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第9話「冷たい雨と公爵邸の秘密」
夏休みが始まった。
本来なら心躍る休暇のはずだが、俺にとっては地獄の帰省期間だ。
ヴァルドア公爵家の領地は北部にあり、夏でも涼しい避暑地として有名だ。だが、俺が帰る本邸は、物理的な気温以上に空気が冷たい。
帰省したその日、俺は父である公爵に執務室へ呼び出された。
「学園での成績は首席を維持しているようだな」
父は書類から目を離さずに言った。
「当然だ。ヴァルドアの直系たる者、二番手など許されん。……最近、妙な噂を聞くが」
心臓が跳ねた。ノエルのことか。
「平民のオメガ風情と馴れ合っていると。……遊びなら構わんが、家の名に泥を塗るような真似はするなよ。役立たずと判断すれば、いつでも切り捨てる」
冷酷な宣告。
この人は、息子を後継者という「機能」でしか見ていない。原作のルシアンが歪んだ最大の原因だ。
「……肝に銘じます」
俺は深く頭を下げ、部屋を出た。
背中に冷や汗がびっしりと張り付いていた。
俺には味方がいない。この広い屋敷の中で、俺はたった一人だ。
翌日。
気分転換に庭園を散策していると、空が急に暗くなり、冷たい雨が降り出した。
北部の雨は芯まで冷える。
だが、屋敷に戻る気になれず、俺は東屋(あずまや)のベンチに座り、ぼんやりと雨煙る薔薇園を眺めていた。
どうすれば破滅を回避できるだろう。父の期待に応え続けなければ廃嫡。かといってノエルと関われば断罪。
逃げ場がない。
前世の記憶があるといっても、俺はただの小市民だ。こんなハードモードな人生、荷が重すぎる。
弱音が、雨音に混じって漏れそうになる。
「……ルシアン様?」
幻聴かと思った。
だが、雨音に混じって砂利を踏む音が聞こえ、目の前に傘が差し出された。
顔を上げると、そこにいたのはノエルだった。
なぜここに?
「ノエル……?」
「あ、やっぱり! よかった、見間違いじゃなくて」
ノエルは驚いた顔をしつつ、安堵の表情を浮かべた。
「どうして、ここにいる」
「あの、夏季実習で……領内の薬草園の見学に来ているんです。道に迷ってしまって、このお屋敷の近くまで来て……そうしたら、ルシアン様が見えて」
なんという偶然。いや、これは強制イベントの力か。
ノエルは俺が濡れているのを見て、慌てて自分の傘を俺の上に差し掛けた。彼自身の肩が濡れるのも構わずに。
「風邪を引いてしまいます! こんなに冷たい雨なのに」
彼の手は温かかった。
俺は呆然と彼を見つめた。
父の冷たい言葉と、ノエルの温かい行動。その対比が、あまりにも残酷で、そして甘美だった。
「……お前には関係ない」
俺は弱々しく言った。威圧感など出せなかった。
「放っておいてくれ」
「放っておけません!」
ノエルは強い口調で言った。
「ルシアン様は、いつもそうやって一人で……寂しそうな顔をして」
「寂しい?」
俺が?
「はい。誰にも頼らず、全部一人で背負い込んで……学園でも、ここでも」
ノエルは傘を握りしめたまま、真剣な瞳で俺を射抜いた。
「僕じゃ頼りないかもしれません。でも、傘くらいなら差せます。雨が止むまで、隣にいることくらいならできます」
その言葉は、俺の心の防御壁の隙間に、すうっと入り込んできた。
関わってはいけない。この先にあるのは破滅だ。
だが、今の俺には、その温もりを拒絶するだけの気力が残っていなかった。
「……お節介な奴だ」
俺は小さくつぶやき、ベンチの端に寄った。
隣が空く。
それは無言の「座れ」という合図だった。
ノエルは顔を輝かせ、遠慮がちに、しかし嬉しそうに俺の隣に座った。
二人の間に、静かな雨音が満ちる。
俺の肩と彼の肩が、触れ合うか触れ合わないかの距離にある。
オメガの甘い香りが、雨の匂いを中和していく。
不思議と、不快ではなかった。むしろ、凍えていた心が、ゆっくりと解凍されていくような感覚だった。
その時、俺は知らなかった。
屋敷の窓から、この様子を見ている父の視線があることを。
そして、ノエルの中で、俺への感情が「憧れ」から、決して引き返せない「愛」へと完全に変化したことを。
雨は、まだ降り続いていた。
本来なら心躍る休暇のはずだが、俺にとっては地獄の帰省期間だ。
ヴァルドア公爵家の領地は北部にあり、夏でも涼しい避暑地として有名だ。だが、俺が帰る本邸は、物理的な気温以上に空気が冷たい。
帰省したその日、俺は父である公爵に執務室へ呼び出された。
「学園での成績は首席を維持しているようだな」
父は書類から目を離さずに言った。
「当然だ。ヴァルドアの直系たる者、二番手など許されん。……最近、妙な噂を聞くが」
心臓が跳ねた。ノエルのことか。
「平民のオメガ風情と馴れ合っていると。……遊びなら構わんが、家の名に泥を塗るような真似はするなよ。役立たずと判断すれば、いつでも切り捨てる」
冷酷な宣告。
この人は、息子を後継者という「機能」でしか見ていない。原作のルシアンが歪んだ最大の原因だ。
「……肝に銘じます」
俺は深く頭を下げ、部屋を出た。
背中に冷や汗がびっしりと張り付いていた。
俺には味方がいない。この広い屋敷の中で、俺はたった一人だ。
翌日。
気分転換に庭園を散策していると、空が急に暗くなり、冷たい雨が降り出した。
北部の雨は芯まで冷える。
だが、屋敷に戻る気になれず、俺は東屋(あずまや)のベンチに座り、ぼんやりと雨煙る薔薇園を眺めていた。
どうすれば破滅を回避できるだろう。父の期待に応え続けなければ廃嫡。かといってノエルと関われば断罪。
逃げ場がない。
前世の記憶があるといっても、俺はただの小市民だ。こんなハードモードな人生、荷が重すぎる。
弱音が、雨音に混じって漏れそうになる。
「……ルシアン様?」
幻聴かと思った。
だが、雨音に混じって砂利を踏む音が聞こえ、目の前に傘が差し出された。
顔を上げると、そこにいたのはノエルだった。
なぜここに?
「ノエル……?」
「あ、やっぱり! よかった、見間違いじゃなくて」
ノエルは驚いた顔をしつつ、安堵の表情を浮かべた。
「どうして、ここにいる」
「あの、夏季実習で……領内の薬草園の見学に来ているんです。道に迷ってしまって、このお屋敷の近くまで来て……そうしたら、ルシアン様が見えて」
なんという偶然。いや、これは強制イベントの力か。
ノエルは俺が濡れているのを見て、慌てて自分の傘を俺の上に差し掛けた。彼自身の肩が濡れるのも構わずに。
「風邪を引いてしまいます! こんなに冷たい雨なのに」
彼の手は温かかった。
俺は呆然と彼を見つめた。
父の冷たい言葉と、ノエルの温かい行動。その対比が、あまりにも残酷で、そして甘美だった。
「……お前には関係ない」
俺は弱々しく言った。威圧感など出せなかった。
「放っておいてくれ」
「放っておけません!」
ノエルは強い口調で言った。
「ルシアン様は、いつもそうやって一人で……寂しそうな顔をして」
「寂しい?」
俺が?
「はい。誰にも頼らず、全部一人で背負い込んで……学園でも、ここでも」
ノエルは傘を握りしめたまま、真剣な瞳で俺を射抜いた。
「僕じゃ頼りないかもしれません。でも、傘くらいなら差せます。雨が止むまで、隣にいることくらいならできます」
その言葉は、俺の心の防御壁の隙間に、すうっと入り込んできた。
関わってはいけない。この先にあるのは破滅だ。
だが、今の俺には、その温もりを拒絶するだけの気力が残っていなかった。
「……お節介な奴だ」
俺は小さくつぶやき、ベンチの端に寄った。
隣が空く。
それは無言の「座れ」という合図だった。
ノエルは顔を輝かせ、遠慮がちに、しかし嬉しそうに俺の隣に座った。
二人の間に、静かな雨音が満ちる。
俺の肩と彼の肩が、触れ合うか触れ合わないかの距離にある。
オメガの甘い香りが、雨の匂いを中和していく。
不思議と、不快ではなかった。むしろ、凍えていた心が、ゆっくりと解凍されていくような感覚だった。
その時、俺は知らなかった。
屋敷の窓から、この様子を見ている父の視線があることを。
そして、ノエルの中で、俺への感情が「憧れ」から、決して引き返せない「愛」へと完全に変化したことを。
雨は、まだ降り続いていた。
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