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第1話「雪の果て、凍える花嫁」
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石造りの廊下を歩く足音が、やけに大きく響いていた。
カツ、カツ、カツ。
その乾いた音は、まるで処刑台へと続く階段を上る囚人の足音のようだと、リウはぼんやりと考えていた。
古びた男爵家の屋敷は、冬の寒さを防ぐにはあまりにも隙間が多すぎる。窓枠の僅かな歪みから忍び込む風が、リウの薄汚れた頬を撫でていく。冷たい。けれど、その冷たささえも、これから向かう場所の寒さに比べれば、春風のようなものかもしれない。
リウ・アシュトは、手に持っていた雑巾を桶の中に沈めた。
指先は冷たい水で真っ赤にかじかみ、あかぎれが痛む。けれど、それを労ってくれる人間など、この屋敷には一人もいなかった。
「おい、リウ。いつまでそんなところで油を売っているんだ」
背後から投げつけられた鋭い声に、リウはビクリと肩を震わせて振り返った。
そこに立っていたのは、豪勢な刺繍入りのコートを身にまとった父、アシュト男爵だった。その横には、艶やかな金髪を揺らす義弟のミハイルが、蔑むような目でこちらを見下ろしている。
「も、申し訳ありません、お父様……今、廊下の拭き掃除を終えたところで……」
「言い訳など聞きたくない。まったく、オメガというだけで役立たずだというのに、掃除一つ満足にできないとは」
父の言葉が、鋭い棘となって胸に突き刺さる。
この世界において、性は第二の性別によって分けられる。指導者階級のアルファ、一般的なベータ、そして希少だが庇護されるべき存在とされるオメガ。
けれど、アシュト男爵家において、オメガであるリウの扱いは最底辺だった。
魔力を持たず、学才もなく、ただ男の身でありながらオメガとして生まれただけの「失敗作」。それが、父や継母、そして優秀なオメガである義弟ミハイルからの評価だった。
「まあまあ、お父様。リウ兄さんだって、最後くらいは役に立ちたいと思っているはずですよ」
ミハイルが猫なで声で言った。その瞳の奥には、残酷な光が宿っている。
「最後、ですか……?」
リウは怪訝な顔で首を傾げた。その言葉の意味が、すぐには飲み込めなかったからだ。
「ああ、そうだ。お前も知っているだろう? 北の辺境伯、アイゼンベルク公爵家から縁談が来ていることは」
アイゼンベルク公爵家。
その名を聞いた瞬間、リウの背筋に冷たいものが走った。
北の果て、万年雪に閉ざされた極寒の地を治める一族。当主であるジークハルト・フォン・アイゼンベルクは、「氷血公爵」という異名を持つアルファだ。
戦場では氷の魔術で敵軍を一瞬にして凍結させ、砕け散らせると噂されている。その冷酷さは味方にすら恐れられ、彼の屋敷に入った使用人は二度と戻ってこないという怪談めいた噂まであった。
そんな恐ろしい人物からの縁談。本来ならば、アシュト男爵家の「華」であるミハイルに来た話だったはずだ。
「み、ミハイルへの縁談では……?」
「ふん、誰が可愛いミハイルをあのような野蛮な土地へやるものか。あそこは人の住む場所ではない。魔獣が跋扈し、吹雪が吹き荒れる地獄だ」
父は鼻で笑い、そしてリウを冷ややかに見据えた。
「だが、公爵家の求めを断れば、我が家がどうなるか分からん。誰かが行かねばならんのだ。……オメガの代わりは、オメガでしか務まらんからな」
その瞬間、リウは全てを悟った。
自分は、身代わりなのだ。
愛される義弟の代わりに、化け物が住むと言われる北の地へ捧げられる、生贄のような花嫁。
「感謝するんだな、リウ。お前のような無能が、公爵夫人になれるのだ。これは破格の幸運だぞ」
父の声が遠く聞こえた。
リウはただ、床に視線を落とし、小さく頷くことしかできなかった。
拒否権など、最初から存在しない。ここで断れば、さらに酷い折檻が待っているだけだ。それなら、いっそ見知らぬ地で凍え死ぬ方が、まだマシかもしれない。
そうして、リウの運命は決まった。
***
北へ向かう馬車の旅は、過酷なものだった。
