3 / 13
第2話「陽だまりと困惑」
目覚めは、ゆっくりとした浮上だった。
いつもなら、寒さと体の痛みで強制的に起こされる朝だ。板張りの床の硬さや、隙間風の冷たさが当たり前だった。
だが、今日は違う。
背中を包み込んでいるのは、雲のように柔らかい感触。頬に触れているのは、滑らかな絹の肌触り。
そして、部屋中を満たす温かい空気。
ノアは、恐る恐る目を開けた。
高い天井。精巧な彫刻が施された柱。窓にかかる厚手のベルベットのカーテン。
見たこともないほど豪華な部屋だった。
『ここは……天国、なのか?』
ぼんやりとした思考のまま、身体を起こそうとする。
節々の痛みは引いていたが、まだだるさが残っていた。清潔な夜着に着替えさせられていることに気づき、ノアは慌てて自分の胸元を探る。
ない。
お守りの匂い袋がない。
血の気が引いた。あれがないと、自分がオメガであることが隠せない。いや、ここまで親切にされたということは、すでに着替えの際にバレているのではないか。
心臓がドクンと跳ねる。
その時、重厚な扉がノックもなく開かれた。
「……起きたか」
現れたのは、昨夜の男だった。
雨の中の武装した姿とは違い、今は襟の詰まった白いシャツに黒いズボンというラフな格好だ。しかし、その圧倒的な体格と、内側から滲み出る威圧感は変わらない。
ヴァレリウス・グレイヴ。
ノアは反射的にシーツをかき集め、ベッドの隅へと後ずさった。
警戒心剥き出しの小動物のような反応に、ヴァレリウスは一瞬、傷ついたような顔をした。だが、すぐに無表情に戻り、お盆を持って部屋に入ってくる。
「怯える必要はない。ここは私の屋敷だ。誰もお前を害する者はいない」
言葉数は少ないが、声のトーンは努めて柔らかく抑えられているようだった。
ヴァレリウスはベッドの脇にある小さなテーブルにお盆を置いた。湯気を立てるスープと、焼きたてのパン。香ばしい匂いがノアの空っぽの胃袋を刺激する。
グウ、と情けない音が部屋に響いた。
ノアは真っ赤になって下を向く。
ふと、頭上から小さな吐息が聞こえた。見上げると、ヴァレリウスが口元を手で覆い、視線を逸らしている。
笑ったのだろうか?
いや、この厳格そうな男が笑うはずがない。ノアはそう思い直す。
「食べろ。身体を治すには栄養が必要だ」
「あ……ありがとう、ございます……」
ノアは震える手でスプーンを手に取った。
一口、スープを口に運ぶ。野菜と肉の旨みが溶け込んだ、優しい味だった。温かさが喉を通り、胃に落ちていく。
涙が出そうになった。
こんなに温かい食事を摂ったのは、いつぶりだろうか。
夢中でスプーンを動かしていると、視線を感じた。
ヴァレリウスが、少し離れた椅子に座り、じっとこちらを見ている。監視されているようで居心地が悪い。
だが、その眼差しは「監視」と呼ぶにはあまりに穏やかで、熱っぽかった。
まるで、宝物を鑑賞するかのような。あるいは、迷い込んできた珍しい鳥を観察するかのような。
「あの……」
「なんだ」
「俺の服……とか、あの袋、は」
「服は処分した。ボロ布同然だったからな。袋は……そこにある」
ヴァレリウスが顎で示したサイドテーブルの上に、見慣れた麻袋が置いてあった。洗濯され、きれいになっている。
中身は空だった。
「中に入っていたハーブは、毒消しにもなるが、常用すれば体を壊す。捨てさせてもらった」
「そ、そんな……! あれがないと、俺は……」
匂いが。オメガであることが。
ノアが青ざめるのを見て、ヴァレリウスは静かに立ち上がり、ベッドサイドへ歩み寄った。
威圧感に、ノアは言葉を飲み込む。
だが、ヴァレリウスはノアを責めるでもなく、ベッドの縁に膝をついて視線の高さを合わせた。
「お前はオメガだ」
「ッ……!」
「それを隠す必要が、この屋敷にあると思うか?」
真っすぐな問いかけだった。
銀色の瞳が、ノアの琥珀色の瞳を捉えて離さない。
「私の屋敷の使用人は全員ベータだ。それに、私のフェロモンがあれば、お前の匂いが外に漏れることはない。……他のアルファになど、嗅がせるものか」
最後の言葉は、低く唸るような独り言だった。
ノアは意味がよく理解できずに瞬きをする。
ヴァレリウスは、自分の発言の熱量に気づいたのか、コホンと咳払いをして姿勢を正した。
「とにかく、隠す必要はない。怯える必要もない。お前が望むなら、好きなだけここにいていい」
「……どうして? 俺なんか拾って、何の得が」
「得など考えていない」
即答だった。
ヴァレリウスは、不器用そうに大きな手を伸ばし、ノアの頭にポンと置いた。撫でるというよりは、ただ置いただけのような触れ方。
けれど、そこから伝わる体温は、驚くほど優しかった。
「拾ったのではない。私が、連れ帰りたかったのだ」
その言葉の意味を、ノアはまだ知らなかった。
この最強の騎士団長にとって、運命の番との出会いがどれほどの衝撃であり、彼の中の何かを劇的に変えてしまったのかを。
ただ、頭上の大きな手の重みだけが、現実の救いとしてそこにあった。
***
ヴァレリウスが部屋を出た後、ノアは再びベッドに倒れ込んだ。
心臓がうるさい。
あの銀色の瞳に見つめられたとき、背筋がゾクゾクした。それは恐怖だけではない、何か別の――もっと本能的なうずきだった。
オメガとしての本能が、彼を「安全な場所」だと認識し始めている。
それが怖かった。
信じて、裏切られるのが怖い。
スラムでの生活は、ノアに人を疑うことを骨の髄まで叩き込んだ。甘い言葉には裏がある。タダより高いものはない。
けれど。
あの不器用な手つき。
真っすぐな瞳。
ノアは布団を頭までかぶり、自身の胸元をぎゅっと掴んだ。
彼の匂いが、まだ微かに残っている気がした。
いつもなら、寒さと体の痛みで強制的に起こされる朝だ。板張りの床の硬さや、隙間風の冷たさが当たり前だった。
だが、今日は違う。
背中を包み込んでいるのは、雲のように柔らかい感触。頬に触れているのは、滑らかな絹の肌触り。
そして、部屋中を満たす温かい空気。
ノアは、恐る恐る目を開けた。
高い天井。精巧な彫刻が施された柱。窓にかかる厚手のベルベットのカーテン。
見たこともないほど豪華な部屋だった。
『ここは……天国、なのか?』
ぼんやりとした思考のまま、身体を起こそうとする。
節々の痛みは引いていたが、まだだるさが残っていた。清潔な夜着に着替えさせられていることに気づき、ノアは慌てて自分の胸元を探る。
ない。
お守りの匂い袋がない。
血の気が引いた。あれがないと、自分がオメガであることが隠せない。いや、ここまで親切にされたということは、すでに着替えの際にバレているのではないか。
心臓がドクンと跳ねる。
その時、重厚な扉がノックもなく開かれた。
「……起きたか」
現れたのは、昨夜の男だった。
雨の中の武装した姿とは違い、今は襟の詰まった白いシャツに黒いズボンというラフな格好だ。しかし、その圧倒的な体格と、内側から滲み出る威圧感は変わらない。
ヴァレリウス・グレイヴ。
ノアは反射的にシーツをかき集め、ベッドの隅へと後ずさった。
警戒心剥き出しの小動物のような反応に、ヴァレリウスは一瞬、傷ついたような顔をした。だが、すぐに無表情に戻り、お盆を持って部屋に入ってくる。
「怯える必要はない。ここは私の屋敷だ。誰もお前を害する者はいない」
言葉数は少ないが、声のトーンは努めて柔らかく抑えられているようだった。
ヴァレリウスはベッドの脇にある小さなテーブルにお盆を置いた。湯気を立てるスープと、焼きたてのパン。香ばしい匂いがノアの空っぽの胃袋を刺激する。
グウ、と情けない音が部屋に響いた。
ノアは真っ赤になって下を向く。
ふと、頭上から小さな吐息が聞こえた。見上げると、ヴァレリウスが口元を手で覆い、視線を逸らしている。
笑ったのだろうか?
