2 / 16
第1話「叶わぬ星と厨房の片隅」
しおりを挟む
厨房の窓から見える夜空は、残酷なほどに澄み渡っていた。
王城の裏手、残り物の野菜や肉の切れ端が煮込まれるスープの香りが漂うこの場所が、俺、ルエンの居場所だ。かじかんだ指先を白い息で温めながら、俺は遠くに見える大理石のバルコニーを見上げた。
煌びやかなシャンデリアの光が漏れるその場所では、今夜も夜会が開かれている。
『アルファとオメガ、選ばれた者たちだけの宴か』
胸の奥で、じわりと熱い泥のような感情が渦巻く。それを押し殺すように、俺は手元のジャガイモを握りしめた。
俺はベータだ。この世界において、アルファのように優れた身体能力やカリスマ性を持つわけでもなく、オメガのように愛され、庇護される運命を持つわけでもない。ただの、数合わせの凡人。
けれど、俺が恋をしてしまった相手は、あの光の中にいる。
近衛騎士団長、クラウス様。
銀の髪に氷河のような瞳を持つ、至高のアルファ。
彼が厨房へ視察に訪れたあの日から、俺の心はずっと彼に捕らわれている。だが、彼が俺のような一介の料理人、それも特徴のないベータを気にかけるはずがない。彼にふさわしいのは、甘いフェロモンを漂わせる美しいオメガだけなのだ。
「はあ……また焦がすところだった」
ため息をつき、俺は寸胴鍋の中身を木べらでかき混ぜた。
シチューの湯気が顔にかかる。視界が白く濁るのと同時に、厨房の扉が勢いよく開いた。冷たい夜風とともに飛び込んできたのは、幼馴染のコメットだ。
「ルエン! 聞いたかよ、すっげぇ噂!」
コメットはオメガ特有の愛くるしい顔立ちを紅潮させ、俺の背中をバシバシと叩く。
「痛いって。なんだよ、また新しい媚薬の話か?」
「ちげーよ! もっとすげぇの! 『運命転換の恵方巻』の話だよ!」
聞き慣れない単語に、俺は眉間にしわを寄せた。恵方巻? 東方の島国に伝わる、太巻き寿司のことだろうか。以前、文献で読んだことがある。節分という行事で、吉方を向いて無言で食べると願いが叶うという縁起物だ。
「それがどうかしたのか?」
「ただの料理じゃねぇんだって。なんでも、北の果てにある『静寂の社』に奉納されてる伝説の恵方巻を食べれば……ベータでもオメガになれるらしいんだ!」
心臓が、早鐘を打った。
手から木べらが滑り落ち、鍋の縁に当たって乾いた音を立てる。
「……なんだって?」
「だから! それを一本まるごと、誰とも口を利かずに完食すれば、体質が作り変えられるんだってさ。嘘か本当か知らないけど、今、城の下働き連中の間で持ちきりだぜ」
コメットの声が遠のいていく。
ベータが、オメガになれる。
もしそれが真実なら。俺がオメガになれば、クラウス様の隣に立つ資格を得られるのだろうか。あの「運命の番」という、絶対的な絆を彼と結ぶことができるのだろうか。
『馬鹿げている』
理性がそうつぶやく。そんな都合のいい魔法があるわけがない。
だが、俺の魂はすでに、その可能性という名の甘い蜜に吸い寄せられていた。
鍋の中で煮えるシチューのように、俺の中で何かが決壊する音が聞こえた。
翌朝、俺は料理長に休暇届を出した。
理由は「食材探求の旅」とだけ記して。
リュックサックには、最低限の着替えと、野営用の調理器具、そしてなけなしの貯金を詰め込んだ。
城門を出る時、振り返ると、朝日に照らされた近衛騎士団の塔が見えた。そこでクラウス様が剣を振るっている姿を想像し、俺は胸を強く押さえる。
『待っていてください、クラウス様。俺は必ず、あなたにふさわしい存在になって戻ってきます』
それは、あまりにも無謀で、滑稽で、けれど純粋な愛の暴走の始まりだった。
俺が目指すのは北の果て。伝説の食材にして運命の変革装置、「恵方巻」が眠る場所だ。
ベータの料理人が挑むには過酷すぎる旅路が、今、幕を開ける。
王城の裏手、残り物の野菜や肉の切れ端が煮込まれるスープの香りが漂うこの場所が、俺、ルエンの居場所だ。かじかんだ指先を白い息で温めながら、俺は遠くに見える大理石のバルコニーを見上げた。
煌びやかなシャンデリアの光が漏れるその場所では、今夜も夜会が開かれている。
『アルファとオメガ、選ばれた者たちだけの宴か』
胸の奥で、じわりと熱い泥のような感情が渦巻く。それを押し殺すように、俺は手元のジャガイモを握りしめた。
