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第2話「小さな白い来訪者」
翌朝、リウが目を覚ますと、世界は静寂に包まれていた。
窓の外を見ても、昨日と変わらない白い景色が広がっているだけだ。
部屋の中は昨夜起こした暖炉の残り火のおかげで、少しだけ空気が緩んでいたが、それでも吐く息は白い。
顔を洗おうと洗面台に向かうと、水差しに入った水には薄く氷が張っていた。
リウは苦笑しながら氷を指で割り、冷たい水で顔を洗う。肌が引き締まり、意識が覚醒する。
「さて……」
着替えを済ませたリウは、扉の前で躊躇していた。
昨夜、執事は「主人の許可なく出歩くな」と言っていた。けれど、いつまで経っても朝食が運ばれてくる気配がない。
お腹がぐうと鳴る。
昨日の夜も、運ばれてきたのは硬いパンと冷めたスープだけだった。それも緊張で喉を通らず、ほとんど残してしまったのだ。
「少しだけなら、いいかな……厨房を探すくらいなら」
リウは恐る恐る扉を開けた。
廊下には誰もいない。静まり返った城内は、まるで誰も住んでいない廃墟のようだ。
壁沿いに忍び足で進む。使用人たちの気配を探るが、どこからも物音は聞こえない。
時折、窓の外の風がヒューと鳴る音にびくりと体を震わせながら、リウは階段を降りていった。
一階へ降りると、微かに煮込み料理のような匂いが漂ってきた。
匂いの元を辿って奥へ進むと、大きな両開きの扉があり、その向こうから食器が触れ合う音が聞こえる。
どうやらここが厨房らしい。
扉の隙間から中を覗くと、数人の料理人たちが忙しなく動き回っていた。
だが、その雰囲気は殺伐としていた。笑顔はなく、ただ淡々と、機械のように野菜を刻み、肉を焼いている。
「おい、あの新入り用の食事はどうする?」
「放っておけ。どうせすぐに逃げ出すか、旦那様の怒りを買って追い出されるさ」
「違いない。男のオメガなんて、気味が悪いだけだ」
低い声での会話が、リウの耳に届く。
心臓がきゅっと縮んだ。
やはり、自分は歓迎されていない。それどころか、嫌悪されている。
これでは、食事をくださいと頼みに出ることもできない。
リウは唇を噛み締め、そっとその場を離れた。
逃げるように廊下を戻り、どこか隠れられる場所はないかと彷徨う。
すると、本館から離れた場所に、ひっそりと佇む古い別棟を見つけた。
雪に埋もれかけた渡り廊下の先に、蔦に覆われた小さな石造りの建物がある。
リウは何かに導かれるように、その建物へと向かった。
重い木の扉を押し開けると、中は埃っぽい空気に満ちていた。
咳き込みながら手で埃を払う。
そこは、かつて使われていたであろう、古い調理場のようだった。
隅には使われなくなって久しいかまどがあり、棚には欠けた皿や鍋が無造作に置かれている。
だが、リウの目は輝いた。
ここなら、誰にも気兼ねなく過ごせるかもしれない。
「掃除すれば、使えるかな」
リウは腕まくりをした。掃除は得意分野だ。
近くにあった箒を見つけ、床を掃き始める。冷たい水で雑巾を絞り、作業台を磨く。
体を動かしていると、不思議と空腹も紛れた。
一時間ほど夢中で掃除をすると、煤けていた調理場は見違えるように綺麗になった。窓ガラスも磨き上げ、外の光が差し込むようになると、陰鬱だった部屋が少しだけ明るくなる。
「ふう……」
額の汗を拭い、一息ついたリウは、裏口の扉を開けてみた。
そこには、手入れされていない小さな裏庭があった。
雪が積もり放題になっていたが、壁に囲まれて風が遮られているせいか、他よりは少し暖かい気がする。
新鮮な空気を吸い込もうと一歩踏み出した時、リウの足が止まった。
雪の中に、真っ白な何かが埋もれている。
「……え?」
最初は雪の塊かと思った。