いや、この厳格そうな男が笑うはずがない。ノアはそう思い直す。
「食べろ。身体を治すには栄養が必要だ」
「あ……ありがとう、ございます……」
ノアは震える手でスプーンを手に取った。
一口、スープを口に運ぶ。野菜と肉の旨みが溶け込んだ、優しい味だった。温かさが喉を通り、胃に落ちていく。
涙が出そうになった。
こんなに温かい食事を摂ったのは、いつぶりだろうか。
夢中でスプーンを動かしていると、視線を感じた。
ヴァレリウスが、少し離れた椅子に座り、じっとこちらを見ている。監視されているようで居心地が悪い。
だが、その眼差しは「監視」と呼ぶにはあまりに穏やかで、熱っぽかった。
まるで、宝物を鑑賞するかのような。あるいは、迷い込んできた珍しい鳥を観察するかのような。
「あの……」
「なんだ」
「俺の服……とか、あの袋、は」
「服は処分した。ボロ布同然だったからな。袋は……そこにある」
ヴァレリウスが顎で示したサイドテーブルの上に、見慣れた麻袋が置いてあった。洗濯され、きれいになっている。
中身は空だった。
「中に入っていたハーブは、毒消しにもなるが、常用すれば体を壊す。捨てさせてもらった」
「そ、そんな……! あれがないと、俺は……」
匂いが。オメガであることが。
ノアが青ざめるのを見て、ヴァレリウスは静かに立ち上がり、ベッドサイドへ歩み寄った。
威圧感に、ノアは言葉を飲み込む。
だが、ヴァレリウスはノアを責めるでもなく、ベッドの縁に膝をついて視線の高さを合わせた。
「お前はオメガだ」
「ッ……!」
「それを隠す必要が、この屋敷にあると思うか?」
真っすぐな問いかけだった。
銀色の瞳が、ノアの琥珀色の瞳を捉えて離さない。
「私の屋敷の使用人は全員ベータだ。それに、私のフェロモンがあれば、お前の匂いが外に漏れることはない。……他のアルファになど、嗅がせるものか」
最後の言葉は、低く唸るような独り言だった。
ノアは意味がよく理解できずに瞬きをする。
ヴァレリウスは、自分の発言の熱量に気づいたのか、コホンと咳払いをして姿勢を正した。
「とにかく、隠す必要はない。怯える必要もない。お前が望むなら、好きなだけここにいていい」
「……どうして? 俺なんか拾って、何の得が」
「得など考えていない」
即答だった。
ヴァレリウスは、不器用そうに大きな手を伸ばし、ノアの頭にポンと置いた。撫でるというよりは、ただ置いただけのような触れ方。
けれど、そこから伝わる体温は、驚くほど優しかった。
「拾ったのではない。私が、連れ帰りたかったのだ」
その言葉の意味を、ノアはまだ知らなかった。
この最強の騎士団長にとって、運命の番との出会いがどれほどの衝撃であり、彼の中の何かを劇的に変えてしまったのかを。
ただ、頭上の大きな手の重みだけが、現実の救いとしてそこにあった。
***
ヴァレリウスが部屋を出た後、ノアは再びベッドに倒れ込んだ。
心臓がうるさい。
あの銀色の瞳に見つめられたとき、背筋がゾクゾクした。それは恐怖だけではない、何か別の――もっと本能的なうずきだった。
オメガとしての本能が、彼を「安全な場所」だと認識し始めている。
それが怖かった。
信じて、裏切られるのが怖い。
スラムでの生活は、ノアに人を疑うことを骨の髄まで叩き込んだ。甘い言葉には裏がある。タダより高いものはない。
けれど。
あの不器用な手つき。
真っすぐな瞳。
ノアは布団を頭までかぶり、自身の胸元をぎゅっと掴んだ。
彼の匂いが、まだ微かに残っている気がした。
あなたにおすすめの小説
追放オメガ聖帝の幸せな結婚〜クールなスパダリ騎士に拾われて溺愛されるまで〜
あきたいぬ大好き(深凪雪花)
BL
ノルディーナ王国の聖帝サーナは、教皇のありもしない嘘のせいで聖宮から追放されてしまう。
行く当てがないサーナが国境に向かうと、そこで隣国ルミルカ王国の騎士であるムーシュと出会う。ムーシュから諸事情により偽装結婚を提案されて、サーナは期限付きの偽装結婚ならばよいと承諾し、一時的に保護してもらうことに。
異国暮らしに慣れていく中で、やがてムーシュから溺愛されるようになり……?
