8 / 24
第7話:失われた音色
一ノ瀬海翔。
『管理人さん』の正体が、憧れの俳優その人だったという事実は、俺たちの間に見えない壁を作った。
今までのように、自然に言葉を交わすことができなくなった。彼の顔をまともに見られない。彼が用意してくれた食事を食べる時も、ソファで隣に座る時も、常に「あの俳優の一ノ瀬海翔に、迷惑をかけている」という意識が頭から離れない。
「湊」
海翔が俺の名前を呼ぶたびに、心臓が跳ねた。彼の優しさ一つ一つが、今は重たい足枷のように感じられる。
(俺は、ここにいちゃいけない)
彼は、輝かしいキャリアを築き上げているトップ俳優だ。スキャンダルで芸能界を追放された俺が、彼の家に匿われているなんて知られたら、彼の人生にどれだけの傷がつくか。考えただけで、血の気が引いた。
彼のファンだったという言葉は、嬉しかった。でも、それ以上に、彼を失望させたくないという気持ちが強かった。もう、俺には彼の期待に応えられるような才能なんて、どこにも残っていない。
決心は、案外あっさりと固まった。
その夜、海翔が仕事から帰宅するのを待って、俺は切り出した。
「一ノ瀬さん。……今まで、本当にありがとうございました。明日、ここを出ていこうと思います」
ソファに座って台本を読んでいた海翔が、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、いつも通り涼しげで、感情が読み取れない。
「……どこへ行くつもりだ」
「どこか、安いアパートでも探します。少しだけ貯金もあるので。これ以上、あなたに迷惑はかけられません」
俺は、彼の目を見ないようにして、床の一点を見つめながら言った。
「迷惑?」
海翔の声が、少し低くなった。
「誰が、迷惑だと言った」
「俺が、そう思うんです。あなたは、これからもっと活躍していく人だ。俺みたいな人間と関わるべきじゃない」
「俺が決めることだ、それは」
「でも……!」
思わず顔を上げると、海翔がすぐ目の前に立っていた。いつの間に移動したのか、その影が俺をすっぽりと覆う。
「あなたに迷惑はかけられない」
俺はもう一度、震える声で繰り返した。
これ以上、彼の優しさに甘えて、彼の人生を台無しにするわけにはいかない。それが、俺にできる唯一の恩返しのはずだ。
俺は立ち上がり、彼の横をすり抜けようとした。その腕を、強い力で掴まれる。
「っ……離して……」
「嫌だ」
彼の声には、拒絶を許さない響きがあった。
「湊。俺の話をちゃんと聞け」
海翔は、俺の腕を掴んだまま、もう片方の手で俺の顎を持ち上げ、無理やり視線を合わせた。その瞳の奥が、今まで見たことのない熱を帯びて揺れている。
「俺が君をここに連れてきたのは、同情や気まぐれじゃない。迷惑だなんて、一度でも思ったことはない」
「…………」
「俺は、君の音楽がもう一度聴きたいんだ」
彼の言葉が、静寂に響いた。
「ファンとして、じゃない。一人の人間として、朝比奈湊が作る音楽に、もう一度触れたい。それだけなんだ」
まっすぐな、あまりにも純粋な願い。
その言葉が、俺の心の最も柔らかい場所に、深く、深く突き刺さった。
俺の音楽。
もう、失われたと思っていたもの。自分自身で、捨ててしまったはずのもの。
それを、こんなにも渇望してくれている人がいる。
腕を掴む彼の力が、少しだけ強くなった。
「だから、行かないでくれ。ここにいてくれ、湊」
懇願するような、切実な響き。
その声に、俺の中に築き上げていたはずの決意の壁が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
目頭が熱くなり、視界が滲んだ。
俺の心に、この数週間で初めて、小さな、本当に小さな光が灯ったような気がした。
『管理人さん』の正体が、憧れの俳優その人だったという事実は、俺たちの間に見えない壁を作った。
今までのように、自然に言葉を交わすことができなくなった。彼の顔をまともに見られない。彼が用意してくれた食事を食べる時も、ソファで隣に座る時も、常に「あの俳優の一ノ瀬海翔に、迷惑をかけている」という意識が頭から離れない。
「湊」
