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第3話「見えない壁」
島での生活は、穏やかで退屈で、そして窒息しそうだった。
リエンは日中、書斎に籠もって何かの仕事をしていることが多い。その間、私は屋敷の中や庭園を自由に歩き回ることを許されていた。
ただし「柵の向こうへは行かないこと」という言いつけを守る限りにおいて。
朝の光が降り注ぐ庭園を、私は一人で歩いていた。
色鮮やかな花々は見たこともない種類ばかりだ。青く光るバラや、歌うように葉を揺らす低木。それらはみな、豊潤な香りを放っている。
セバスの話では、この島自体が巨大な魔力の源泉の上にあり、植物の成長が異常に早いのだという。
庭の端まで歩くと、白い石造りの柵に突き当たる。
その先は断崖絶壁だ。
柵に手をかけ、海を見下ろす。昨晩見た怪物の姿はない。海面は穏やかで、太陽の光を反射してきらきらと輝いている。
「泳いで渡れる距離じゃないよな……」
独り言が口をついて出る。
水平線に目を凝らすが、やはり陸地は見えない。方角すらわからない。
空を見上げると、鳥たちが自由に飛び回っているのが見えた。
羨ましい、と思った。
彼らには翼がある。どこへでも行ける自由がある。
私はどうだ。翼をもがれた鳥のように、この美しい鳥かごの中で餌を与えられ、愛でられているだけだ。
ふと、視界の端に違和感を覚えた。
庭の隅、木立の影に、古びた石碑のようなものが建っている。
近づいてみると、それは腰ほどの高さの石柱だった。表面には風化して読み取れない文字が刻まれている。
指でなぞってみると、微かに温かい。
『これ、なんだろう』
その時、頭の中に直接響くような、不思議な音が聞こえた。
鈴の音のような、誰かの歌声のような。
――待っていた。
え?
振り返るが、誰もいない。
――ずっと、あなたを待っていた。
声は石碑から聞こえてくるようだった。いや、もっと奥深く、地面の下から響いているような感覚。
突然、めまいが襲った。視界が白く明滅し、立っていられなくなる。
膝をつき、荒い息を吐く。
体の奥底から、熱い何かが込み上げてくる。昨晩、リエンに触れられたときと同じ、いや、それ以上に激しい熱。
「う、あ……」
視界の端で、石碑の文字がぼんやりと青く発光したのが見えた。
次の瞬間、ふわりと体が浮き上がる感覚があった。
「アキラ!」
焦燥に満ちた声と共に、誰かに強く抱き留められる。
リエンだ。
彼は血相を変えて私を抱きしめていた。いつもの余裕のある態度はどこへやら、その顔は蒼白だ。
「何をした? 何に触れたんだ?」
「な、にも……ただ、この石を……」
リエンは石碑を睨みつけると、低い声で何か呪文のような言葉をつぶやいた。すると、石碑の光は瞬時に消え失せた。
彼は私を抱き上げたまま、足早に屋敷へと戻っていく。
「リエンさん、降ろして……大丈夫だから」
「大丈夫なものか! 君の体から、信じられないほどのフェロモンが溢れ出ている」
言われてみれば、全身が火照って仕方がない。息も苦しい。
リエンの瞳孔が開いているのがわかった。彼の呼吸も荒い。
「君は……私の自制心をどこまで試せば気が済むんだ」
彼の声は苦しげで、怒っているようにも、耐えているようにも聞こえた。
寝室に連れ戻され、ベッドに横たえられる。
リエンは私の額に手を当て、複雑な表情を浮かべた。
「発情期《ヒート》にはまだ早いはずだ。やはり、あの石碑が……古代の魔力が君の回路を刺激したのか」
ヒート。その単語を聞いただけで、本能がびくりと反応する。
オメガがアルファを求め、子を成すために体が作り変えられる期間。知識としてなんとなく理解してはいたが、まさか自分がその渦中に放り込まれるとは。
「熱い……苦しいよ、リエン」
理性が溶けていく。目の前の男に触れたい、抱かれたいという欲求が、津波のように押し寄せてくる。
無意識のうちに手を伸ばし、リエンのシャツの袖を掴んでいた。
リエンは私の手を握り返し、その指先に口づけをした。
「我慢しなさい。今の君は正常じゃない」
「でも……」
「ダメだ。こんなイレギュラーな状態で、君と番《つが》うわけにはいかない」
彼は苦渋の決断をするように、私から距離を取った。
その拒絶が、何よりも辛かった。涙が溢れてくる。
どうして? 私はこんなに求めているのに。
私の涙を見て、リエンは今にも泣き出しそうな顔をした。
「泣かないでくれ、アキラ。愛しているからこそ、今は手を出せないんだ」
彼はサイドテーブルから小瓶を取り出し、中身を私の口に含ませた。
苦い薬の味が広がる。
「鎮静剤だ。少し眠れば落ち着く」
リエンは私の髪を優しく撫で続けた。子供を寝かしつけるように、あるいは壊れ物を扱うように慎重に。
薬が効いてきたのか、意識が急速に遠のいていく。
薄れゆく意識の中で、リエンがつぶやくのが聞こえた。
「この島の呪いが、君を蝕もうとしている……決して渡さない。君は私のものだ」
呪いとは何なのか。
聞きたかったが、言葉になる前に私は深い眠りに落ちてしまった。
見えない壁は、海だけではない。
この島には、もっと根深い何かが隠されている。