アシュト男爵家が用意してくれたのは、家畜を運ぶような粗末な馬車が一台きり。御者は無口で、リウに話しかけることもない。
窓の外の景色は、日を追うごとに白く染まっていった。
最初はちらつく程度だった雪が、やがて視界を覆い尽くすほどの吹雪となり、世界から色彩を奪っていく。
ガタゴトと揺れる車内で、リウは膝の上に置いた小さな鞄を抱きしめていた。
中に入っているのは、数枚の着替えと、亡き母が遺してくれた一冊のノート。そして、使い込まれた古い製菓道具だけだ。
『リウ、お前のお菓子は魔法みたいだね』
ふと、母の優しい声を思い出す。
リウがまだ幼かった頃、母と一緒に台所に立ち、小麦粉まみれになってクッキーを焼いた日々。母は病弱だったが、リウがお菓子を作ると、いつも幸せそうに微笑んでくれた。
『これを食べると、胸の奥がぽかぽかして、痛いのも飛んでいくわ』
母はそう言って、リウの頭を撫でてくれた。
その温かい掌の感触だけが、リウの心を支える唯一のよすがだった。
母が亡くなってからは、台所に立つことさえ禁じられ、隠れて残り物の材料でお菓子を作るのが精一杯だったけれど。
それでも、お菓子を作っている時だけは、自分が誰かの役に立てるような、自分が自分でいられるような気がしたのだ。
(北の地では、お菓子なんて作らせてもらえないかもしれないな……)
ため息をつくと、白い息が空中に漂い、すぐに消えた。
寒さで感覚のなくなった足先を擦り合わせる。
馬車の隙間風は容赦なく体温を奪っていく。毛布の一枚すら持たせてもらえなかったリウは、コートの前を固く合わせ、身を縮こまらせて耐えるしかなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
数日、あるいは数週間。時間の感覚さえ曖昧になってきた頃、馬車が大きく傾き、そして停止した。
「着いたぞ。降りろ」
御者のぶっきらぼうな声に促され、リウは強張った体を引きずるようにして馬車の外へと出た。
瞬間、肺が凍りつくような冷気に襲われた。
あまりの寒さに息が止まる。頬を打つ風は刃物のように鋭く、目を開けていることすら難しい。
「こ、ここは……」
視線を上げると、そこには巨大な城壁がそびえ立っていた。
黒い石を積み上げて作られた城は、まるで雪原に突き刺さった巨大な墓標のようだ。尖塔は低く垂れ込めた灰色の空を突き刺し、威圧感を持ってリウを見下ろしている。
アイゼンベルク城。
ここが、これからリウが暮らす――いや、その生涯を終える場所。
巨大な鉄の門が、重苦しい音を立てて開いた。
中から現れたのは、燕尾服を着た初老の男性だった。背筋をピンと伸ばし、白髪を綺麗になでつけた姿は隙がない。おそらく執事だろう。
彼はリウの姿を一瞥すると、感情の読めない目で静かに頭を下げた。
「お待ちしておりました。アシュト男爵家の方ですね」
「は、はい。リウ・アシュトと申します……」
震える声で名乗ると、執事はわずかに眉を動かしたようだったが、すぐに元の無表情に戻った。
歓迎の言葉も、労いの言葉もない。
ただ事務的に、城の中へと促される。
「主人は現在、執務中でございます。ご挨拶は後ほどということで、まずはお部屋へご案内いたします」
「あ、はい。お願いします……」
リウは小さな鞄を胸に抱き直し、執事の後を追って城へと足を踏み入れた。
城内は静まり返っていた。
足音さえ吸い込まれてしまいそうなほど、分厚い絨毯が敷かれている。壁には年代物のタペストリーや甲冑が飾られているが、どれも手入れが行き届いているものの、どこか冷たい印象を受ける。
廊下ですれ違うメイドや従僕たちも、リウを見るとさっと視線を逸らし、無言で通り過ぎていく。
そこには好奇心も、侮蔑も、好意もない。ただ、空気のように扱われているような感覚。
それが、余計にリウの孤独感を深めた。
「こちらが、あなた様のお部屋になります」
長い廊下の突き当たり、北向きの塔にある一室の前で、執事は足を止めた。
重厚な扉を開けると、そこには広々とした部屋があった。
天蓋付きの大きなベッド、猫足のついたソファ、アンティーク調の家具。男爵家のリウの部屋よりはずっと豪華で、立派な部屋だ。
