしめた。
それは、理性と本能の、壮絶な戦いだった。
どれほどの時間が経ったのか。ハルトの呼吸が少しずつ穏やかになり、危険なフェロモンの嵐が、ようやく凪いできた。
「……りゅうや、さん……」
意識を取り戻したハルトが、リュウの胸の中で小さな声で呟いた。
「……もう大丈夫か?」
リュウの声は、極度の緊張と疲労で掠れていた。
ハルトは、自分がしでかしてしまったことの重大さに気づき、顔を青ざめさせた。そして、自分のために必死に戦ってくれたリュウの姿に、涙が止めどなく溢れてくる。
「ごめんなさい……ごめんなさい、迷惑を……」
「謝るな」
リュウは、その言葉を遮るように、しかし穏やかに言った。そして、ハルトの涙を指で優しく拭う。
「俺は、君を守りたかった。ただ、それだけだ」
その真摯な瞳に見つめられ、ハルトの心臓が甘く痛んだ。
「……陽翔」
リュウはハルトの頬に手を添え、まっすぐにその瞳を見つめた。もう、気持ちを偽ることはできない。
「君が欲しい。俳優としてではなく、一人の男として。俺の番(つがい)になってほしい」
それは、芸能界の帝王としてではない。ただの藤堂竜也としての、魂からの告白だった。彼の瞳には、もうあの寂しい青色はなかった。代わりに、熱く、燃えるような情熱の炎が宿っていた。
ハルトは、その言葉の意味を噛み締めるように、瞬きを繰り返した。そして、こぼれ落ちる涙と共に、これ以上ないほど幸せな笑みを浮かべた。
「……はい」
涙で濡れた声で、しかしはっきりと頷く。
「僕も……竜也さんが好きです」
その答えを聞いて、リュウは安堵のため息をつくと、そっとハルトの唇に自分の唇を重ねた。それは、激しい情欲からではなく、慈しむような、優しい優しい口づけだった。
誰にも言えない、二人だけの秘密の恋。
それは、甘く危険なフェロモンの香りが残る、この静かな夜の楽屋で、固い誓いと共に始まったのだった。
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