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第6話「二人きりのキッチンと甘い時間」
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その日は、朝から冷たい雨が降り続いていた。
窓ガラスを叩く雨音を聞きながら、僕は厨房で新作スイーツの試作に没頭していた。次にアシュレイ王太子が来た時に、もっと驚かせたい。その一心で、スパイスの配合を微調整していた。
そんな時、ずぶ濡れになったアシュレイ王太子が、前触れもなく厨房に現れた。
「アシュレイ殿下!?どうしてここに…お体も、びしょ濡れじゃありませんか!」
いつもは完璧に着こなしているはずの上着はぐっしょりと濡れ、黒髪からは雨のしずくが滴り落ちている。
僕は慌てて乾いたタオルを手に駆け寄った。
「すまない。少し雨宿りをさせてくれ」
彼はそう言うと、僕が差し出したタオルで乱暴に髪を拭きながら、僕の隣にあるスツールにどかりと腰を下ろした。
とても王太子とは思えない無防備な姿に、少しだけ胸がどきりとする。
「風邪を引いてしまいます。すぐに温かいものをお持ちしますね」
僕は急いで小鍋を火にかけ、牛乳を温め始めた。そこに、たっぷりの蜂蜜と、体を温める効果のあるシナモン、ジンジャー、クローブをほんの少し。
スパイスの甘く刺激的な香りが、雨で冷えた厨房の空気を満たしていく。
「どうぞ、お召し上がりください」
湯気の立つマグカップを差し出すと、彼は「ああ」と短く答えて受け取った。
そして、温かいホットミルクをゆっくりと一口飲む。
「…温かい」
ふう、と彼が吐き出した息は白く、いつも張り詰めている彼の表情がほんの少しだけ和らいだように見えた。
二人きりの厨房に、雨音と彼がミルクを飲む小さな音だけが響く。気まずいような、でも、どこか心地よいような、不思議な沈黙。
「お前は、いつもここにいるのか」
不意に、彼が問いかけた。
「はい。空いた時間は、大抵ここで新しいお菓子のことを考えています」
「そうか…」
彼はそれだけ言うと、また黙り込んでしまった。
何を考えているのだろう。いつも冷静で感情を見せない彼の心の中が、少しだけ気になった。
ホットミルクを飲み干した彼が、空になったマグカップをテーブルに置く。
僕がそれを受け取ろうと手を伸ばした、その時だった。
アシュレイ王太子の冷たい指先が、僕の手にふわりと触れた。
「――っ!」
思わず息をのむ。触れた部分は、まるで火傷をしたかのように熱い。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねたのが自分でも分かった。
彼は僕の手を離さず、そのまま自分の大きな手で包み込むように握った。そして、じっと僕の手のひらを見つめる。
「お前の手は、魔法の手だな」
低い、囁くような声。
真剣な眼差しが、僕を射抜く。その青い瞳の中には、もう王太子としての冷静さはなく、ただ一人の男としての熱く剥き出しの感情が渦巻いていた。
その視線に、声に、僕は初めて心臓が砕けるかと思うほど激しく鼓動するのを感じた。顔に熱が集まっていくのが分かる。
「そ、そんな…ただの、執事の手です」
「いいや。この手から、私の知らなかった世界の味が生まれる。…私の乾いた世界に、彩りを与えてくれたのは、お前のこの手だ」
彼は僕の手を愛おしむように、親指でそっと撫でた。
その仕草に、全身の血が逆流するような感覚に陥る。
エリアス様のため。公爵家のため。
今まで自分を支えてきた大義名分がなければ、この空間に流れる甘い空気に僕は耐えられそうになかった。意識が、彼の熱に溶かされてしまいそうだ。
この人は、なぜ。
なぜ、こんな表情を僕に向けるのだろう。
なぜ、僕の手にこんなに優しく触れるのだろう。