俺はベータだ。この世界において、アルファのように優れた身体能力やカリスマ性を持つわけでもなく、オメガのように愛され、庇護される運命を持つわけでもない。ただの、数合わせの凡人。
けれど、俺が恋をしてしまった相手は、あの光の中にいる。
近衛騎士団長、クラウス様。
銀の髪に氷河のような瞳を持つ、至高のアルファ。
彼が厨房へ視察に訪れたあの日から、俺の心はずっと彼に捕らわれている。だが、彼が俺のような一介の料理人、それも特徴のないベータを気にかけるはずがない。彼にふさわしいのは、甘いフェロモンを漂わせる美しいオメガだけなのだ。
「はあ……また焦がすところだった」
ため息をつき、俺は寸胴鍋の中身を木べらでかき混ぜた。
シチューの湯気が顔にかかる。視界が白く濁るのと同時に、厨房の扉が勢いよく開いた。冷たい夜風とともに飛び込んできたのは、幼馴染のコメットだ。
「ルエン! 聞いたかよ、すっげぇ噂!」
コメットはオメガ特有の愛くるしい顔立ちを紅潮させ、俺の背中をバシバシと叩く。
「痛いって。なんだよ、また新しい媚薬の話か?」
「ちげーよ! もっとすげぇの! 『運命転換の恵方巻』の話だよ!」
聞き慣れない単語に、俺は眉間にしわを寄せた。恵方巻? 東方の島国に伝わる、太巻き寿司のことだろうか。以前、文献で読んだことがある。節分という行事で、吉方を向いて無言で食べると願いが叶うという縁起物だ。
「それがどうかしたのか?」
「ただの料理じゃねぇんだって。なんでも、北の果てにある『静寂の社』に奉納されてる伝説の恵方巻を食べれば……ベータでもオメガになれるらしいんだ!」
心臓が、早鐘を打った。
手から木べらが滑り落ち、鍋の縁に当たって乾いた音を立てる。
「……なんだって?」
「だから! それを一本まるごと、誰とも口を利かずに完食すれば、体質が作り変えられるんだってさ。嘘か本当か知らないけど、今、城の下働き連中の間で持ちきりだぜ」
コメットの声が遠のいていく。
ベータが、オメガになれる。
もしそれが真実なら。俺がオメガになれば、クラウス様の隣に立つ資格を得られるのだろうか。あの「運命の番」という、絶対的な絆を彼と結ぶことができるのだろうか。
『馬鹿げている』
理性がそうつぶやく。そんな都合のいい魔法があるわけがない。
だが、俺の魂はすでに、その可能性という名の甘い蜜に吸い寄せられていた。
鍋の中で煮えるシチューのように、俺の中で何かが決壊する音が聞こえた。
翌朝、俺は料理長に休暇届を出した。
理由は「食材探求の旅」とだけ記して。
リュックサックには、最低限の着替えと、野営用の調理器具、そしてなけなしの貯金を詰め込んだ。
城門を出る時、振り返ると、朝日に照らされた近衛騎士団の塔が見えた。そこでクラウス様が剣を振るっている姿を想像し、俺は胸を強く押さえる。
『待っていてください、クラウス様。俺は必ず、あなたにふさわしい存在になって戻ってきます』
それは、あまりにも無謀で、滑稽で、けれど純粋な愛の暴走の始まりだった。
俺が目指すのは北の果て。伝説の食材にして運命の変革装置、「恵方巻」が眠る場所だ。
ベータの料理人が挑むには過酷すぎる旅路が、今、幕を開ける。
11
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】結婚して12年一度も会った事ありませんけど? それでも旦那様は全てが欲しいそうです
との
恋愛
結婚して12年目のシエナは白い結婚継続中。
白い結婚を理由に離婚したら、全てを失うシエナは漸く離婚に向けて動けるチャンスを見つけ・・
沈黙を続けていたルカが、
「新しく商会を作って、その先は?」
ーーーーーー
題名 少し改変しました
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
ちゃんと忠告をしましたよ?
柚木ゆず
ファンタジー
ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。
「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」
アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。
アゼット様。まだ間に合います。
今なら、引き返せますよ?
※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる