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第1話「叶わぬ星と厨房の片隅」
厨房の窓から見える夜空は、残酷なほどに澄み渡っていた。
王城の裏手、残り物の野菜や肉の切れ端が煮込まれるスープの香りが漂うこの場所が、俺、ルエンの居場所だ。かじかんだ指先を白い息で温めながら、俺は遠くに見える大理石のバルコニーを見上げた。
煌びやかなシャンデリアの光が漏れるその場所では、今夜も夜会が開かれている。
『アルファとオメガ、選ばれた者たちだけの宴か』
胸の奥で、じわりと熱い泥のような感情が渦巻く。それを押し殺すように、俺は手元のジャガイモを握りしめた。
俺はベータだ。この世界において、アルファのように優れた身体能力やカリスマ性を持つわけでもなく、オメガのように愛され、庇護される運命を持つわけでもない。ただの、数合わせの凡人。
けれど、俺が恋をしてしまった相手は、あの光の中にいる。
近衛騎士団長、クラウス様。
銀の髪に氷河のような瞳を持つ、至高のアルファ。
彼が厨房へ視察に訪れたあの日から、俺の心はずっと彼に捕らわれている。だが、彼が俺のような一介の料理人、それも特徴のないベータを気にかけるはずがない。彼にふさわしいのは、甘いフェロモンを漂わせる美しいオメガだけなのだ。
「はあ……また焦がすところだった」
ため息をつき、俺は寸胴鍋の中身を木べらでかき混ぜた。
シチューの湯気が顔にかかる。視界が白く濁るのと同時に、厨房の扉が勢いよく開いた。冷たい夜風とともに飛び込んできたのは、幼馴染のコメットだ。
「ルエン! 聞いたかよ、すっげぇ噂!」
コメットはオメガ特有の愛くるしい顔立ちを紅潮させ、俺の背中をバシバシと叩く。
「痛いって。なんだよ、また新しい媚薬の話か?」
「ちげーよ! もっとすげぇの! 『運命転換の恵方巻』の話だよ!」
聞き慣れない単語に、俺は眉間にしわを寄せた。恵方巻? 東方の島国に伝わる、太巻き寿司のことだろうか。以前、文献で読んだことがある。節分という行事で、吉方を向いて無言で食べると願いが叶うという縁起物だ。
「それがどうかしたのか?」
「ただの料理じゃねぇんだって。なんでも、北の果てにある『静寂の社』に奉納されてる伝説の恵方巻を食べれば……ベータでもオメガになれるらしいんだ!」
心臓が、早鐘を打った。
手から木べらが滑り落ち、鍋の縁に当たって乾いた音を立てる。
「……なんだって?」
「だから! それを一本まるごと、誰とも口を利かずに完食すれば、体質が作り変えられるんだってさ。嘘か本当か知らないけど、今、城の下働き連中の間で持ちきりだぜ」
コメットの声が遠のいていく。
ベータが、オメガになれる。
もしそれが真実なら。俺がオメガになれば、クラウス様の隣に立つ資格を得られるのだろうか。あの「運命の番」という、絶対的な絆を彼と結ぶことができるのだろうか。
『馬鹿げている』
理性がそうつぶやく。そんな都合のいい魔法があるわけがない。
だが、俺の魂はすでに、その可能性という名の甘い蜜に吸い寄せられていた。
鍋の中で煮えるシチューのように、俺の中で何かが決壊する音が聞こえた。
翌朝、俺は料理長に休暇届を出した。
理由は「食材探求の旅」とだけ記して。
リュックサックには、最低限の着替えと、野営用の調理器具、そしてなけなしの貯金を詰め込んだ。
城門を出る時、振り返ると、朝日に照らされた近衛騎士団の塔が見えた。そこでクラウス様が剣を振るっている姿を想像し、俺は胸を強く押さえる。
『待っていてください、クラウス様。俺は必ず、あなたにふさわしい存在になって戻ってきます』
それは、あまりにも無謀で、滑稽で、けれど純粋な愛の暴走の始まりだった。
俺が目指すのは北の果て。伝説の食材にして運命の変革装置、「恵方巻」が眠る場所だ。
