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第1話「断罪の予感と春の嵐」
豪勢な天蓋付きのベッドで目を覚ましたとき、俺は自分が絶望的な状況にいることを悟った。
絹のシーツの感触も、窓から差し込む柔らかな朝の光も、ここが俺の知っている日本ではないことを告げている。そして何より、重厚な姿見に映るこの顔だ。
水銀のように冷たい銀色の髪。氷の刃を思わせる切れ長の青い瞳。整ってはいるが、どこか人を寄せ付けない、傲慢さと神経質さが同居したような美貌。
ルシアン・ヴァルドア。
それが、今の俺の名前だ。
前世で妹が熱心に読んでいたBL小説、『銀の瞳の聖者』に登場する、主人公をいじめ抜く悪役令息その人だった。
「……最悪だ」
思わずつぶやいた声は、驚くほど低く、甘く響いた。アルファ特有の、聞く者を畏縮させるような響きを含んでいる。
俺は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
記憶が正しければ、今日は王立学園の入学式だ。物語の始まりの日であり、俺ルシアン・ヴァルドアが破滅へ向かって歩き出す第一歩となる日である。
原作でのルシアンは、平民出身でオメガである主人公ノエル・シルヴァを見下し、ことあるごとに嫌がらせを繰り返す。教科書を隠す、水をかける、悪い噂を流す……実に古典的で陰湿な手口だ。そして物語のクライマックス、卒業パーティーの夜に、ノエルを愛する王太子や騎士団長の息子たちによって罪を暴かれ、断罪される。
家を追放され、魔力を封じられ、路地裏で野垂れ死ぬバッドエンド。
「嫌だ。絶対に嫌だ」
俺は平和に生きたい。美味しいものを食べて、暖かい布団で寝て、畳の上で死にたい。いや、畳はこの世界にはないかもしれないが、とにかく安穏とした老後を迎えたいのだ。
幸いなことに、まだ物語は始まっていない。今日が入学式ということは、まだノエルと出会ってすらいないのだ。
ならば、答えは簡単だ。
関わらなければいい。
ノエル・シルヴァを徹底的に避ける。視界に入れない。話しかけない。存在そのものを認識しない。そうすれば、いじめようがないし、断罪される理由もなくなるはずだ。
「よし、決めた。俺は空気だ。背景の一部になる」
そうと決まれば、身支度だ。
部屋に入ってきた使用人たちに無言で着替えさせられながら、俺は鏡の中の自分に向かって決意を新たにした。公爵家の制服は深紅の生地に金の刺繍が施され、嫌でも目立つデザインだ。だが、振る舞いを地味にすればなんとかなるだろう。
朝食の席では、厳格な父である公爵と言葉を交わすこともなく、ただ静かに食事を済ませた。この家自体が、冷え切っているのだ。それが原作ルシアンの性格を歪ませた原因でもあるのだが、今の俺には好都合だった。余計な会話をしなくて済む。
迎えの馬車に乗り込み、石畳の道を揺られていく。
窓の外には、中世ヨーロッパ風の美しい街並みが広がっていた。だが、俺の心は鉛のように重い。学園には、ノエルだけでなく、彼の攻略対象となるきらびやかなアルファたちが大勢いるはずだ。王太子、騎士団長の息子、魔術師団長の弟……。彼らに関わるのも危険だ。
俺は貝になる。誰とも目を合わせず、授業が終われば速やかに帰宅する、模範的かつ影の薄い学生を目指すのだ。
学園の正門に到着すると、そこはすでに新入生たちでごった返していた。
馬車の扉が開けられ、俺が足を踏み出した瞬間、周囲の空気がさっと凍りついたように静まり返る。
「……ヴァルドア公爵家のルシアン様だ」
「なんて冷たい美しさなんだ……」
「目が合うだけで石にされそうだよ」
ひそひそ話が聞こえてくる。どうやら「影の薄い学生」作戦は、出だしからつまずいているらしい。生まれ持った威圧感が強すぎるのだ。
俺は心の中で泣きながら、しかし顔には鉄仮面のような無表情を張り付け、背筋を伸ばして歩き出した。下を向いておどおど歩けば、かえって奇異の目で見られる。堂々と無視して通り過ぎるのが一番だ。
大講堂へと続く並木道は、桜によく似た薄紅色の花びらが舞っていた。
その美しい光景の中、一人の少年が立っていた。
蜂蜜色の柔らかそうな髪。少し大きめの制服。不安そうに周囲を見回す、守ってあげたくなるような大きな瞳。
間違いなく、主人公のノエル・シルヴァだ。
全身に警報が鳴り響く。
『いた! 早速いた!』
彼はちょうど、近くにいた貴族の生徒に何か尋ねようとして、冷たくあしらわれているところだった。突き飛ばされ、よろけた拍子にこちらを向く。
目が合った。
瞬間、俺は全速力で「無関心」を装った。
助け起こせばフラグが立つ。嘲笑えば断罪フラグが立つ。
だから俺は、彼など最初からそこに存在しないかのように、視線をすっと横に流し、瞬き一つせずに通り過ぎたのだ。
心臓は早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝っていた。怖い。主人公が怖い。彼に関わる運命力が怖い。
通り過ぎざま、ふわりと甘い香りが鼻をかすめた。オメガ特有の、熟した果実のような香り。これが多くのアルファを狂わせるのだと、本能が理解する。だが俺は息を止め、足早にその場を去った。
『危なかった……。とりあえず、ファーストコンタクトは回避したぞ』
俺は安堵の息を吐きながら、講堂の最前列にある指定席へと急いだ。
その背後で、倒れ込んだままのノエルが、熱っぽい瞳で俺の背中を見つめていることなど、知る由もなかった。
「……きれいな人。他の人みたいに、僕を汚いものでも見るような目で見なかった。ただ、風のように」
ノエルのつぶやきは、春の風にさらわれて消えた。
絹のシーツの感触も、窓から差し込む柔らかな朝の光も、ここが俺の知っている日本ではないことを告げている。そして何より、重厚な姿見に映るこの顔だ。
水銀のように冷たい銀色の髪。氷の刃を思わせる切れ長の青い瞳。整ってはいるが、どこか人を寄せ付けない、傲慢さと神経質さが同居したような美貌。
ルシアン・ヴァルドア。
それが、今の俺の名前だ。
前世で妹が熱心に読んでいたBL小説、『銀の瞳の聖者』に登場する、主人公をいじめ抜く悪役令息その人だった。
「……最悪だ」
思わずつぶやいた声は、驚くほど低く、甘く響いた。アルファ特有の、聞く者を畏縮させるような響きを含んでいる。
俺は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
記憶が正しければ、今日は王立学園の入学式だ。物語の始まりの日であり、俺ルシアン・ヴァルドアが破滅へ向かって歩き出す第一歩となる日である。
原作でのルシアンは、平民出身でオメガである主人公ノエル・シルヴァを見下し、ことあるごとに嫌がらせを繰り返す。教科書を隠す、水をかける、悪い噂を流す……実に古典的で陰湿な手口だ。そして物語のクライマックス、卒業パーティーの夜に、ノエルを愛する王太子や騎士団長の息子たちによって罪を暴かれ、断罪される。
家を追放され、魔力を封じられ、路地裏で野垂れ死ぬバッドエンド。
「嫌だ。絶対に嫌だ」
俺は平和に生きたい。美味しいものを食べて、暖かい布団で寝て、畳の上で死にたい。いや、畳はこの世界にはないかもしれないが、とにかく安穏とした老後を迎えたいのだ。
幸いなことに、まだ物語は始まっていない。今日が入学式ということは、まだノエルと出会ってすらいないのだ。
ならば、答えは簡単だ。
関わらなければいい。
ノエル・シルヴァを徹底的に避ける。視界に入れない。話しかけない。存在そのものを認識しない。そうすれば、いじめようがないし、断罪される理由もなくなるはずだ。
「よし、決めた。俺は空気だ。背景の一部になる」
そうと決まれば、身支度だ。
部屋に入ってきた使用人たちに無言で着替えさせられながら、俺は鏡の中の自分に向かって決意を新たにした。公爵家の制服は深紅の生地に金の刺繍が施され、嫌でも目立つデザインだ。だが、振る舞いを地味にすればなんとかなるだろう。
朝食の席では、厳格な父である公爵と言葉を交わすこともなく、ただ静かに食事を済ませた。この家自体が、冷え切っているのだ。それが原作ルシアンの性格を歪ませた原因でもあるのだが、今の俺には好都合だった。余計な会話をしなくて済む。
迎えの馬車に乗り込み、石畳の道を揺られていく。
窓の外には、中世ヨーロッパ風の美しい街並みが広がっていた。だが、俺の心は鉛のように重い。学園には、ノエルだけでなく、彼の攻略対象となるきらびやかなアルファたちが大勢いるはずだ。王太子、騎士団長の息子、魔術師団長の弟……。彼らに関わるのも危険だ。
俺は貝になる。誰とも目を合わせず、授業が終われば速やかに帰宅する、模範的かつ影の薄い学生を目指すのだ。
学園の正門に到着すると、そこはすでに新入生たちでごった返していた。
馬車の扉が開けられ、俺が足を踏み出した瞬間、周囲の空気がさっと凍りついたように静まり返る。
「……ヴァルドア公爵家のルシアン様だ」
「なんて冷たい美しさなんだ……」
「目が合うだけで石にされそうだよ」
ひそひそ話が聞こえてくる。どうやら「影の薄い学生」作戦は、出だしからつまずいているらしい。生まれ持った威圧感が強すぎるのだ。
俺は心の中で泣きながら、しかし顔には鉄仮面のような無表情を張り付け、背筋を伸ばして歩き出した。下を向いておどおど歩けば、かえって奇異の目で見られる。堂々と無視して通り過ぎるのが一番だ。
大講堂へと続く並木道は、桜によく似た薄紅色の花びらが舞っていた。
その美しい光景の中、一人の少年が立っていた。
蜂蜜色の柔らかそうな髪。少し大きめの制服。不安そうに周囲を見回す、守ってあげたくなるような大きな瞳。
間違いなく、主人公のノエル・シルヴァだ。
全身に警報が鳴り響く。
『いた! 早速いた!』
彼はちょうど、近くにいた貴族の生徒に何か尋ねようとして、冷たくあしらわれているところだった。突き飛ばされ、よろけた拍子にこちらを向く。
目が合った。
瞬間、俺は全速力で「無関心」を装った。
助け起こせばフラグが立つ。嘲笑えば断罪フラグが立つ。
だから俺は、彼など最初からそこに存在しないかのように、視線をすっと横に流し、瞬き一つせずに通り過ぎたのだ。
心臓は早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝っていた。怖い。主人公が怖い。彼に関わる運命力が怖い。
通り過ぎざま、ふわりと甘い香りが鼻をかすめた。オメガ特有の、熟した果実のような香り。これが多くのアルファを狂わせるのだと、本能が理解する。だが俺は息を止め、足早にその場を去った。
『危なかった……。とりあえず、ファーストコンタクトは回避したぞ』
俺は安堵の息を吐きながら、講堂の最前列にある指定席へと急いだ。
その背後で、倒れ込んだままのノエルが、熱っぽい瞳で俺の背中を見つめていることなど、知る由もなかった。
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ノエルのつぶやきは、春の風にさらわれて消えた。
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