しかし、やはり寒い。
暖炉には火が入っておらず、広い空間が余計に寒々しく感じられた。
「荷物はこれだけですか?」
「は、はい……」
執事はリウの小さな鞄を見て、少しだけ憐れむような色を目に浮かべた気がしたが、それも一瞬のことだった。
「では、夕食は後ほどお持ちいたします。主人の許可なく部屋を出歩くことは控えてください。城内には危険な場所もございますので」
それだけ言い残すと、執事は恭しくお辞儀をし、扉を閉めて出て行ってしまった。
カチャリ、と鍵がかけられるような音がしなかったことに安堵するが、それは同時に、逃げ出す場所などどこにもないという事実を突きつけられているようでもあった。
一人残されたリウは、広い部屋の中央で立ち尽くした。
窓の外では、吹雪が唸り声を上げている。
ガラス窓に張り付く雪の結晶が、まるでリウを閉じ込める檻の格子のようだ。
「本当に、来ちゃったんだな……」
つぶやいた声は、あまりにも弱々しかった。
これからどうなるのだろう。
氷血公爵と呼ばれる旦那様は、どんな人なのだろうか。自分のような貧相なオメガを見て、失望し、怒り狂うのではないだろうか。
最悪の想像ばかりが頭をよぎる。
リウはベッドの端に腰掛け、鞄から母のレシピノートを取り出した。
古びた皮の表紙を指でなぞる。
その感触だけが、今のリウにとっての温もりだった。
「お母さん……」
瞳から涙が溢れそうになるのを、リウはぐっと堪えた。
泣いても状況は変わらない。むしろ、泣き顔を見られたら余計に嫌われるかもしれない。
この城で生きていくためには、強くならなければ。たとえ誰からも望まれていない花嫁だとしても。
部屋の隅に置かれた薪を見つけ、リウは自分で暖炉に火を起こそうと立ち上がった。
使用人がやってくれないなら、自分でやるしかない。男爵家で散々こき使われてきた経験が、こんなところで役に立つとは皮肉なものだ。
慣れた手つきで薪を組み、火打石を打つ。
やがて、パチパチという音と共に、小さな炎が生まれた。
そのオレンジ色の揺らめきを見つめながら、リウは長い、長い夜を迎えることになった。
カツ、カツ、カツ。
その乾いた音は、まるで処刑台へと続く階段を上る囚人の足音のようだと、リウはぼんやりと考えていた。
古びた男爵家の屋敷は、冬の寒さを防ぐにはあまりにも隙間が多すぎる。窓枠の僅かな歪みから忍び込む風が、リウの薄汚れた頬を撫でていく。冷たい。けれど、その冷たささえも、これから向かう場所の寒さに比べれば、春風のようなものかもしれない。
リウ・アシュトは、手に持っていた雑巾を桶の中に沈めた。
指先は冷たい水で真っ赤にかじかみ、あかぎれが痛む。けれど、それを労ってくれる人間など、この屋敷には一人もいなかった。
「おい、リウ。いつまでそんなところで油を売っているんだ」
背後から投げつけられた鋭い声に、リウはビクリと肩を震わせて振り返った。
そこに立っていたのは、豪勢な刺繍入りのコートを身にまとった父、アシュト男爵だった。その横には、艶やかな金髪を揺らす義弟のミハイルが、蔑むような目でこちらを見下ろしている。
「も、申し訳ありません、お父様……今、廊下の拭き掃除を終えたところで……」
「言い訳など聞きたくない。まったく、オメガというだけで役立たずだというのに、掃除一つ満足にできないとは」
父の言葉が、鋭い棘となって胸に突き刺さる。
この世界において、性は第二の性別によって分けられる。指導者階級のアルファ、一般的なベータ、そして希少だが庇護されるべき存在とされるオメガ。
けれど、アシュト男爵家において、オメガであるリウの扱いは最底辺だった。
魔力を持たず、学才もなく、ただ男の身でありながらオメガとして生まれただけの「失敗作」。それが、父や継母、そして優秀なオメガである義弟ミハイルからの評価だった。
「まあまあ、お父様。リウ兄さんだって、最後くらいは役に立ちたいと思っているはずですよ」
ミハイルが猫なで声で言った。その瞳の奥には、残酷な光が宿っている。
「最後、ですか……?」
