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第4話「氷の公爵と甘い契約」
古びた調理場に、カタンと乾いた音が響いた。
それは、リウの手から滑り落ちそうになったクッキーの欠片が皿に当たった音だったかもしれないし、あるいはジークハルトの心の壁が崩れ落ちた音だったのかもしれない。
北の絶対権力者、氷血公爵ことジークハルト・フォン・アイゼンベルクは、その場に膝をついたまま動かなかった。
彼の手は口元を覆い、荒い息を繰り返している。その瞳は驚愕に見開かれ、リウを凝視していた。
「あ、あの、旦那様……? 大丈夫ですか? お水、持ってきましょうか?」
リウは慌てふためいた。
もしやお菓子が口に合わなかったのだろうか。それとも、リウが作ったものなど食べてお腹を壊してしまったのだろうか。
最悪の事態が頭をよぎり、血の気が引いていく。
だが、ジークハルトがゆっくりと顔を上げた時、そこに怒りの色はなかった。
「……違う」
低く、しかし確かな熱を帯びた声だった。
「これは、ただの菓子ではない。お前、これに何を混ぜた?」
「えっ? えっと、カカオと、お砂糖と、あと小麦粉と……それから、美味しくなあれって思いながら焼きましたけど……」
しどろもどろになりながら答えるリウを見て、ジークハルトは呆れたように、しかしどこか眩しそうな目で目を細めた。
魔法薬でも、禁術でもない。ただの食材と、作り手の想い。
それだけで、これほどの効果があるというのか。
ジークハルトの体内では、常に強大すぎる氷の魔力が嵐のように吹き荒れている。それが彼の身体能力を高める一方で、常に血管を凍てつかせ、味覚を麻痺させ、感情すらも冷却していた。
幼い頃から、何を食べても砂を噛んでいるようだった。何を触れても、冷たい氷の感触しかしなかった。
だというのに。
今、口の中に広がる甘さは、脳髄を痺れさせるほど鮮烈だった。
そして何より、胃の腑からじんわりと広がる温かさが、凍りついた魔力の回路を溶かしていくようだ。
「……名を、何と言ったか」
ジークハルトは立ち上がり、リウを見下ろした。
その長身はリウより頭二つ分ほど高く、見上げると首が痛くなるほどだ。
「リウ……リウ・アシュトです」
「そうか。リウ」
名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねた。
ジークハルトは一歩踏み出し、リウとの距離を詰めた。
その時、リウの足元で「ぐるるぅ……」と低い唸り声が上がった。ブランだ。
小さな体でリウの前に立ち、牙を剥いてジークハルトを威嚇している。
「ブラン、だめだよ。旦那様だよ」
リウがなだめようとするが、ブランは引かない。
ジークハルトはその様子を見て、ふっと自嘲気味に笑った。
「聖獣にまで警戒されるとはな。……安心しろ、そのオメガを害するつもりはない」
彼はそう言って、両手を上げて敵意がないことを示した。
それを見たブランは、ふんと鼻を鳴らし、再びリウの足元に丸くなって座り込んだ。まるで「何かあればすぐに噛みつくぞ」と言わんばかりだ。
ジークハルトは再びリウに向き直ると、その腕を掴んだ。
氷のように冷たい手だったが、乱暴さはなかった。
彼はリウの手首を持ち上げ、まじまじと観察する。
痩せ細った手首。あかぎれだらけの指先。薄汚れた衣服。
「……なぜ、こんな格好をしている?」
声色が、スッと冷えた。先ほどの感動とは違う、純粋な不快感がそこにあった。
「えっと、これは、掃除をするのに動きやすいから……」
「掃除? 客人に掃除をさせたのか?」
「いえ、あの、僕が勝手にやったんです。じっとしているのも申し訳なくて……」
「食事は? なぜこんな廃屋で、隠れるようにして菓子を焼いていた?」
ジークハルトの詰問に、リウは言葉を詰まらせた。
本当のことを言えば、使用人たちが罰せられるかもしれない。自分が余計な波風を立てたくない。
リウが黙り込んでいると、ジークハルトは何かを察したように、鋭い視線を厨房の入り口へと向けた。
そこには、騒ぎを聞きつけた執事が青ざめた顔で立っていた。
「……セバスチャン」
「は、はい! 旦那様!」
「この屋敷の管理はどうなっている? 私の妻となるオメガに、残飯を与え、労働を強いていたというのは本当か?」
