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第8話「発情の予兆」
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街への外出から戻った夜、ノアの体調は急変した。
夕食の席で、突然めまいを覚え、カトラリーを取り落としてしまったのだ。
慌てて部屋に戻りベッドに倒れ込んだが、今度は悪寒と熱さが交互に襲ってきた。
風邪ではない。この感覚は知っている。
これまで泥とハーブで必死に抑え込んできた、オメガ特有の周期――発情期の予兆だ。
「はぁ、はぁ……っ、熱い……」
シーツを握りしめる指が震える。
以前よりも症状が重い気がした。それは、近くに強力なアルファであるヴァレリウスがいるせいかもしれない。彼の影響を受けて、ノアの体内のオメガとしての本能が、激しく呼び覚まされているのだ。
部屋の中に、甘く熟した果実のような香りが充満し始める。
ノアは必死に枕に顔を埋め、匂いを閉じ込めようとした。
こんな姿を見られたくない。
いやらしい匂いを振りまいて、発情しているなんて知られたら、軽蔑されるに違いない。
その頃、階下の執務室では、ヴァレリウスが落ち着きなく歩き回っていた。
使用人たちは何も感じていないようだが、彼の優れた嗅覚は、二階から漂ってくる甘美な香りを確実に捉えていた。
それは、理性をやすやすと溶かし、本能の獣鎖を引きちぎろうとする魅惑的な香りだった。
「クソッ……!」
ヴァレリウスは机を拳で叩いた。
仕事など手につかない。
頭の中は、今すぐノアの部屋に行き、その小さな体を抱きしめたいという欲求で埋め尽くされている。
だが、それは裏切りだ。
まだ怯えている子供のような彼に、本能のまま襲いかかるなど、騎士の風上にも置けない。
ヴァレリウスは冷水を頭からかぶりたい衝動に駆られたが、それよりも先に、ノアの苦しむような声が耳に届いてしまった気がした。
居ても立ってもいられず、彼は部屋を出た。
ノアの部屋の前まで来ると、匂いは暴力的なまでに濃くなっていた。
扉一枚隔てた向こうに、愛おしい番がいる。
ヴァレリウスは震える手でノブに触れ、一度深呼吸をしてから、極力冷静な声を装った。
「ノア、入るぞ」
返事はない。ただ、苦しげな吐息と衣擦れの音が聞こえるだけだ。
ヴァレリウスは意を決して扉を開けた。
ムッとする熱気。
ベッドの上で、ノアが小さく丸まって震えている。汗で濡れたシャツが肌に張り付き、乱れた髪の間から覗く瞳は潤んでいた。
その姿を見た瞬間、ヴァレリウスの理性は悲鳴を上げた。
美しい。
ただひたすらに、扇情的で、守ってやりたくなるほどにはかない。
「ノア……」
「こ、来ないで……ください……ッ!」
ノアがかすれた声で拒絶した。
涙を流しながら、必死に布団をかぶって身を隠そうとする。
「匂いが……変なんです……汚い、から……あっちに行って……」
「汚くなどない!」
ヴァレリウスは叫ぶように否定し、大股でベッドに近づいた。
理性よりも本能が足を動かす。
ベッドの縁に膝をつき、布団の上からノアを抱きすくめる。
「いい匂いだ。甘くて、気が狂いそうになるほどに」
「嘘だ……俺は、スラムの……ただのオメガで……」
「関係ないと言ったはずだ。お前がどこの誰であろうと、お前は私の……」
そこで言葉が詰まった。
『番』と言ってしまえば、もう戻れない。
ノアはまだ自分を受け入れる準備ができていないかもしれない。恐怖で支配してしまうことになるかもしれない。
ヴァレリウスは奥歯を噛み締め、欲望をねじ伏せるようにノアの背中を撫でた。
「薬は……ないのか。いつも飲んでいたものは」
「あ……あれは、泥と混ぜて……飲むやつで……ここには……」
「わかった。すぐに医師を呼ぶ。それまで我慢できるか?」
「うぅ……熱い……ヴァレリウス様……」
ノアがすがるようにヴァレリウスのシャツを掴んだ。
その細い指先が、ヴァレリウスの胸板に熱を伝える。
限界が近かった。ノアの、そしてヴァレリウスの理性も。
これはただの体調不良ではない。魂が半身を求めて叫んでいるのだ。
「すまない、ノア。少しだけ、我慢してくれ」
ヴァレリウスは、これ以上そばにいると自分が獣になってしまうことを悟り、断腸の思いで体を離そうとした。
しかし、ノアの手は離れなかった。
むしろ、より強くシャツを握りしめ、濡れた瞳でヴァレリウスを見上げる。
