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第4話「雨音と残り香」
六月の空は気まぐれだ。
朝は晴れていたのに、放課後にはバケツをひっくり返したような土砂降りになっていた。
雷鳴が遠くで轟き、窓ガラスを叩く雨粒が激しさを増している。
俺は人の少ない東校舎の昇降口で、迎えの馬車が正門まで回ってくるのを待っていた。テオドールに連絡は入れてあるが、この雨では少し遅れるだろう。
ふと、甘ったるい匂いが漂ってきた。
雨の匂いに混じって、濃厚な花の蜜のような香りが鼻腔をくすぐる。
これは、ただ事ではない。
ヒート(発情期)の兆候だ。
オメガは定期的にヒートを迎えるが、抑制剤でコントロールするのが一般的だ。だが、強いストレスや体調不良で予期せず始まってしまうこともある。
俺はハンカチで鼻と口を覆った。
香りの発生源は、すぐ近くだ。
廊下の角を曲がったところにある用具室の前で、誰かがうずくまっている。
嫌な予感がする。心臓が早鐘を打つ。
確認したくないが、この香りには覚えがあった。
ノエルだ。
彼は床に膝をつき、荒い息を吐いていた。顔は真っ赤で、目は潤み、制服のシャツをきつく握りしめている。
そして、その周りには、すでにハイエナたちが集まりつつあった。
二人の男子生徒。アルファだ。彼らの目は欲望で濁り、理性を失いかけている。
「おい、すげえ匂いだぞ」
「抑制剤切らしてるんじゃないか? かわいそうに、俺たちが慰めてやろうぜ」
彼らがノエルに手を伸ばそうとする。
ノエルはか細い声で「やめて……こないで……」と拒絶しているが、体は思うように動かないようだ。
俺は柱の影に隠れて、その光景を見ていた。
どうする?
原作なら、ここで攻略対象の誰かが颯爽と現れてノエルを救う場面だ。俺が出る幕ではない。むしろ、俺が出たらややこしくなる。
ここで見て見ぬふりをして立ち去るのが、悪役回避の正解だ。
関わるな。逃げろ。
そう自分に言い聞かせる。足を踏み出して、反対方向へ行こうとする。
だが、足が動かなかった。
『助けて……』
幻聴かもしれない。だが、ノエルの絶望的な表情が脳裏に焼き付いて離れない。
前世の記憶が蘇る。いじめを見て見ぬふりをしたことへの後悔。自分が安全圏にいるために、誰かの尊厳が踏みにじられるのを黙認する卑怯さ。
俺は悪役令息ルシアンだ。
だが、中身はただの小心者で、平和を愛する一般人だ。
こんな胸糞悪い場面を黙って見過ごして、のうのうと生きていけるほど、俺の神経は図太くない。
「……くそっ!」
俺は悪態をつくと、柱の影から飛び出した。
カツ、カツ、カツ。
あえて足音を高く響かせる。
ハイエナたちが振り返る。
「誰だ! 邪魔すんじゃ……」
彼らは俺の顔を見て、言葉を飲み込んだ。
俺は今、人生で一番怖い顔をしている自信がある。もともと悪人面の俺が、本気で不快感と怒り(と恐怖)を顔に出しているのだ。その迫力は魔王級だろう。
「……消えろ」
低く、地を這うような声が出た。
「俺の視界に入っていい許可など出した覚えはない。そこをどけ、虫けら共」
ルシアン・ヴァルドアとしての精一杯の演技。
彼らは青ざめ、ガタガタと震え上がった。公爵家の権力と、俺の放出する冷気のような威圧感に、本能的な恐怖を覚えたのだろう。
「ひっ、す、すみません!」
彼らは逃げ去った。
あとに残されたのは、荒い息をつくノエルと俺だけ。
ノエルが熱っぽい目で俺を見上げる。
「ルシアン、さま……」
まずい。非常にまずい。
今の俺はアルファだ。目の前に無防備な発情中のオメガがいる。理性がきしみ、本能が警鐘を鳴らす。
近づけば飲み込まれる。
俺はこれ以上近づかなかった。
その代わり、着ていた制服のジャケットを脱ぎ、丸めると、無造作にノエルに向かって投げつけた。
ジャケットはノエルの頭からばさりと被さる。
俺の残り香と体温が染み付いたジャケット。それが、一時的だが、他のアルファへの牽制と、彼のフェロモンの遮断になるはずだ。
「……臭いんだよ、お前」
俺は吐き捨てるように言った。
顔は見ない。見たら理性が飛ぶかもしれないから。
「その匂いを撒き散らすな。不愉快だ」
最低の言葉だ。助けたように見せかけて、ただの悪口を言って立ち去る。これなら「嫌な奴」で終わるはずだ。
俺はすぐさま踵を返し、早歩きでその場を離れた。
すぐに教師か医務室の人間を呼ばなければ。
心臓が破裂しそうだった。
一方、ジャケットに包まれたノエルは、震える手でその生地を掴んだ。
包み込まれるような、ルシアンの香り。
冷たい雪と、その下でひっそりと咲く青い花の香り。
それは、彼を襲っていた熱を優しく冷まし、同時に深い安心感を与えてくれた。
「……不愉快だなんて、嘘つき」
ノエルはジャケットに顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
彼にとって、投げつけられた言葉は照れ隠しにしか聞こえなかった。
本当に不快なら、自分の匂いの染み付いた服など貸さない。これは「お前は俺の庇護下にある」という、最大級の所有宣言(マーキング)にも似た行為だ。
「ルシアン様……好きです」
雨音にかき消されたその告白は、誰にも届くことはなかったが、ノエルの心の中で確固たる決意へと変わっていた。
朝は晴れていたのに、放課後にはバケツをひっくり返したような土砂降りになっていた。
雷鳴が遠くで轟き、窓ガラスを叩く雨粒が激しさを増している。
俺は人の少ない東校舎の昇降口で、迎えの馬車が正門まで回ってくるのを待っていた。テオドールに連絡は入れてあるが、この雨では少し遅れるだろう。
ふと、甘ったるい匂いが漂ってきた。
雨の匂いに混じって、濃厚な花の蜜のような香りが鼻腔をくすぐる。
これは、ただ事ではない。
ヒート(発情期)の兆候だ。
オメガは定期的にヒートを迎えるが、抑制剤でコントロールするのが一般的だ。だが、強いストレスや体調不良で予期せず始まってしまうこともある。
俺はハンカチで鼻と口を覆った。
香りの発生源は、すぐ近くだ。
廊下の角を曲がったところにある用具室の前で、誰かがうずくまっている。
嫌な予感がする。心臓が早鐘を打つ。
確認したくないが、この香りには覚えがあった。
ノエルだ。
彼は床に膝をつき、荒い息を吐いていた。顔は真っ赤で、目は潤み、制服のシャツをきつく握りしめている。
そして、その周りには、すでにハイエナたちが集まりつつあった。
二人の男子生徒。アルファだ。彼らの目は欲望で濁り、理性を失いかけている。
「おい、すげえ匂いだぞ」
「抑制剤切らしてるんじゃないか? かわいそうに、俺たちが慰めてやろうぜ」
彼らがノエルに手を伸ばそうとする。
ノエルはか細い声で「やめて……こないで……」と拒絶しているが、体は思うように動かないようだ。
俺は柱の影に隠れて、その光景を見ていた。
どうする?
原作なら、ここで攻略対象の誰かが颯爽と現れてノエルを救う場面だ。俺が出る幕ではない。むしろ、俺が出たらややこしくなる。
ここで見て見ぬふりをして立ち去るのが、悪役回避の正解だ。
関わるな。逃げろ。
そう自分に言い聞かせる。足を踏み出して、反対方向へ行こうとする。
だが、足が動かなかった。
『助けて……』
幻聴かもしれない。だが、ノエルの絶望的な表情が脳裏に焼き付いて離れない。
前世の記憶が蘇る。いじめを見て見ぬふりをしたことへの後悔。自分が安全圏にいるために、誰かの尊厳が踏みにじられるのを黙認する卑怯さ。
俺は悪役令息ルシアンだ。
だが、中身はただの小心者で、平和を愛する一般人だ。
こんな胸糞悪い場面を黙って見過ごして、のうのうと生きていけるほど、俺の神経は図太くない。
「……くそっ!」
俺は悪態をつくと、柱の影から飛び出した。
カツ、カツ、カツ。
あえて足音を高く響かせる。
ハイエナたちが振り返る。
「誰だ! 邪魔すんじゃ……」
彼らは俺の顔を見て、言葉を飲み込んだ。
俺は今、人生で一番怖い顔をしている自信がある。もともと悪人面の俺が、本気で不快感と怒り(と恐怖)を顔に出しているのだ。その迫力は魔王級だろう。
「……消えろ」
低く、地を這うような声が出た。
「俺の視界に入っていい許可など出した覚えはない。そこをどけ、虫けら共」
ルシアン・ヴァルドアとしての精一杯の演技。
彼らは青ざめ、ガタガタと震え上がった。公爵家の権力と、俺の放出する冷気のような威圧感に、本能的な恐怖を覚えたのだろう。
「ひっ、す、すみません!」
彼らは逃げ去った。
あとに残されたのは、荒い息をつくノエルと俺だけ。
ノエルが熱っぽい目で俺を見上げる。
「ルシアン、さま……」
まずい。非常にまずい。
今の俺はアルファだ。目の前に無防備な発情中のオメガがいる。理性がきしみ、本能が警鐘を鳴らす。
近づけば飲み込まれる。
俺はこれ以上近づかなかった。
その代わり、着ていた制服のジャケットを脱ぎ、丸めると、無造作にノエルに向かって投げつけた。
ジャケットはノエルの頭からばさりと被さる。
俺の残り香と体温が染み付いたジャケット。それが、一時的だが、他のアルファへの牽制と、彼のフェロモンの遮断になるはずだ。
「……臭いんだよ、お前」
俺は吐き捨てるように言った。
顔は見ない。見たら理性が飛ぶかもしれないから。
「その匂いを撒き散らすな。不愉快だ」
最低の言葉だ。助けたように見せかけて、ただの悪口を言って立ち去る。これなら「嫌な奴」で終わるはずだ。
俺はすぐさま踵を返し、早歩きでその場を離れた。
すぐに教師か医務室の人間を呼ばなければ。
心臓が破裂しそうだった。
一方、ジャケットに包まれたノエルは、震える手でその生地を掴んだ。
包み込まれるような、ルシアンの香り。
冷たい雪と、その下でひっそりと咲く青い花の香り。
それは、彼を襲っていた熱を優しく冷まし、同時に深い安心感を与えてくれた。
「……不愉快だなんて、嘘つき」
ノエルはジャケットに顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
彼にとって、投げつけられた言葉は照れ隠しにしか聞こえなかった。
本当に不快なら、自分の匂いの染み付いた服など貸さない。これは「お前は俺の庇護下にある」という、最大級の所有宣言(マーキング)にも似た行為だ。
「ルシアン様……好きです」
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