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第8話:零れ落ちたメロディ
海翔に力強く引き留められたあの日から、俺はマンションを出ていくという言葉を、二度と口にしなかった。
相変わらず、彼に対して萎縮してしまう気持ちはあったけれど、「君の音楽が聴きたい」という言葉が、ずっと頭の中でこだましていた。
その翌日のことだった。海翔は仕事部屋の隅に置かれていたカバーのかかった物体を、リビングまで運んできた。カバーを外すと、現れたのは八十八鍵の電子ピアノだった。
「……これは?」
「役作りのために買ったものだ。今は使っていない」
彼はそう言うと、ピアノの前に椅子を置いた。
「無理にしなくていい。弾きたくないなら、触らなくてもいい」
そして、彼は付け加えた。
「でも、もし君が望むなら。ここなら、誰も君の音を邪魔しない」
それだけ言うと、海翔はいつも通り仕事に出かけていった。
リビングに、俺とピアノだけが残される。
鍵盤に触れるのが、怖かった。
音楽は、俺のすべてだった。喜びも、希望も、そこから生まれていた。でも今は、絶望の象徴だ。音楽をやっていたから、注目を浴びた。音楽をやっていたから、裏切られた。もう、あんな思いはしたくない。
その日一日、俺はピアノに近づくことさえできなかった。
しかし、夜が来て、世界が静寂に包まれると、ピアノの存在がやけに大きく感じられた。リビングのソファから、黒く艶のあるその筐体が、俺を誘っているように見える。
海翔は、まだ帰ってきていない。
吸い寄せられるように、俺はピアノの前に立った。そして、震える指を、そっと鍵盤の上に置く。
ひんやりとした感触が、指先から伝わってくる。
怖い。
でも、ほんの少しだけ、懐かしい。
ゆっくりと、鍵盤を一つ、押してみた。
ポーン、と澄んだ音が、静かな部屋に響き渡る。その単音が、俺の心の奥底に眠っていた何かを、そっと揺り動かした。
一つ、また一つと、指が自然に動き出す。
それは、ちゃんとした曲にはならなかった。ただ、今の俺の気持ちをそのまま音にしたような、拙くて、頼りない音の羅列。
捏造されたスキャンダル。世間の罵声。仲間の冷たい視線。全てを失った絶望。雨に打たれた夜の寒さ。
そして、不意に差し伸べられた、温かい手。
不器用な優しさ。
『君の音楽が聴きたい』と、まっすぐに告げた、あの強い瞳。
俺の中で渦巻いていた、ぐちゃぐちゃの感情が、指先から零れ落ちていく。孤独、悲しみ、そして、海翔への微かな、名前のつけられない感謝の気持ち。
それらが、いつしか一つのメロディの断片を形作り始めていた。
悲しくて、切ないけれど、その奥に、ほんのわずかな光が差すような、そんな旋律。
夢中で鍵盤を叩いていた。どれくらいの時間が経ったのかも分からない。
ふと、背後に人の気配を感じて、俺ははっと我に返った。振り返ると、いつの間にか帰宅していた海翔が、息を殺してそこに立っていた。
「あ……あの、これは……」
勝手にピアノを弾いていたことを咎められるだろうか。慌てて言い訳を探すが、言葉にならない。
だが、海翔は何も言わなかった。ただ、その黒い瞳を大きく見開いて、俺の作ったメロディの余韻が残る空間を、味わうように見つめていた。
その表情は、驚愕に染まっていた。
相変わらず、彼に対して萎縮してしまう気持ちはあったけれど、「君の音楽が聴きたい」という言葉が、ずっと頭の中でこだましていた。
その翌日のことだった。海翔は仕事部屋の隅に置かれていたカバーのかかった物体を、リビングまで運んできた。カバーを外すと、現れたのは八十八鍵の電子ピアノだった。
「……これは?」
「役作りのために買ったものだ。今は使っていない」
彼はそう言うと、ピアノの前に椅子を置いた。
「無理にしなくていい。弾きたくないなら、触らなくてもいい」
そして、彼は付け加えた。
「でも、もし君が望むなら。ここなら、誰も君の音を邪魔しない」
それだけ言うと、海翔はいつも通り仕事に出かけていった。
リビングに、俺とピアノだけが残される。
鍵盤に触れるのが、怖かった。
音楽は、俺のすべてだった。喜びも、希望も、そこから生まれていた。でも今は、絶望の象徴だ。音楽をやっていたから、注目を浴びた。音楽をやっていたから、裏切られた。もう、あんな思いはしたくない。
その日一日、俺はピアノに近づくことさえできなかった。
しかし、夜が来て、世界が静寂に包まれると、ピアノの存在がやけに大きく感じられた。リビングのソファから、黒く艶のあるその筐体が、俺を誘っているように見える。
海翔は、まだ帰ってきていない。
吸い寄せられるように、俺はピアノの前に立った。そして、震える指を、そっと鍵盤の上に置く。
ひんやりとした感触が、指先から伝わってくる。
怖い。
でも、ほんの少しだけ、懐かしい。
ゆっくりと、鍵盤を一つ、押してみた。
ポーン、と澄んだ音が、静かな部屋に響き渡る。その単音が、俺の心の奥底に眠っていた何かを、そっと揺り動かした。
一つ、また一つと、指が自然に動き出す。
それは、ちゃんとした曲にはならなかった。ただ、今の俺の気持ちをそのまま音にしたような、拙くて、頼りない音の羅列。
捏造されたスキャンダル。世間の罵声。仲間の冷たい視線。全てを失った絶望。雨に打たれた夜の寒さ。
そして、不意に差し伸べられた、温かい手。
不器用な優しさ。
『君の音楽が聴きたい』と、まっすぐに告げた、あの強い瞳。
俺の中で渦巻いていた、ぐちゃぐちゃの感情が、指先から零れ落ちていく。孤独、悲しみ、そして、海翔への微かな、名前のつけられない感謝の気持ち。
それらが、いつしか一つのメロディの断片を形作り始めていた。
悲しくて、切ないけれど、その奥に、ほんのわずかな光が差すような、そんな旋律。
夢中で鍵盤を叩いていた。どれくらいの時間が経ったのかも分からない。
ふと、背後に人の気配を感じて、俺ははっと我に返った。振り返ると、いつの間にか帰宅していた海翔が、息を殺してそこに立っていた。
「あ……あの、これは……」
勝手にピアノを弾いていたことを咎められるだろうか。慌てて言い訳を探すが、言葉にならない。
だが、海翔は何も言わなかった。ただ、その黒い瞳を大きく見開いて、俺の作ったメロディの余韻が残る空間を、味わうように見つめていた。
その表情は、驚愕に染まっていた。
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