抑制剤の効かない薬師オメガは森に隠れる。最強騎士団長に見つかり、聖なるフェロモンで理性を溶かされ、国を捨てた逃避行の果てに番となる

水凪しおん

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第5話「悪意の引力」

 翌日、旅は順調に進んでいるように見えた。

 しかし、エリアルの特殊な体質は、森の外の世界でも容赦なく脅威を引き寄せた。

 街道を歩き始めて数時間。

 背後から、蹄の音と、下卑た笑い声が近づいてきた。

「おいおい、なんだか上等な匂いがすると思ったらよォ」

 振り返ると、薄汚れた革鎧を着た男たちが五人、馬に乗って現れた。野盗崩れの傭兵といった風情だ。

 彼らの目は一様に赤く充血し、口元はだらしなく歪んでいる。

 明らかに、エリアルのフェロモンに当てられていた。

「すげえ美人じゃねえか。しかもこの匂い……たまんねえな」

 先頭の男が舌なめずりをする。彼らは全員がアルファか、それに準ずる強い衝動を持つベータだった。

 理性のタガが外れかけた彼らにとって、エリアルは歩く極上の果実そのものだ。

 エリアルは恐怖で足をすくませ、ジークフリートの背中に隠れるように身を寄せた。

「下がっていろ」

 ジークフリートの声は、昨夜の苦しげなものとは全く違っていた。

 氷点下の冷たさ。絶対零度の殺気。

 彼はゆっくりと、腰の大剣を引き抜いた。

「俺の連れに、何か用か?」

「あァ? 邪魔すんなよ優男。そのオメガを置いて消えな。そうすりゃ命だけは助けて……」

 男の言葉は、最後まで続かなかった。

 銀色の閃光が走ったかと思うと、先頭の男が乗っていた馬の首が、音もなく落ちたからだ。

「ひっ!?」

 馬が崩れ落ち、男が地面に放り出される。

 ジークフリートは、いつの間にか男の目の前に立っていた。

 速すぎる。誰も動きを目で追うことすらできなかった。

「俺の命を助ける? 誰が誰を、だと?」

 ジークフリートは冷酷な瞳で男を見下ろした。

 そこには、慈悲も、騎士道精神による警告もない。あるのは、自分の所有物に手を出そうとした害虫を駆除する、無慈悲な執行者の顔だけだった。

「こ、こいつヤベェぞ! やっちまえ!」

 残りの四人が慌てて武器を抜く。

 だが、それは無謀な自殺行為でしかなかった。

 ジークフリートの大剣が唸りを上げる。

 一閃。

 二人の男が、武器ごと吹き飛ばされた。

 ただの力任せではない。恐ろしいほどに洗練された、無駄のない剣技。

 返り血さえも避ける優雅な動きで、彼は次々と敵を無力化していく。

「化け物か……!」

 最後の男が恐怖に顔を歪め、逃げ出そうと背を向けた。

 ジークフリートは追わなかった。ただ、足元に落ちていた手頃な石を拾い上げ、指で弾くように投げた。

 ヒュンッ!

 空気を裂く音がして、石は逃げる男の後頭部に正確に命中した。男は糸が切れた人形のように倒れ伏す。

 静寂が戻った。

 あたりには、うめき声と血の匂いが漂っている。

 ジークフリートは剣についた血を振って落とし、鞘に納めた。そして、ゆっくりとエリアルの方へ振り返った。

 その顔には、まだ残虐な殺気が張り付いていた。

 エリアルは思わず息を飲んだ。

 怖い。そう思った。

 けれど、ジークフリートはエリアルと目が合った瞬間、その表情を一変させた。

 殺気は霧散し、代わりに痛ましいほどの焦燥と不安が浮かぶ。

 彼は急いで駆け寄り、しかし触れる直前で手を止めた。

「……怪我はないか?」

 血に濡れた自分の手を見つめ、汚すことを恐れるように引っ込める。

「血の匂いをさせてすまない。怖かっただろう」

 彼は、自分がエリアルを怖がらせたのではないかと怯えていた。

 エリアルはその不器用な優しさに、胸が締め付けられた。

 彼は自分のために、鬼になったのだ。その手を血で汚すことを厭わず、全ての悪意から守ってくれた。

 エリアルは一歩踏み出し、ジークフリートの、血で汚れていない方の腕をそっと掴んだ。

「……ありがとう、ございます」

 その声は震えていたが、感謝の気持ちは本物だった。

「ジークフリート様がいてくれて、良かった」

 その言葉を聞いた瞬間、ジークフリートの瞳が大きく揺らいだ。

 張り詰めていた糸が緩んだように、彼は小さく息を吐き出した。

「……そう言ってもらえるなら、俺の手もまだ救われる」

 彼は苦笑し、そっとエリアルの手に自分の手を重ねようとして、やはり止めた。

 代わりに、その場に片膝をつき、視線の高さを合わせる。

「行くぞ。この場所は血の匂いが強すぎる」

「はい」

 二人は再び歩き出した。

 だが、この事件は改めて二人に現実を突きつけた。

 エリアルの香りは、世界中の悪意を引き寄せる磁石だということ。

 そして、それを守るジークフリートもまた、血塗られた道を歩まねばならないということ。

 平和な旅ではない。これは、世界の欲望そのものとの戦いなのだ。

 ジークフリートの背中は、前よりも少し大きく、そして孤独に見えた。

 エリアルはその背中を見つめながら、心の中で誓った。

 ただ守られるだけではいけない。自分も強くならなければ。

 たとえ自分に剣の才能がなくとも、この呪われた体質を使ってでも、彼を癒やし、支えることができないだろうか。

 薬師としての知識と、忌まわしいはずのフェロモン。

 その二つが、いつか彼を救う鍵になるかもしれないと、エリアルは漠然とした予感を感じていた。

 旅路はまだ始まったばかり。王都への道は、遠く険しい。

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