ジークハルトの声は静かだったが、それだけに恐ろしかった。
周囲の空気がピキピキと凍りつき、窓ガラスに氷の華が咲く。
「そ、それは……! 男爵家からの持参金もなく、魔力もない出来損ないだと……いや、その、ふさわしい待遇を検討中でございまして……!」
「黙れ」
一言で、執事は押し黙った。
ジークハルトは冷徹な瞳で執事を射抜く。
「リウは、私が認めた客人であり、この城の主人の一人だ。今後、彼に対して無礼を働く者は、この極寒の城から永久に追放する。……裸でな」
執事はガタガタと震え上がり、額を床に擦り付けて謝罪した。
リウは呆気にとられていた。
まさか、あの「氷血公爵」が、自分のために怒ってくれるなんて。
ジークハルトはリウに向き直ると、その表情を少しだけ和らげた。
「すまなかった。私の監督不行き届きだ」
「い、いえ! そんな、頭を上げてください!」
「……一つ、取引をしないか」
ジークハルトはリウの瞳を真っすぐに見つめた。
その瞳は、凍てついた湖面のように美しく、そしてどこか哀しげだった。
「お前が作る菓子には、私の魔力を安定させる力があるようだ。……永らく忘れていた『味』を感じることができた」
「え……?」
「だから、頼む。私の専属の菓子職人《パティシエ》になってくれ。毎日、その菓子を私のために作ってほしい」
それは、リウにとって夢のような申し出だった。
誰かの役に立ちたい。お菓子を食べて、喜んでもらいたい。
それが、リウの生きる意味だったからだ。
「……その代わり、お前の身の安全と生活は私が保障する。誰にも文句は言わせない。好きなだけ材料も使っていい」
ジークハルトは、まるで壊れ物を扱うように、リウの細い指に触れた。
「どうだ? 悪い話ではないと思うが」
リウは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
初めて必要とされた。初めて、自分の存在価値を認めてもらえた。
涙が溢れそうになるのをこらえ、リウは大きく頷いた。
「はい……っ! 僕でよければ、精一杯作らせていただきます!」
その瞬間、リウとジークハルトの間には、主従でも夫婦でもない、甘く温かい契約が結ばれたのだった。
それは、リウの手から滑り落ちそうになったクッキーの欠片が皿に当たった音だったかもしれないし、あるいはジークハルトの心の壁が崩れ落ちた音だったのかもしれない。
北の絶対権力者、氷血公爵ことジークハルト・フォン・アイゼンベルクは、その場に膝をついたまま動かなかった。
彼の手は口元を覆い、荒い息を繰り返している。その瞳は驚愕に見開かれ、リウを凝視していた。
「あ、あの、旦那様……? 大丈夫ですか? お水、持ってきましょうか?」
リウは慌てふためいた。
もしやお菓子が口に合わなかったのだろうか。それとも、リウが作ったものなど食べてお腹を壊してしまったのだろうか。
最悪の事態が頭をよぎり、血の気が引いていく。
だが、ジークハルトがゆっくりと顔を上げた時、そこに怒りの色はなかった。
「……違う」
低く、しかし確かな熱を帯びた声だった。
「これは、ただの菓子ではない。お前、これに何を混ぜた?」
「えっ? えっと、カカオと、お砂糖と、あと小麦粉と……それから、美味しくなあれって思いながら焼きましたけど……」
しどろもどろになりながら答えるリウを見て、ジークハルトは呆れたように、しかしどこか眩しそうな目で目を細めた。
魔法薬でも、禁術でもない。ただの食材と、作り手の想い。
それだけで、これほどの効果があるというのか。
ジークハルトの体内では、常に強大すぎる氷の魔力が嵐のように吹き荒れている。それが彼の身体能力を高める一方で、常に血管を凍てつかせ、味覚を麻痺させ、感情すらも冷却していた。
幼い頃から、何を食べても砂を噛んでいるようだった。何を触れても、冷たい氷の感触しかしなかった。
だというのに。
今、口の中に広がる甘さは、脳髄を痺れさせるほど鮮烈だった。
そして何より、胃の腑からじんわりと広がる温かさが、凍りついた魔力の回路を溶かしていくようだ。
「……名を、何と言ったか」
ジークハルトは立ち上がり、リウを見下ろした。
その長身はリウより頭二つ分ほど高く、見上げると首が痛くなるほどだ。
「リウ……リウ・アシュトです」
「そうか。リウ」
名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねた。
ジークハルトは一歩踏み出し、リウとの距離を詰めた。
その時、リウの足元で「ぐるるぅ……」と低い唸り声が上がった。ブランだ。
小さな体でリウの前に立ち、牙を剥いてジークハルトを威嚇している。
「ブラン、だめだよ。旦那様だよ」
リウがなだめようとするが、ブランは引かない。
ジークハルトはその様子を見て、ふっと自嘲気味に笑った。
「聖獣にまで警戒されるとはな。……安心しろ、そのオメガを害するつもりはない」
彼はそう言って、両手を上げて敵意がないことを示した。
それを見たブランは、ふんと鼻を鳴らし、再びリウの足元に丸くなって座り込んだ。まるで「何かあればすぐに噛みつくぞ」と言わんばかりだ。
ジークハルトは再びリウに向き直ると、その腕を掴んだ。
氷のように冷たい手だったが、乱暴さはなかった。
彼はリウの手首を持ち上げ、まじまじと観察する。
痩せ細った手首。あかぎれだらけの指先。薄汚れた衣服。
「……なぜ、こんな格好をしている?」
声色が、スッと冷えた。先ほどの感動とは違う、純粋な不快感がそこにあった。
「えっと、これは、掃除をするのに動きやすいから……」
「掃除? 客人に掃除をさせたのか?」
「いえ、あの、僕が勝手にやったんです。じっとしているのも申し訳なくて……」
「食事は? なぜこんな廃屋で、隠れるようにして菓子を焼いていた?」
ジークハルトの詰問に、リウは言葉を詰まらせた。
本当のことを言えば、使用人たちが罰せられるかもしれない。自分が余計な波風を立てたくない。
リウが黙り込んでいると、ジークハルトは何かを察したように、鋭い視線を厨房の入り口へと向けた。
そこには、騒ぎを聞きつけた執事が青ざめた顔で立っていた。
「……セバスチャン」
「は、はい! 旦那様!」
「この屋敷の管理はどうなっている? 私の妻となるオメガに、残飯を与え、労働を強いていたというのは本当か?」
ジークハルトの声は静かだったが、それだけに恐ろしかった。
周囲の空気がピキピキと凍りつき、窓ガラスに氷の華が咲く。
「そ、それは……! 男爵家からの持参金もなく、魔力もない出来損ないだと……いや、その、ふさわしい待遇を検討中でございまして……!」
「黙れ」
一言で、執事は押し黙った。
ジークハルトは冷徹な瞳で執事を射抜く。
「リウは、私が認めた客人であり、この城の主人の一人だ。今後、彼に対して無礼を働く者は、この極寒の城から永久に追放する。……裸でな」
執事はガタガタと震え上がり、額を床に擦り付けて謝罪した。
リウは呆気にとられていた。
まさか、あの「氷血公爵」が、自分のために怒ってくれるなんて。
ジークハルトはリウに向き直ると、その表情を少しだけ和らげた。
「すまなかった。私の監督不行き届きだ」
「い、いえ! そんな、頭を上げてください!」
「……一つ、取引をしないか」
ジークハルトはリウの瞳を真っすぐに見つめた。
その瞳は、凍てついた湖面のように美しく、そしてどこか哀しげだった。
「お前が作る菓子には、私の魔力を安定させる力があるようだ。……永らく忘れていた『味』を感じることができた」
「え……?」
「だから、頼む。私の専属の菓子職人《パティシエ》になってくれ。毎日、その菓子を私のために作ってほしい」
それは、リウにとって夢のような申し出だった。
誰かの役に立ちたい。お菓子を食べて、喜んでもらいたい。
それが、リウの生きる意味だったからだ。
「……その代わり、お前の身の安全と生活は私が保障する。誰にも文句は言わせない。好きなだけ材料も使っていい」
ジークハルトは、まるで壊れ物を扱うように、リウの細い指に触れた。
「どうだ? 悪い話ではないと思うが」
リウは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
初めて必要とされた。初めて、自分の存在価値を認めてもらえた。
涙が溢れそうになるのをこらえ、リウは大きく頷いた。
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