リウは怪訝な顔で首を傾げた。その言葉の意味が、すぐには飲み込めなかったからだ。
「ああ、そうだ。お前も知っているだろう? 北の辺境伯、アイゼンベルク公爵家から縁談が来ていることは」
アイゼンベルク公爵家。
その名を聞いた瞬間、リウの背筋に冷たいものが走った。
北の果て、万年雪に閉ざされた極寒の地を治める一族。当主であるジークハルト・フォン・アイゼンベルクは、「氷血公爵」という異名を持つアルファだ。
戦場では氷の魔術で敵軍を一瞬にして凍結させ、砕け散らせると噂されている。その冷酷さは味方にすら恐れられ、彼の屋敷に入った使用人は二度と戻ってこないという怪談めいた噂まであった。
そんな恐ろしい人物からの縁談。本来ならば、アシュト男爵家の「華」であるミハイルに来た話だったはずだ。
「み、ミハイルへの縁談では……?」
「ふん、誰が可愛いミハイルをあのような野蛮な土地へやるものか。あそこは人の住む場所ではない。魔獣が跋扈し、吹雪が吹き荒れる地獄だ」
父は鼻で笑い、そしてリウを冷ややかに見据えた。
「だが、公爵家の求めを断れば、我が家がどうなるか分からん。誰かが行かねばならんのだ。……オメガの代わりは、オメガでしか務まらんからな」
その瞬間、リウは全てを悟った。
自分は、身代わりなのだ。
愛される義弟の代わりに、化け物が住むと言われる北の地へ捧げられる、生贄のような花嫁。
「感謝するんだな、リウ。お前のような無能が、公爵夫人になれるのだ。これは破格の幸運だぞ」
父の声が遠く聞こえた。
リウはただ、床に視線を落とし、小さく頷くことしかできなかった。
拒否権など、最初から存在しない。ここで断れば、さらに酷い折檻が待っているだけだ。それなら、いっそ見知らぬ地で凍え死ぬ方が、まだマシかもしれない。
そうして、リウの運命は決まった。
***
北へ向かう馬車の旅は、過酷なものだった。
アシュト男爵家が用意してくれたのは、家畜を運ぶような粗末な馬車が一台きり。御者は無口で、リウに話しかけることもない。
窓の外の景色は、日を追うごとに白く染まっていった。
最初はちらつく程度だった雪が、やがて視界を覆い尽くすほどの吹雪となり、世界から色彩を奪っていく。
ガタゴトと揺れる車内で、リウは膝の上に置いた小さな鞄を抱きしめていた。
中に入っているのは、数枚の着替えと、亡き母が遺してくれた一冊のノート。そして、使い込まれた古い製菓道具だけだ。
『リウ、お前のお菓子は魔法みたいだね』
ふと、母の優しい声を思い出す。
リウがまだ幼かった頃、母と一緒に台所に立ち、小麦粉まみれになってクッキーを焼いた日々。母は病弱だったが、リウがお菓子を作ると、いつも幸せそうに微笑んでくれた。
『これを食べると、胸の奥がぽかぽかして、痛いのも飛んでいくわ』
母はそう言って、リウの頭を撫でてくれた。
その温かい掌の感触だけが、リウの心を支える唯一のよすがだった。
母が亡くなってからは、台所に立つことさえ禁じられ、隠れて残り物の材料でお菓子を作るのが精一杯だったけれど。
それでも、お菓子を作っている時だけは、自分が誰かの役に立てるような、自分が自分でいられるような気がしたのだ。
(北の地では、お菓子なんて作らせてもらえないかもしれないな……)
ため息をつくと、白い息が空中に漂い、すぐに消えた。
寒さで感覚のなくなった足先を擦り合わせる。
馬車の隙間風は容赦なく体温を奪っていく。毛布の一枚すら持たせてもらえなかったリウは、コートの前を固く合わせ、身を縮こまらせて耐えるしかなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
数日、あるいは数週間。時間の感覚さえ曖昧になってきた頃、馬車が大きく傾き、そして停止した。
「着いたぞ。降りろ」
御者のぶっきらぼうな声に促され、リウは強張った体を引きずるようにして馬車の外へと出た。
瞬間、肺が凍りつくような冷気に襲われた。
あまりの寒さに息が止まる。頬を打つ風は刃物のように鋭く、目を開けていることすら難しい。
「こ、ここは……」
視線を上げると、そこには巨大な城壁がそびえ立っていた。
黒い石を積み上げて作られた城は、まるで雪原に突き刺さった巨大な墓標のようだ。尖塔は低く垂れ込めた灰色の空を突き刺し、威圧感を持ってリウを見下ろしている。
アイゼンベルク城。
ここが、これからリウが暮らす――いや、その生涯を終える場所。
巨大な鉄の門が、重苦しい音を立てて開いた。
中から現れたのは、燕尾服を着た初老の男性だった。背筋をピンと伸ばし、白髪を綺麗になでつけた姿は隙がない。おそらく執事だろう。
彼はリウの姿を一瞥すると、感情の読めない目で静かに頭を下げた。
「お待ちしておりました。アシュト男爵家の方ですね」
「は、はい。リウ・アシュトと申します……」
震える声で名乗ると、執事はわずかに眉を動かしたようだったが、すぐに元の無表情に戻った。
歓迎の言葉も、労いの言葉もない。
ただ事務的に、城の中へと促される。
「主人は現在、執務中でございます。ご挨拶は後ほどということで、まずはお部屋へご案内いたします」
「あ、はい。お願いします……」
リウは小さな鞄を胸に抱き直し、執事の後を追って城へと足を踏み入れた。
城内は静まり返っていた。
足音さえ吸い込まれてしまいそうなほど、分厚い絨毯が敷かれている。壁には年代物のタペストリーや甲冑が飾られているが、どれも手入れが行き届いているものの、どこか冷たい印象を受ける。
廊下ですれ違うメイドや従僕たちも、リウを見るとさっと視線を逸らし、無言で通り過ぎていく。
そこには好奇心も、侮蔑も、好意もない。ただ、空気のように扱われているような感覚。
それが、余計にリウの孤独感を深めた。
「こちらが、あなた様のお部屋になります」
長い廊下の突き当たり、北向きの塔にある一室の前で、執事は足を止めた。
重厚な扉を開けると、そこには広々とした部屋があった。
天蓋付きの大きなベッド、猫足のついたソファ、アンティーク調の家具。男爵家のリウの部屋よりはずっと豪華で、立派な部屋だ。
しかし、やはり寒い。
暖炉には火が入っておらず、広い空間が余計に寒々しく感じられた。
「荷物はこれだけですか?」
「は、はい……」
執事はリウの小さな鞄を見て、少しだけ憐れむような色を目に浮かべた気がしたが、それも一瞬のことだった。
「では、夕食は後ほどお持ちいたします。主人の許可なく部屋を出歩くことは控えてください。城内には危険な場所もございますので」
それだけ言い残すと、執事は恭しくお辞儀をし、扉を閉めて出て行ってしまった。
カチャリ、と鍵がかけられるような音がしなかったことに安堵するが、それは同時に、逃げ出す場所などどこにもないという事実を突きつけられているようでもあった。
一人残されたリウは、広い部屋の中央で立ち尽くした。
窓の外では、吹雪が唸り声を上げている。
ガラス窓に張り付く雪の結晶が、まるでリウを閉じ込める檻の格子のようだ。
「本当に、来ちゃったんだな……」
つぶやいた声は、あまりにも弱々しかった。
これからどうなるのだろう。
氷血公爵と呼ばれる旦那様は、どんな人なのだろうか。自分のような貧相なオメガを見て、失望し、怒り狂うのではないだろうか。
最悪の想像ばかりが頭をよぎる。
リウはベッドの端に腰掛け、鞄から母のレシピノートを取り出した。
古びた皮の表紙を指でなぞる。
その感触だけが、今のリウにとっての温もりだった。
「お母さん……」
瞳から涙が溢れそうになるのを、リウはぐっと堪えた。
泣いても状況は変わらない。むしろ、泣き顔を見られたら余計に嫌われるかもしれない。
この城で生きていくためには、強くならなければ。たとえ誰からも望まれていない花嫁だとしても。
部屋の隅に置かれた薪を見つけ、リウは自分で暖炉に火を起こそうと立ち上がった。
使用人がやってくれないなら、自分でやるしかない。男爵家で散々こき使われてきた経験が、こんなところで役に立つとは皮肉なものだ。
慣れた手つきで薪を組み、火打石を打つ。
やがて、パチパチという音と共に、小さな炎が生まれた。
そのオレンジ色の揺らめきを見つめながら、リウは長い、長い夜を迎えることになった。
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