だが、それは微かに動いている。上下に揺れる小さな背中。息をしているのだ。
リウは慌てて駆け寄った。
「大丈夫!?」
雪をかき分けると、そこにいたのは不思議な生き物だった。
大きさは猫くらいだろうか。全身がふわふわとした純白の長い毛に覆われている。耳は少し長く、先が丸い。尻尾は太くて立派だ。
フェレットのようにも見えるし、犬のようにも見える。けれど、その毛並みの美しさは、どんな動物とも違っていた。
「……きゅ……ぅ……」
その生き物は、弱々しい声で鳴いた。
見れば、後ろ足に赤い滲みがある。怪我をしているようだ。それに、体は氷のように冷たくなっている。
「大変だ……っ、 じっとしててね」
リウは躊躇わず、自分のコートを脱いでその生き物を包み込んだ。
腕の中に抱き上げると、ずしりとした重みがある。
急いで調理場の中へ戻り、かまどの前の、一番暖かい場所に布を敷いて寝かせる。
「寒かったね。痛かったね」
リウは持っていたハンカチを水で濡らし、傷口を優しく拭った。幸い傷は深くないようだが、衰弱しているのが見て取れる。
体を温めてやらなければならない。そして、何か栄養のあるものを。
リウは自分の鞄を探った。
そこには、実家からこっそり持ってきた、リウにとっての宝物が入っている。
小さな袋に入ったカカオ豆と、砂糖の塊だ。
この世界において、カカオは「神の果実」とも呼ばれる希少な薬草の一種で、滋養強壮や魔力回復に効果があるとされている。お菓子として楽しむ文化はあまりなく、苦い薬湯として飲まれるのが一般的だ。
だが、母のレシピには、これを美味しくする方法が記されていた。
「これなら、元気になるかもしれない」
リウは手早く準備を始めた。
古い鍋を洗い、近くの井戸から汲んだ水を入れる。カカオ豆をすり鉢で丁寧に挽き、粉末にする。
香ばしい、独特の香りが立ち上る。
それを鍋に入れ、砂糖を加えて弱火でじっくりと煮込む。ミルクがあればもっと良かったが、今は水だけで作るしかない。その分、丁寧に練り上げて口当たりを良くする。
チョコレートのような、甘く濃厚な香りが調理場に満ちていく。
冷たく乾いた空気が、その香りで豊潤に色づいていくようだ。
「……んん……」
香りに誘われたのか、毛玉のような生き物が鼻をひくつかせた。
リウは出来上がったホット・ショコラを小さな皿に移し、ふーふーと息を吹きかけて冷ます。
スプーンですくい、生き物の口元へ持っていく。
「ほら、温かいよ。飲める?」
生き物はうっすらと目を開けた。その瞳は、透き通るようなサファイアブルーだった。
リウと目が合うと、生き物は警戒することなく、スプーンからとろりとした液体を舐め取った。
「きゅ……っ、きゅ!」
一口飲むと、その目がカッと見開かれた。
美味しい、と言っているようだ。
リウが微笑んで次を差し出すと、今度は皿ごとかぶりつくような勢いで飲み始めた。
ハフハフと舌を動かし、あっという間に平らげてしまう。
「すごい食欲だね。よかった、これならすぐに元気になるよ」
リウが頭を撫でると、生き物は気持ちよさそうに目を細め、リウの手のひらに頬をすり寄せてきた。
その毛並みは驚くほど柔らかく、温かい。まるで上質なシルクと綿毛を合わせたようだ。
冷え切っていたリウの手が、じんわりと温まっていく。
「もふもふだ……」
思わず顔が緩む。
こんなに温かいものに触れたのは、いつぶりだろう。
リウは生き物を抱きしめ、その温もりに身を委ねた。
生き物も嫌がる様子はなく、リウの胸元に顔を埋めて「くるる」と喉を鳴らしている。
この時のリウは知らなかった。
自分が拾ったこの小さな毛玉が、この国でもっとも尊いとされる「聖獣」であり、恐ろしい「氷血公爵」にとって、唯一無二のパートナーであることを。
ただ、甘いチョコレートの香りと、もふもふの温もりだけが、リウの凍えた心を溶かしてくれたのだった。
窓の外を見ても、昨日と変わらない白い景色が広がっているだけだ。
部屋の中は昨夜起こした暖炉の残り火のおかげで、少しだけ空気が緩んでいたが、それでも吐く息は白い。
顔を洗おうと洗面台に向かうと、水差しに入った水には薄く氷が張っていた。
リウは苦笑しながら氷を指で割り、冷たい水で顔を洗う。肌が引き締まり、意識が覚醒する。
「さて……」
着替えを済ませたリウは、扉の前で躊躇していた。
昨夜、執事は「主人の許可なく出歩くな」と言っていた。けれど、いつまで経っても朝食が運ばれてくる気配がない。
お腹がぐうと鳴る。
昨日の夜も、運ばれてきたのは硬いパンと冷めたスープだけだった。それも緊張で喉を通らず、ほとんど残してしまったのだ。
「少しだけなら、いいかな……厨房を探すくらいなら」
リウは恐る恐る扉を開けた。
廊下には誰もいない。静まり返った城内は、まるで誰も住んでいない廃墟のようだ。
壁沿いに忍び足で進む。使用人たちの気配を探るが、どこからも物音は聞こえない。
時折、窓の外の風がヒューと鳴る音にびくりと体を震わせながら、リウは階段を降りていった。
一階へ降りると、微かに煮込み料理のような匂いが漂ってきた。
匂いの元を辿って奥へ進むと、大きな両開きの扉があり、その向こうから食器が触れ合う音が聞こえる。
どうやらここが厨房らしい。
扉の隙間から中を覗くと、数人の料理人たちが忙しなく動き回っていた。
だが、その雰囲気は殺伐としていた。笑顔はなく、ただ淡々と、機械のように野菜を刻み、肉を焼いている。
「おい、あの新入り用の食事はどうする?」
「放っておけ。どうせすぐに逃げ出すか、旦那様の怒りを買って追い出されるさ」
「違いない。男のオメガなんて、気味が悪いだけだ」
低い声での会話が、リウの耳に届く。
心臓がきゅっと縮んだ。
やはり、自分は歓迎されていない。それどころか、嫌悪されている。
これでは、食事をくださいと頼みに出ることもできない。
リウは唇を噛み締め、そっとその場を離れた。
逃げるように廊下を戻り、どこか隠れられる場所はないかと彷徨う。
すると、本館から離れた場所に、ひっそりと佇む古い別棟を見つけた。
雪に埋もれかけた渡り廊下の先に、蔦に覆われた小さな石造りの建物がある。
リウは何かに導かれるように、その建物へと向かった。
重い木の扉を押し開けると、中は埃っぽい空気に満ちていた。
咳き込みながら手で埃を払う。
そこは、かつて使われていたであろう、古い調理場のようだった。
隅には使われなくなって久しいかまどがあり、棚には欠けた皿や鍋が無造作に置かれている。
だが、リウの目は輝いた。
ここなら、誰にも気兼ねなく過ごせるかもしれない。
「掃除すれば、使えるかな」
リウは腕まくりをした。掃除は得意分野だ。
近くにあった箒を見つけ、床を掃き始める。冷たい水で雑巾を絞り、作業台を磨く。
体を動かしていると、不思議と空腹も紛れた。
一時間ほど夢中で掃除をすると、煤けていた調理場は見違えるように綺麗になった。窓ガラスも磨き上げ、外の光が差し込むようになると、陰鬱だった部屋が少しだけ明るくなる。
「ふう……」
額の汗を拭い、一息ついたリウは、裏口の扉を開けてみた。
そこには、手入れされていない小さな裏庭があった。
雪が積もり放題になっていたが、壁に囲まれて風が遮られているせいか、他よりは少し暖かい気がする。
新鮮な空気を吸い込もうと一歩踏み出した時、リウの足が止まった。
雪の中に、真っ白な何かが埋もれている。
「……え?」
最初は雪の塊かと思った。
だが、それは微かに動いている。上下に揺れる小さな背中。息をしているのだ。
リウは慌てて駆け寄った。
「大丈夫!?」
雪をかき分けると、そこにいたのは不思議な生き物だった。
大きさは猫くらいだろうか。全身がふわふわとした純白の長い毛に覆われている。耳は少し長く、先が丸い。尻尾は太くて立派だ。
フェレットのようにも見えるし、犬のようにも見える。けれど、その毛並みの美しさは、どんな動物とも違っていた。
「……きゅ……ぅ……」
その生き物は、弱々しい声で鳴いた。
見れば、後ろ足に赤い滲みがある。怪我をしているようだ。それに、体は氷のように冷たくなっている。
「大変だ……っ、 じっとしててね」
リウは躊躇わず、自分のコートを脱いでその生き物を包み込んだ。
腕の中に抱き上げると、ずしりとした重みがある。
急いで調理場の中へ戻り、かまどの前の、一番暖かい場所に布を敷いて寝かせる。
「寒かったね。痛かったね」
リウは持っていたハンカチを水で濡らし、傷口を優しく拭った。幸い傷は深くないようだが、衰弱しているのが見て取れる。
体を温めてやらなければならない。そして、何か栄養のあるものを。
リウは自分の鞄を探った。
そこには、実家からこっそり持ってきた、リウにとっての宝物が入っている。
小さな袋に入ったカカオ豆と、砂糖の塊だ。
この世界において、カカオは「神の果実」とも呼ばれる希少な薬草の一種で、滋養強壮や魔力回復に効果があるとされている。お菓子として楽しむ文化はあまりなく、苦い薬湯として飲まれるのが一般的だ。
だが、母のレシピには、これを美味しくする方法が記されていた。
「これなら、元気になるかもしれない」
リウは手早く準備を始めた。
古い鍋を洗い、近くの井戸から汲んだ水を入れる。カカオ豆をすり鉢で丁寧に挽き、粉末にする。
香ばしい、独特の香りが立ち上る。
それを鍋に入れ、砂糖を加えて弱火でじっくりと煮込む。ミルクがあればもっと良かったが、今は水だけで作るしかない。その分、丁寧に練り上げて口当たりを良くする。
チョコレートのような、甘く濃厚な香りが調理場に満ちていく。
冷たく乾いた空気が、その香りで豊潤に色づいていくようだ。
「……んん……」
香りに誘われたのか、毛玉のような生き物が鼻をひくつかせた。
リウは出来上がったホット・ショコラを小さな皿に移し、ふーふーと息を吹きかけて冷ます。
スプーンですくい、生き物の口元へ持っていく。
「ほら、温かいよ。飲める?」
生き物はうっすらと目を開けた。その瞳は、透き通るようなサファイアブルーだった。
リウと目が合うと、生き物は警戒することなく、スプーンからとろりとした液体を舐め取った。
「きゅ……っ、きゅ!」
一口飲むと、その目がカッと見開かれた。
美味しい、と言っているようだ。
リウが微笑んで次を差し出すと、今度は皿ごとかぶりつくような勢いで飲み始めた。
ハフハフと舌を動かし、あっという間に平らげてしまう。
「すごい食欲だね。よかった、これならすぐに元気になるよ」
リウが頭を撫でると、生き物は気持ちよさそうに目を細め、リウの手のひらに頬をすり寄せてきた。
その毛並みは驚くほど柔らかく、温かい。まるで上質なシルクと綿毛を合わせたようだ。
冷え切っていたリウの手が、じんわりと温まっていく。
「もふもふだ……」
思わず顔が緩む。
こんなに温かいものに触れたのは、いつぶりだろう。
リウは生き物を抱きしめ、その温もりに身を委ねた。
生き物も嫌がる様子はなく、リウの胸元に顔を埋めて「くるる」と喉を鳴らしている。
この時のリウは知らなかった。
自分が拾ったこの小さな毛玉が、この国でもっとも尊いとされる「聖獣」であり、恐ろしい「氷血公爵」にとって、唯一無二のパートナーであることを。
ただ、甘いチョコレートの香りと、もふもふの温もりだけが、リウの凍えた心を溶かしてくれたのだった。
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