僕の中に、初めてアシュレイ王太子個人への疑問と、そして抗いがたい興味が確かに芽生えた瞬間だった。
雨はまだ、静かに降り続いていた。
窓ガラスを叩く雨音を聞きながら、僕は厨房で新作スイーツの試作に没頭していた。次にアシュレイ王太子が来た時に、もっと驚かせたい。その一心で、スパイスの配合を微調整していた。
そんな時、ずぶ濡れになったアシュレイ王太子が、前触れもなく厨房に現れた。
「アシュレイ殿下!?どうしてここに…お体も、びしょ濡れじゃありませんか!」
いつもは完璧に着こなしているはずの上着はぐっしょりと濡れ、黒髪からは雨のしずくが滴り落ちている。
僕は慌てて乾いたタオルを手に駆け寄った。
「すまない。少し雨宿りをさせてくれ」
彼はそう言うと、僕が差し出したタオルで乱暴に髪を拭きながら、僕の隣にあるスツールにどかりと腰を下ろした。
とても王太子とは思えない無防備な姿に、少しだけ胸がどきりとする。
「風邪を引いてしまいます。すぐに温かいものをお持ちしますね」
僕は急いで小鍋を火にかけ、牛乳を温め始めた。そこに、たっぷりの蜂蜜と、体を温める効果のあるシナモン、ジンジャー、クローブをほんの少し。
スパイスの甘く刺激的な香りが、雨で冷えた厨房の空気を満たしていく。
「どうぞ、お召し上がりください」
湯気の立つマグカップを差し出すと、彼は「ああ」と短く答えて受け取った。
そして、温かいホットミルクをゆっくりと一口飲む。
「…温かい」
ふう、と彼が吐き出した息は白く、いつも張り詰めている彼の表情がほんの少しだけ和らいだように見えた。
二人きりの厨房に、雨音と彼がミルクを飲む小さな音だけが響く。気まずいような、でも、どこか心地よいような、不思議な沈黙。
「お前は、いつもここにいるのか」
不意に、彼が問いかけた。
「はい。空いた時間は、大抵ここで新しいお菓子のことを考えています」
「そうか…」
彼はそれだけ言うと、また黙り込んでしまった。
何を考えているのだろう。いつも冷静で感情を見せない彼の心の中が、少しだけ気になった。
ホットミルクを飲み干した彼が、空になったマグカップをテーブルに置く。
僕がそれを受け取ろうと手を伸ばした、その時だった。
アシュレイ王太子の冷たい指先が、僕の手にふわりと触れた。
「――っ!」
思わず息をのむ。触れた部分は、まるで火傷をしたかのように熱い。
心臓が、ドクン、と大きく跳ねたのが自分でも分かった。
彼は僕の手を離さず、そのまま自分の大きな手で包み込むように握った。そして、じっと僕の手のひらを見つめる。
「お前の手は、魔法の手だな」
低い、囁くような声。
真剣な眼差しが、僕を射抜く。その青い瞳の中には、もう王太子としての冷静さはなく、ただ一人の男としての熱く剥き出しの感情が渦巻いていた。
その視線に、声に、僕は初めて心臓が砕けるかと思うほど激しく鼓動するのを感じた。顔に熱が集まっていくのが分かる。
「そ、そんな…ただの、執事の手です」
「いいや。この手から、私の知らなかった世界の味が生まれる。…私の乾いた世界に、彩りを与えてくれたのは、お前のこの手だ」
彼は僕の手を愛おしむように、親指でそっと撫でた。
その仕草に、全身の血が逆流するような感覚に陥る。
エリアス様のため。公爵家のため。
今まで自分を支えてきた大義名分がなければ、この空間に流れる甘い空気に僕は耐えられそうになかった。意識が、彼の熱に溶かされてしまいそうだ。
この人は、なぜ。
なぜ、こんな表情を僕に向けるのだろう。
なぜ、僕の手にこんなに優しく触れるのだろう。
僕の中に、初めてアシュレイ王太子個人への疑問と、そして抗いがたい興味が確かに芽生えた瞬間だった。
雨はまだ、静かに降り続いていた。
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