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第1話「極寒の地への追放と、凍える宝石」
ガタゴトと、車輪が凍った地面を噛む音が響き続けている。
窓の外を流れる景色は、いつからか見渡す限りの白銀に変わっていた。王都を出発してから、どれほどの時間が経っただろうか。吐く息が白く染まり、指先の感覚が失われていく中で、私はぼんやりとこれまでの出来事を反芻していた。
私の名前はジュリアン。この国で五指に入ると言われる名門、エルロッド公爵家の長男として生を受けた。
そして数日前までは、この国の王太子の婚約者という立場にあった男だ。
けれど今、私は罪人として護送馬車に揺られている。
罪状は、義理の弟であるミハイルへの陰湿な嫌がらせ、そして王家を欺こうとした不貞の疑い。
もちろん、すべては事実無根だった。ミハイルが階段から落ちたのも、彼の大切にしていた花瓶が割れたのも、私がやったことではない。けれど、愛らしい涙を流して被害を訴えるオメガの義弟と、毅然とした態度で無実を主張する可愛げのない私とでは、周囲がどちらの味方をするかは明白だった。
特に、私の元婚約者である王太子は、ミハイルに夢中だった。
「ジュリアン、君のような心の醜いオメガが、将来の国母になれるはずがない。君との婚約は破棄し、辺境の守備隊長であるグリーグ将軍のもとへ嫁がせる。それが慈悲だと思え」
王宮の広間で言い渡されたその言葉は、慈悲などではなく、実質的な死刑宣告に等しかった。
北の果てにある要塞都市ノースガルド。
そこは万年雪に閉ざされ、獰猛な魔獣が跋扈する過酷な地だ。さらに、そこを治めるグリーグ将軍は、獣人の血を濃く引くアルファであり、「北の食人狼」とあだ名されるほどの恐ろしい人物だと聞いている。気性の荒い獣人たちの中に、ひ弱な貴族のオメガが放り込まれればどうなるか。
きっと、数日で心も体も壊れてしまうに違いない。
王太子も、父も、義母も、それを承知で私を送り出したのだ。
『……寒さが、骨までしみるな』
私は薄い毛布をかき集め、小さく身を縮めた。
この寒さと絶望が引き金になったのか、王都を出てからというもの、私の頭の中には不思議な記憶が蘇っていた。
それは、ここではない別の世界、別の時代の記憶。
そこでの私は、ごく平凡な一般人として生き、働き、そして寿命を迎えていた。魔法などない世界だったが、文明は発達し、冬でも暖かな部屋で過ごすことができた。
その記憶が、「前世」のものだと気付いたとき、不思議と恐怖は薄れ、代わりに奇妙な落ち着きが戻ってきた。
前世の私は、物語を読むのが好きだった。そして、どんなに辛い状況でも、工夫して生活を豊かにすることに喜びを見出す人間だった。
『そうだ。ここで死ぬわけにはいかない』
私は、かじかんだ両手をこすり合わせた。
無実の罪で追放されたことは悔しい。けれど、あの窒息しそうな公爵家での生活や、私の顔色ばかり窺う王太子との関係から解放されたのだと思えば、これはチャンスかもしれない。
辺境だろうが、野蛮な将軍だろうが、関係ない。
私は私の力で、生き抜いてみせる。
そう決意を新たにしたとき、馬車が大きく傾き、御者の怒鳴り声が聞こえた。
「おい! 到着だぞ! さっさと降りろ!」
乱暴に扉が開け放たれる。
猛烈な吹雪が車内へとなだれ込み、私の頬を容赦なく叩いた。
「つっ……」
あまりの冷たさに、思わず声を漏らす。
従うようにして馬車を降りると、そこは高くそびえ立つ石造りの城壁の前だった。鉛色の空の下、雪が荒れ狂っている。
私の荷物は、足元に放り投げられた古びたトランクが一つだけ。中には着替えが数着と、母の形見のロケットが入っているだけだ。
「じゃあな、元公爵令息様。魔獣に食われないように祈ってるぜ」
御者は下品な笑い声を上げると、私を置き去りにして、逃げるように馬車を走らせていった。
取り残された私は、呆然と立ち尽くす。
視界が白く染まるほどの吹雪だ。公爵家で着ていた上質な、しかし防寒性には欠けるコートでは、この寒さを防ぐことなど到底できない。
足の感覚が、急速になくなっていく。