「いかないで……独りにしないで……」
その一言が、ヴァレリウスの中の最後の留め金を外しかけた。
夕食の席で、突然めまいを覚え、カトラリーを取り落としてしまったのだ。
慌てて部屋に戻りベッドに倒れ込んだが、今度は悪寒と熱さが交互に襲ってきた。
風邪ではない。この感覚は知っている。
これまで泥とハーブで必死に抑え込んできた、オメガ特有の周期――発情期の予兆だ。
「はぁ、はぁ……っ、熱い……」
シーツを握りしめる指が震える。
以前よりも症状が重い気がした。それは、近くに強力なアルファであるヴァレリウスがいるせいかもしれない。彼の影響を受けて、ノアの体内のオメガとしての本能が、激しく呼び覚まされているのだ。
部屋の中に、甘く熟した果実のような香りが充満し始める。
ノアは必死に枕に顔を埋め、匂いを閉じ込めようとした。
こんな姿を見られたくない。
いやらしい匂いを振りまいて、発情しているなんて知られたら、軽蔑されるに違いない。
その頃、階下の執務室では、ヴァレリウスが落ち着きなく歩き回っていた。
使用人たちは何も感じていないようだが、彼の優れた嗅覚は、二階から漂ってくる甘美な香りを確実に捉えていた。
それは、理性をやすやすと溶かし、本能の獣鎖を引きちぎろうとする魅惑的な香りだった。
「クソッ……!」
ヴァレリウスは机を拳で叩いた。
仕事など手につかない。
頭の中は、今すぐノアの部屋に行き、その小さな体を抱きしめたいという欲求で埋め尽くされている。
だが、それは裏切りだ。
まだ怯えている子供のような彼に、本能のまま襲いかかるなど、騎士の風上にも置けない。
ヴァレリウスは冷水を頭からかぶりたい衝動に駆られたが、それよりも先に、ノアの苦しむような声が耳に届いてしまった気がした。
居ても立ってもいられず、彼は部屋を出た。
ノアの部屋の前まで来ると、匂いは暴力的なまでに濃くなっていた。
扉一枚隔てた向こうに、愛おしい番がいる。
ヴァレリウスは震える手でノブに触れ、一度深呼吸をしてから、極力冷静な声を装った。
「ノア、入るぞ」
返事はない。ただ、苦しげな吐息と衣擦れの音が聞こえるだけだ。
ヴァレリウスは意を決して扉を開けた。
ムッとする熱気。
ベッドの上で、ノアが小さく丸まって震えている。汗で濡れたシャツが肌に張り付き、乱れた髪の間から覗く瞳は潤んでいた。
その姿を見た瞬間、ヴァレリウスの理性は悲鳴を上げた。
美しい。
ただひたすらに、扇情的で、守ってやりたくなるほどにはかない。
「ノア……」
「こ、来ないで……ください……ッ!」
ノアがかすれた声で拒絶した。
涙を流しながら、必死に布団をかぶって身を隠そうとする。
「匂いが……変なんです……汚い、から……あっちに行って……」
「汚くなどない!」
ヴァレリウスは叫ぶように否定し、大股でベッドに近づいた。
理性よりも本能が足を動かす。
ベッドの縁に膝をつき、布団の上からノアを抱きすくめる。
「いい匂いだ。甘くて、気が狂いそうになるほどに」
「嘘だ……俺は、スラムの……ただのオメガで……」
「関係ないと言ったはずだ。お前がどこの誰であろうと、お前は私の……」
そこで言葉が詰まった。
『番』と言ってしまえば、もう戻れない。
ノアはまだ自分を受け入れる準備ができていないかもしれない。恐怖で支配してしまうことになるかもしれない。
ヴァレリウスは奥歯を噛み締め、欲望をねじ伏せるようにノアの背中を撫でた。
「薬は……ないのか。いつも飲んでいたものは」
「あ……あれは、泥と混ぜて……飲むやつで……ここには……」
「わかった。すぐに医師を呼ぶ。それまで我慢できるか?」
「うぅ……熱い……ヴァレリウス様……」
ノアがすがるようにヴァレリウスのシャツを掴んだ。
その細い指先が、ヴァレリウスの胸板に熱を伝える。
限界が近かった。ノアの、そしてヴァレリウスの理性も。
これはただの体調不良ではない。魂が半身を求めて叫んでいるのだ。
「すまない、ノア。少しだけ、我慢してくれ」
ヴァレリウスは、これ以上そばにいると自分が獣になってしまうことを悟り、断腸の思いで体を離そうとした。
しかし、ノアの手は離れなかった。
むしろ、より強くシャツを握りしめ、濡れた瞳でヴァレリウスを見上げる。
「いかないで……独りにしないで……」
その一言が、ヴァレリウスの中の最後の留め金を外しかけた。
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