オメガはオメガらしく生きろなんて耐えられない
子犬一 はぁて
BL
「オメガはオメガらしく生きろ」
家を追われオメガ寮で育ったΩは、見合いの席で名家の年上αに身請けされる。
無骨だが優しく、Ωとしてではなく一人の人間として扱ってくれる彼に初めて恋をした。
しかし幸せな日々は突然終わり、二人は別れることになる。
5年後、雪の夜。彼と再会する。
「もう離さない」
再び抱きしめられたら、僕はもうこの人の傍にいることが自分の幸せなんだと気づいた。
彼は温かい手のひらを持つ人だった。
身分差×年上アルファ×溺愛再会BL短編。
「出来損ない」オメガと幼馴染の王弟アルファの、発情初夜
鳥羽ミワ
BL
ウィリアムは王族の傍系に当たる貴族の長男で、オメガ。発情期が二十歳を過ぎても来ないことから、家族からは「欠陥品」の烙印を押されている。
そんなウィリアムは、政略結婚の駒として国内の有力貴族へ嫁ぐことが決まっていた。しかしその予定が一転し、幼馴染で王弟であるセドリックとの結婚が決まる。
あれよあれよと結婚式当日になり、戸惑いながらも結婚を誓うウィリアムに、セドリックは優しいキスをして……。
そして迎えた初夜。わけもわからず悲しくなって泣くウィリアムを、セドリックはたくましい力で抱きしめる。
「お前がずっと、好きだ」
甘い言葉に、これまで熱を知らなかったウィリアムの身体が潤み、火照りはじめる。
※ムーンライトノベルズ、アルファポリス、pixivへ掲載しています
転生DKは、オーガさんのお気に入り~姉の婚約者に嫁ぐことになったんだが、こんなに溺愛されるとは聞いてない!~
トモモト ヨシユキ
BL
魔物の国との和議の証に結ばれた公爵家同士の婚約。だが、婚約することになった姉が拒んだため6男のシャル(俺)が代わりに婚約することになった。
突然、オーガ(鬼)の嫁になることがきまった俺は、ショックで前世を思い出す。
有名進学校に通うDKだった俺は、前世の知識と根性で自分の身を守るための剣と魔法の鍛練を始める。
約束の10年後。
俺は、人類最強の魔法剣士になっていた。
どこからでもかかってこいや!
と思っていたら、婚約者のオーガ公爵は、全くの塩対応で。
そんなある日、魔王国のバーティーで絡んできた魔物を俺は、こてんぱんにのしてやったんだが、それ以来、旦那様の様子が変?
急に花とか贈ってきたり、デートに誘われたり。
慣れない溺愛にこっちまで調子が狂うし!
このまま、俺は、絆されてしまうのか!?
カイタ、エブリスタにも掲載しています。
救世の神子として異世界に召喚されたと思ったら呪い解除の回復アイテムだった上にイケメン竜騎士のツガイにされてしまいました。
篠崎笙
BL
剣崎勝利の家は古武道で名を馳せていた。ある日突然異世界に召喚される。勇者としてではなく、竜騎士たちの呪いを解く道具として。竜騎士ゲオルギオスは、勝利をツガイにして、その体液で呪いを解いた。勝利と竜騎士たちは悪神討伐の旅へ向かったが……。
娼館で死んだΩ、竜帝に溺愛される未来に書き換えます
めがねあざらし
BL
前世で悲惨な最期を遂げたエリオットは、死ぬ直前に抱きしめてくれた温かい腕の感触だけを覚えて目を覚ますと、なんと過去に遡っていた。
舞台は嫁いだばかりのオルディス公爵家。前世では夫の愛人ヴェロニクに娼館へ売られ、心身ともに深く傷つけられた場所だ。しかし、今世のエリオットは前世の記憶と後悔を胸に、自ら運命を切り開くことを決意する。
夫アドリアンの愛人ヴェロニクが早速現れるが、エリオットは以前の自分とは違う毅然とした態度で接する。そして、夫に「形式上の夫婦」であることを提案。
公爵夫人という立場を利用し、復讐の準備を始める——。
--------------------
甘々<<<陰謀・ザマァ要素が強め。
完結·氷の侯爵はおっさん騎士を溺愛したい〜枯れおじの呪いを解くには恋が必要らしいです~
禅
BL
少年だったルイを庇って呪いを受けた騎士ディオン。
それから年月が経ち、ルイは青年に、ディオンはおっさん騎士になっていた。
魔法を使うと呪いが進むディオン。その呪いを解呪しようと試行錯誤なルイ。
そんなとき、ひょんなことから恋をすれば呪いが解けるのでは、となりルイがディオンに恋をさせようと様々な奇行を始める。
二人は呪いを解くことができるのか、そして二人の関係は――――――
※完結まで毎日投稿します
※小説家になろう、Nolaノベルにも投稿しています