「……開門を、お願いします……」
震える唇で、城門に向かって声を上げる。しかし、風の音にかき消されて届かない。
扉は固く閉ざされたままだ。
『まさか、このまま門の前で凍死するなんて……そんなの、あんまりだ』
意識が遠のきそうになる。
膝から力が抜け、雪の上に崩れ落ちそうになった、その時だった。
ズズズズズ、と重厚な音が響き、巨大な城門がゆっくりと開き始めたのは。
開いた隙間から、黄色い明かりが漏れ出す。
そして、その光を背負うようにして、一人の男が姿を現した。
巨大だ、というのが第一印象だった。
身の丈は二メートルを優に超えているだろうか。分厚い毛皮の外套をまとっているが、その下の筋肉の鎧が想像できるほどの厚みがある。
風に乱れる黒髪。そして、吹雪の中でもはっきりと輝く、黄金色の瞳。
男は、雪の中にうずくまる私を見下ろした。
その左目には、眉から頬にかけて走る古傷があった。
――グリーグ・ヴォルファート将軍。
間違いなく、彼だ。
噂通りの、魔王のような風貌。射すくめるような鋭い視線に、心臓が早鐘を打つ。
殺されるかもしれない。本能がそう警鐘を鳴らす。
けれど、男は何も言わず、巨大な手袋をはめた手を私の方へ伸ばしてきた。
私は恐怖で身をすくませ、目を閉じた。
しかし、予想していた痛みは訪れなかった。
代わりに感じたのは、ふわりと体が持ち上がる浮遊感。
「……軽いな」
頭上から降ってきたのは、地の底から響くような、低く、しかし驚くほど穏やかな声だった。
恐る恐る目を開けると、私は男の太い腕の中に抱きかかえられていた。いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。
「え……あの……?」
「喋らなくていい。舌を噛むぞ」
男はそれだけ言うと、私のトランクを軽々と片手で拾い上げ、踵を返して城門の中へと歩き出した。
彼から漂ってくるのは、冷たい雪の匂いと、微かな、しかし力強い森の香り。それは不思議と心地よく、私の強張った神経をなだめてくれるようだった。
圧倒的な体格差。抗うことのできない力。
アルファとしての格の違いを見せつけられながら、私は彼の体温に触れ、不覚にも安心感を覚えてしまっていた。
これが、私と彼の出会いだった。
窓の外を流れる景色は、いつからか見渡す限りの白銀に変わっていた。王都を出発してから、どれほどの時間が経っただろうか。吐く息が白く染まり、指先の感覚が失われていく中で、私はぼんやりとこれまでの出来事を反芻していた。
私の名前はジュリアン。この国で五指に入ると言われる名門、エルロッド公爵家の長男として生を受けた。
そして数日前までは、この国の王太子の婚約者という立場にあった男だ。
けれど今、私は罪人として護送馬車に揺られている。
罪状は、義理の弟であるミハイルへの陰湿な嫌がらせ、そして王家を欺こうとした不貞の疑い。
もちろん、すべては事実無根だった。ミハイルが階段から落ちたのも、彼の大切にしていた花瓶が割れたのも、私がやったことではない。けれど、愛らしい涙を流して被害を訴えるオメガの義弟と、毅然とした態度で無実を主張する可愛げのない私とでは、周囲がどちらの味方をするかは明白だった。
特に、私の元婚約者である王太子は、ミハイルに夢中だった。
「ジュリアン、君のような心の醜いオメガが、将来の国母になれるはずがない。君との婚約は破棄し、辺境の守備隊長であるグリーグ将軍のもとへ嫁がせる。それが慈悲だと思え」
王宮の広間で言い渡されたその言葉は、慈悲などではなく、実質的な死刑宣告に等しかった。
北の果てにある要塞都市ノースガルド。
そこは万年雪に閉ざされ、獰猛な魔獣が跋扈する過酷な地だ。さらに、そこを治めるグリーグ将軍は、獣人の血を濃く引くアルファであり、「北の食人狼」とあだ名されるほどの恐ろしい人物だと聞いている。気性の荒い獣人たちの中に、ひ弱な貴族のオメガが放り込まれればどうなるか。
きっと、数日で心も体も壊れてしまうに違いない。
王太子も、父も、義母も、それを承知で私を送り出したのだ。
『……寒さが、骨までしみるな』
私は薄い毛布をかき集め、小さく身を縮めた。