海翔が俺の名前を呼ぶたびに、心臓が跳ねた。彼の優しさ一つ一つが、今は重たい足枷のように感じられる。
(俺は、ここにいちゃいけない)
彼は、輝かしいキャリアを築き上げているトップ俳優だ。スキャンダルで芸能界を追放された俺が、彼の家に匿われているなんて知られたら、彼の人生にどれだけの傷がつくか。考えただけで、血の気が引いた。
彼のファンだったという言葉は、嬉しかった。でも、それ以上に、彼を失望させたくないという気持ちが強かった。もう、俺には彼の期待に応えられるような才能なんて、どこにも残っていない。
決心は、案外あっさりと固まった。
その夜、海翔が仕事から帰宅するのを待って、俺は切り出した。
「一ノ瀬さん。……今まで、本当にありがとうございました。明日、ここを出ていこうと思います」
ソファに座って台本を読んでいた海翔が、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、いつも通り涼しげで、感情が読み取れない。
「……どこへ行くつもりだ」
「どこか、安いアパートでも探します。少しだけ貯金もあるので。これ以上、あなたに迷惑はかけられません」
俺は、彼の目を見ないようにして、床の一点を見つめながら言った。
「迷惑?」
海翔の声が、少し低くなった。
「誰が、迷惑だと言った」
「俺が、そう思うんです。あなたは、これからもっと活躍していく人だ。俺みたいな人間と関わるべきじゃない」
「俺が決めることだ、それは」
「でも……!」
思わず顔を上げると、海翔がすぐ目の前に立っていた。いつの間に移動したのか、その影が俺をすっぽりと覆う。
「あなたに迷惑はかけられない」
俺はもう一度、震える声で繰り返した。
これ以上、彼の優しさに甘えて、彼の人生を台無しにするわけにはいかない。それが、俺にできる唯一の恩返しのはずだ。
俺は立ち上がり、彼の横をすり抜けようとした。その腕を、強い力で掴まれる。
「っ……離して……」
「嫌だ」
彼の声には、拒絶を許さない響きがあった。
「湊。俺の話をちゃんと聞け」
海翔は、俺の腕を掴んだまま、もう片方の手で俺の顎を持ち上げ、無理やり視線を合わせた。その瞳の奥が、今まで見たことのない熱を帯びて揺れている。
「俺が君をここに連れてきたのは、同情や気まぐれじゃない。迷惑だなんて、一度でも思ったことはない」
「…………」
「俺は、君の音楽がもう一度聴きたいんだ」
彼の言葉が、静寂に響いた。
「ファンとして、じゃない。一人の人間として、朝比奈湊が作る音楽に、もう一度触れたい。それだけなんだ」
まっすぐな、あまりにも純粋な願い。
その言葉が、俺の心の最も柔らかい場所に、深く、深く突き刺さった。
俺の音楽。
もう、失われたと思っていたもの。自分自身で、捨ててしまったはずのもの。
それを、こんなにも渇望してくれている人がいる。
腕を掴む彼の力が、少しだけ強くなった。
「だから、行かないでくれ。ここにいてくれ、湊」
懇願するような、切実な響き。
その声に、俺の中に築き上げていたはずの決意の壁が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
目頭が熱くなり、視界が滲んだ。
俺の心に、この数週間で初めて、小さな、本当に小さな光が灯ったような気がした。
あなたにおすすめの小説
忘れた名前の庭で
千葉琴音
BL
【凍てついた記憶を溶かすのは、不器用な守護者の体温】
「俺のことはルーカスでいい」
目覚めると、僕は自分の名前すら忘れていた。 唯一の肉親である兄・テオドールの死と同時に失われた記憶。無愛想な兄の友人ルーカスと共にゆっくりと兄の足跡を辿っていく。
厳格で甘いものが嫌いだった亡き兄・テオドール。彼が密かに弟のために植物図鑑を読み、内緒で菓子を買い与えていたという、口にされることのなかった真実。
ルーカスの語る「かつての自分」と、今の自分が少しずつ重なっていく中、アルノは因縁の魔獣の住む森へと足を踏み入れる。そこで彼が思い出したのは、独りで耐える術ではなく、誰かに抱きしめられて「息をする」方法だった。 孤独な少年と、彼を見守り続けた騎士。二人が雪解けの庭で見つける、新しい絆の物語。
契約書はよく読めとあれほど!
RNR
BL
異世界で目が覚めた、就職浪人中の美容系男子、優馬。
最初に出会った美しい貴族青年は、言葉が通じないが親切に手を差し伸べてくれた。
彼の屋敷に招かれた際、文字は読めないもののなにかの書類にサインをすると、その彼と結婚したことになっていて……。
この世界で何をする? また無職生活? 本当にそれでいい? 葛藤する日々と、それを惜しみない愛情で支える夫。
理想の自分と、理想の幸せを探す物語。
23話+続編2話+番外編2話
バツイチ上司が、地味な僕を特別扱いしてくる
衣草 薫
BL
理性的でクールなバツイチ上司・桐原恒一は、過去の失敗から、もう誰も必要としないと決めて生きてきた。
男が好きだという事実を隠し、「期待しなければ傷つかない」と思い込んできた部下・葉山直。
すれ違いと誤解の果てに、直が職場を去ろうとしたとき、恒一は初めて“追いかける”ことを選ぶ。
選ばれないと信じてきた直と、逃げないと決めた恒一。
二人の距離が近づくことで、直は「ここにいていい」と思える場所を見つけていく。
元ノンケ上司×自己肯定感低め部下の社会人BL。※ハッピーエンド保証。
脳筋剣士と鈍感薬師 ~騎士様、こいつです~
季エス
BL
「ルカーシュは、駄目よ」
その時胸に到来した思いは安堵であり、寂しさでもあった。
ルカーシュは薬師だ。幼馴染と共に、魔王を倒すために村を出た。彼は剣士だった。薬師のルカーシュは足手纏いだった。途中で仲間が増えたが、それでも足手纏いである事に変わりはなかった。そうしてついに、追い出される日が来たのだ。
ルカーシュはそっと、瞼を伏せた。
明日、明日になったら、笑おう。そして、礼と別れを言うのだ。
だから、今だけは、泣いてもいいかな。
異世界オークションで売られた俺、落札したのは昔助けた狼でした
うんとこどっこいしょ
BL
異世界の闇オークションで商品として目覚めた青年・アキラ。
獣人族たちに値踏みされ、競りにかけられる恐怖の中、彼を千枚の金貨で落札したのは、銀灰色の髪を持つ狼の獣人・ロウだった。
怯えるアキラに、ロウは思いがけない言葉を告げる。
「やっと会えた。お前は俺の命の恩人だ」
戸惑うアキラの脳裏に蘇るのは、かつて雨の日に助けた一匹の子狼との記憶。
獣人世界を舞台に、命の恩人であるアキラと、一途に想い続けた狼獣人が紡ぐ、執着と溺愛の異世界BLロマンス。
第一章 完結
第二章 完結
第三章 完結
転生DKは、オーガさんのお気に入り~姉の婚約者に嫁ぐことになったんだが、こんなに溺愛されるとは聞いてない!~
トモモト ヨシユキ
BL
魔物の国との和議の証に結ばれた公爵家同士の婚約。だが、婚約することになった姉が拒んだため6男のシャル(俺)が代わりに婚約することになった。
突然、オーガ(鬼)の嫁になることがきまった俺は、ショックで前世を思い出す。
有名進学校に通うDKだった俺は、前世の知識と根性で自分の身を守るための剣と魔法の鍛練を始める。
約束の10年後。
俺は、人類最強の魔法剣士になっていた。
どこからでもかかってこいや!
と思っていたら、婚約者のオーガ公爵は、全くの塩対応で。
そんなある日、魔王国のバーティーで絡んできた魔物を俺は、こてんぱんにのしてやったんだが、それ以来、旦那様の様子が変?
急に花とか贈ってきたり、デートに誘われたり。
慣れない溺愛にこっちまで調子が狂うし!
このまま、俺は、絆されてしまうのか!?
カイタ、エブリスタにも掲載しています。
【完結】巷で噂の国宝級イケメンの辺境伯は冷徹なので、まっっったくモテませんが、この度婚約者ができました。
明太子
BL
オーディスは国宝級イケメンであるにも関わらず、冷徹な性格のせいで婚約破棄されてばかり。
新たな婚約者を探していたところ、パーティーで給仕をしていた貧乏貴族の次男セシルと出会い、一目惚れしてしまう。
しかし、恋愛偏差値がほぼ0のオーディスのアプローチは空回りするわ、前婚約者のフランチェスカの邪魔が入るわとセシルとの距離は縮まったり遠ざかったり…?
冷徹だったはずなのに溺愛まっしぐらのオーディスと元気だけどおっちょこちょいなセシルのドタバタラブコメです。
完結·氷の侯爵はおっさん騎士を溺愛したい〜枯れおじの呪いを解くには恋が必要らしいです~
禅
BL
少年だったルイを庇って呪いを受けた騎士ディオン。
それから年月が経ち、ルイは青年に、ディオンはおっさん騎士になっていた。
魔法を使うと呪いが進むディオン。その呪いを解呪しようと試行錯誤なルイ。
そんなとき、ひょんなことから恋をすれば呪いが解けるのでは、となりルイがディオンに恋をさせようと様々な奇行を始める。
二人は呪いを解くことができるのか、そして二人の関係は――――――
※完結まで毎日投稿します
※小説家になろう、Nolaノベルにも投稿しています