ベータの料理人が挑むには過酷すぎる旅路が、今、幕を開ける。
王城の裏手、残り物の野菜や肉の切れ端が煮込まれるスープの香りが漂うこの場所が、俺、ルエンの居場所だ。かじかんだ指先を白い息で温めながら、俺は遠くに見える大理石のバルコニーを見上げた。
煌びやかなシャンデリアの光が漏れるその場所では、今夜も夜会が開かれている。
『アルファとオメガ、選ばれた者たちだけの宴か』
胸の奥で、じわりと熱い泥のような感情が渦巻く。それを押し殺すように、俺は手元のジャガイモを握りしめた。
俺はベータだ。この世界において、アルファのように優れた身体能力やカリスマ性を持つわけでもなく、オメガのように愛され、庇護される運命を持つわけでもない。ただの、数合わせの凡人。
けれど、俺が恋をしてしまった相手は、あの光の中にいる。
近衛騎士団長、クラウス様。
銀の髪に氷河のような瞳を持つ、至高のアルファ。
彼が厨房へ視察に訪れたあの日から、俺の心はずっと彼に捕らわれている。だが、彼が俺のような一介の料理人、それも特徴のないベータを気にかけるはずがない。彼にふさわしいのは、甘いフェロモンを漂わせる美しいオメガだけなのだ。
「はあ……また焦がすところだった」
ため息をつき、俺は寸胴鍋の中身を木べらでかき混ぜた。
シチューの湯気が顔にかかる。視界が白く濁るのと同時に、厨房の扉が勢いよく開いた。冷たい夜風とともに飛び込んできたのは、幼馴染のコメットだ。
「ルエン! 聞いたかよ、すっげぇ噂!」
コメットはオメガ特有の愛くるしい顔立ちを紅潮させ、俺の背中をバシバシと叩く。
「痛いって。なんだよ、また新しい媚薬の話か?」
「ちげーよ! もっとすげぇの! 『運命転換の恵方巻』の話だよ!」
聞き慣れない単語に、俺は眉間にしわを寄せた。恵方巻? 東方の島国に伝わる、太巻き寿司のことだろうか。以前、文献で読んだことがある。節分という行事で、吉方を向いて無言で食べると願いが叶うという縁起物だ。
「それがどうかしたのか?」
「ただの料理じゃねぇんだって。なんでも、北の果てにある『静寂の社』に奉納されてる伝説の恵方巻を食べれば……ベータでもオメガになれるらしいんだ!」
心臓が、早鐘を打った。
手から木べらが滑り落ち、鍋の縁に当たって乾いた音を立てる。
「……なんだって?」
「だから! それを一本まるごと、誰とも口を利かずに完食すれば、体質が作り変えられるんだってさ。嘘か本当か知らないけど、今、城の下働き連中の間で持ちきりだぜ」
コメットの声が遠のいていく。
ベータが、オメガになれる。
もしそれが真実なら。俺がオメガになれば、クラウス様の隣に立つ資格を得られるのだろうか。あの「運命の番」という、絶対的な絆を彼と結ぶことができるのだろうか。
『馬鹿げている』
理性がそうつぶやく。そんな都合のいい魔法があるわけがない。
だが、俺の魂はすでに、その可能性という名の甘い蜜に吸い寄せられていた。
鍋の中で煮えるシチューのように、俺の中で何かが決壊する音が聞こえた。
翌朝、俺は料理長に休暇届を出した。
理由は「食材探求の旅」とだけ記して。
リュックサックには、最低限の着替えと、野営用の調理器具、そしてなけなしの貯金を詰め込んだ。
城門を出る時、振り返ると、朝日に照らされた近衛騎士団の塔が見えた。そこでクラウス様が剣を振るっている姿を想像し、俺は胸を強く押さえる。
『待っていてください、クラウス様。俺は必ず、あなたにふさわしい存在になって戻ってきます』
それは、あまりにも無謀で、滑稽で、けれど純粋な愛の暴走の始まりだった。
俺が目指すのは北の果て。伝説の食材にして運命の変革装置、「恵方巻」が眠る場所だ。
ベータの料理人が挑むには過酷すぎる旅路が、今、幕を開ける。
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