その確信だけが、夢の中にまでついて回った。
リエンは日中、書斎に籠もって何かの仕事をしていることが多い。その間、私は屋敷の中や庭園を自由に歩き回ることを許されていた。
ただし「柵の向こうへは行かないこと」という言いつけを守る限りにおいて。
朝の光が降り注ぐ庭園を、私は一人で歩いていた。
色鮮やかな花々は見たこともない種類ばかりだ。青く光るバラや、歌うように葉を揺らす低木。それらはみな、豊潤な香りを放っている。
セバスの話では、この島自体が巨大な魔力の源泉の上にあり、植物の成長が異常に早いのだという。
庭の端まで歩くと、白い石造りの柵に突き当たる。
その先は断崖絶壁だ。
柵に手をかけ、海を見下ろす。昨晩見た怪物の姿はない。海面は穏やかで、太陽の光を反射してきらきらと輝いている。
「泳いで渡れる距離じゃないよな……」
独り言が口をついて出る。
水平線に目を凝らすが、やはり陸地は見えない。方角すらわからない。
空を見上げると、鳥たちが自由に飛び回っているのが見えた。
羨ましい、と思った。
彼らには翼がある。どこへでも行ける自由がある。
私はどうだ。翼をもがれた鳥のように、この美しい鳥かごの中で餌を与えられ、愛でられているだけだ。
ふと、視界の端に違和感を覚えた。
庭の隅、木立の影に、古びた石碑のようなものが建っている。
近づいてみると、それは腰ほどの高さの石柱だった。表面には風化して読み取れない文字が刻まれている。
指でなぞってみると、微かに温かい。
『これ、なんだろう』
その時、頭の中に直接響くような、不思議な音が聞こえた。
鈴の音のような、誰かの歌声のような。
――待っていた。
え?
振り返るが、誰もいない。
――ずっと、あなたを待っていた。
声は石碑から聞こえてくるようだった。いや、もっと奥深く、地面の下から響いているような感覚。
突然、めまいが襲った。視界が白く明滅し、立っていられなくなる。
膝をつき、荒い息を吐く。
体の奥底から、熱い何かが込み上げてくる。昨晩、リエンに触れられたときと同じ、いや、それ以上に激しい熱。
「う、あ……」
視界の端で、石碑の文字がぼんやりと青く発光したのが見えた。
次の瞬間、ふわりと体が浮き上がる感覚があった。
「アキラ!」
焦燥に満ちた声と共に、誰かに強く抱き留められる。
リエンだ。
彼は血相を変えて私を抱きしめていた。いつもの余裕のある態度はどこへやら、その顔は蒼白だ。
「何をした? 何に触れたんだ?」
「な、にも……ただ、この石を……」
リエンは石碑を睨みつけると、低い声で何か呪文のような言葉をつぶやいた。すると、石碑の光は瞬時に消え失せた。
彼は私を抱き上げたまま、足早に屋敷へと戻っていく。
「リエンさん、降ろして……大丈夫だから」
「大丈夫なものか! 君の体から、信じられないほどのフェロモンが溢れ出ている」
言われてみれば、全身が火照って仕方がない。息も苦しい。
リエンの瞳孔が開いているのがわかった。彼の呼吸も荒い。
「君は……私の自制心をどこまで試せば気が済むんだ」
彼の声は苦しげで、怒っているようにも、耐えているようにも聞こえた。
寝室に連れ戻され、ベッドに横たえられる。
リエンは私の額に手を当て、複雑な表情を浮かべた。
「発情期《ヒート》にはまだ早いはずだ。やはり、あの石碑が……古代の魔力が君の回路を刺激したのか」
ヒート。その単語を聞いただけで、本能がびくりと反応する。
オメガがアルファを求め、子を成すために体が作り変えられる期間。知識としてなんとなく理解してはいたが、まさか自分がその渦中に放り込まれるとは。
「熱い……苦しいよ、リエン」
理性が溶けていく。目の前の男に触れたい、抱かれたいという欲求が、津波のように押し寄せてくる。
無意識のうちに手を伸ばし、リエンのシャツの袖を掴んでいた。
リエンは私の手を握り返し、その指先に口づけをした。
「我慢しなさい。今の君は正常じゃない」
「でも……」
「ダメだ。こんなイレギュラーな状態で、君と番《つが》うわけにはいかない」
彼は苦渋の決断をするように、私から距離を取った。
その拒絶が、何よりも辛かった。涙が溢れてくる。
どうして? 私はこんなに求めているのに。
私の涙を見て、リエンは今にも泣き出しそうな顔をした。
「泣かないでくれ、アキラ。愛しているからこそ、今は手を出せないんだ」
彼はサイドテーブルから小瓶を取り出し、中身を私の口に含ませた。
苦い薬の味が広がる。
「鎮静剤だ。少し眠れば落ち着く」
リエンは私の髪を優しく撫で続けた。子供を寝かしつけるように、あるいは壊れ物を扱うように慎重に。
薬が効いてきたのか、意識が急速に遠のいていく。
薄れゆく意識の中で、リエンがつぶやくのが聞こえた。
「この島の呪いが、君を蝕もうとしている……決して渡さない。君は私のものだ」
呪いとは何なのか。
聞きたかったが、言葉になる前に私は深い眠りに落ちてしまった。
見えない壁は、海だけではない。
この島には、もっと根深い何かが隠されている。
その確信だけが、夢の中にまでついて回った。
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