この寒さと絶望が引き金になったのか、王都を出てからというもの、私の頭の中には不思議な記憶が蘇っていた。
それは、ここではない別の世界、別の時代の記憶。
そこでの私は、ごく平凡な一般人として生き、働き、そして寿命を迎えていた。魔法などない世界だったが、文明は発達し、冬でも暖かな部屋で過ごすことができた。
その記憶が、「前世」のものだと気付いたとき、不思議と恐怖は薄れ、代わりに奇妙な落ち着きが戻ってきた。
前世の私は、物語を読むのが好きだった。そして、どんなに辛い状況でも、工夫して生活を豊かにすることに喜びを見出す人間だった。
『そうだ。ここで死ぬわけにはいかない』
私は、かじかんだ両手をこすり合わせた。
無実の罪で追放されたことは悔しい。けれど、あの窒息しそうな公爵家での生活や、私の顔色ばかり窺う王太子との関係から解放されたのだと思えば、これはチャンスかもしれない。
辺境だろうが、野蛮な将軍だろうが、関係ない。
私は私の力で、生き抜いてみせる。
そう決意を新たにしたとき、馬車が大きく傾き、御者の怒鳴り声が聞こえた。
「おい! 到着だぞ! さっさと降りろ!」
乱暴に扉が開け放たれる。
猛烈な吹雪が車内へとなだれ込み、私の頬を容赦なく叩いた。
「つっ……」
あまりの冷たさに、思わず声を漏らす。
従うようにして馬車を降りると、そこは高くそびえ立つ石造りの城壁の前だった。鉛色の空の下、雪が荒れ狂っている。
私の荷物は、足元に放り投げられた古びたトランクが一つだけ。中には着替えが数着と、母の形見のロケットが入っているだけだ。
「じゃあな、元公爵令息様。魔獣に食われないように祈ってるぜ」
御者は下品な笑い声を上げると、私を置き去りにして、逃げるように馬車を走らせていった。
取り残された私は、呆然と立ち尽くす。
視界が白く染まるほどの吹雪だ。公爵家で着ていた上質な、しかし防寒性には欠けるコートでは、この寒さを防ぐことなど到底できない。
足の感覚が、急速になくなっていく。
「……開門を、お願いします……」
震える唇で、城門に向かって声を上げる。しかし、風の音にかき消されて届かない。
扉は固く閉ざされたままだ。
『まさか、このまま門の前で凍死するなんて……そんなの、あんまりだ』
意識が遠のきそうになる。
膝から力が抜け、雪の上に崩れ落ちそうになった、その時だった。
ズズズズズ、と重厚な音が響き、巨大な城門がゆっくりと開き始めたのは。
開いた隙間から、黄色い明かりが漏れ出す。
そして、その光を背負うようにして、一人の男が姿を現した。
巨大だ、というのが第一印象だった。
身の丈は二メートルを優に超えているだろうか。分厚い毛皮の外套をまとっているが、その下の筋肉の鎧が想像できるほどの厚みがある。
風に乱れる黒髪。そして、吹雪の中でもはっきりと輝く、黄金色の瞳。
男は、雪の中にうずくまる私を見下ろした。
その左目には、眉から頬にかけて走る古傷があった。
――グリーグ・ヴォルファート将軍。
間違いなく、彼だ。
噂通りの、魔王のような風貌。射すくめるような鋭い視線に、心臓が早鐘を打つ。
殺されるかもしれない。本能がそう警鐘を鳴らす。
けれど、男は何も言わず、巨大な手袋をはめた手を私の方へ伸ばしてきた。
私は恐怖で身をすくませ、目を閉じた。
しかし、予想していた痛みは訪れなかった。
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頭上から降ってきたのは、地の底から響くような、低く、しかし驚くほど穏やかな声だった。
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「え……あの……?」
「喋らなくていい。舌を噛むぞ」
男はそれだけ言うと、私のトランクを軽々と片手で拾い上げ、踵を返して城門の中へと歩き出した。
彼から漂ってくるのは、冷たい雪の匂いと、微かな、しかし力強い森の香り。それは不思議と心地よく、私の強張った神経をなだめてくれるようだった。
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