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第3話「心を溶かす一椀」
暁からの依頼を断ってからも、彼は毎日店に顔を見せた。
福の作り手の話は二度と口にしなかったが、その無言の圧力はひしひしと伝わってくる。俺は気まずさから、以前よりもさらに口数が少なくなった。それでも暁は、ただ静かに俺の料理を味わい、いつも通り「美味かった」とだけ言って帰っていく。
そんな奇妙な日々が続いていたある夜のことだ。
店じまいを終え、冷え切った夜道を自宅アパートへと急いでいた俺は、角を曲がったところで数人の男に行く手を阻まれた。
「よぉ、兄ちゃん。いい匂いがするじゃねえか」
下品な笑みを浮かべ、男たちがじりじりと距離を詰めてくる。その目には、獲物を見つけた獣のような光が宿っていた。
『しまった……!』
いつもより抑制剤をのむ時間が遅れたせいか、わずかにΩのフェロモンが漏れ出てしまっていたらしい。男たちはそれに気づいたのだろう。αではない、βのようだが、数の上では圧倒的に不利だ。
「おい、こいつΩだぜ。極上の匂いだ」
「こんなところで一人歩きなんかしやがって。誘ってんのか?」
逃げようにも、退路は塞がれている。じわりと額に汗が滲んだ。恐怖で足が震え、その場に縫い付けられたように動けない。
「さあ、こっちに来いよ。楽しいことしようぜ」
一人の男が、汚い手を伸ばしてきた。俺が思わず目を固く閉じた、その時だった。
「――その男に、触るな」
地を這うような低い声が、路地に響き渡った。
ハッとして目を開けると、男たちの背後に、暁が、いつもの黒い着流しを纏って立っていた。その瞳は、凍てつくような怒りの色を宿している。
「な、なんだてめえは!」
「失せろ。俺の気に障る前に」
暁が放つ強烈なαのフェロモンが、威圧となって男たちに叩きつけられる。それはまさしく、王者の風格だった。βである男たちは、本能的な恐怖に顔を引きつらせ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
あっという間に静まり返った路地で、俺は腰が抜けたようにその場にへたり込んだ。心臓がバクバクと激しく脈打ち、呼吸が浅くなる。
「……怪我は、ないか」
近づいてきた暁が、心配そうに俺の顔を覗き込む。俺はΩであることを知られたかもしれないという恐怖で、彼の顔をまともに見ることができなかった。
「な、んで……」
「お前が店を出るのが見えた。少し、胸騒ぎがしてな。つけてきて正解だった」
暁はそう言うと、俺の隣にしゃがみ込んだ。そして、震える俺の肩に、そっと自身の上着をかけた。高価そうな生地から、暁の匂いがふわりと香る。それは、冷たい森の奥深くを思わせる、澄んだ香りだった。不思議と、荒ぶっていた心が少しずつ落ち着いていく。
「立てるか」
「……はい」
暁に手を貸してもらい、やっとのことで立ち上がる。足がまだ少し震えていた。
「送る。家はどっちだ」
「いえ、でも……」
「いいから」
有無を言わせない口調で、暁は歩き出した。俺はなすすべもなく、彼の少し後ろをついて歩く。二人分の足音だけが、しんと静まり返った夜道に響いていた。
アパートの前まで着くと、俺は深々と頭を下げた。
「あの、ありがとうございました。助かりました」
「気にするな」
暁は短く答え、俺にかけたままだった上着を返せと促した。俺が名残惜しい気持ちで上着を脱ごうとした時、暁が不意に口を開いた。
「伊吹」
「はい」
「お前の価値は、性別などで決まるものではない」
月明かりの下で、暁の黒い瞳が真っ直ぐに俺を捉える。
「俺は、お前が作る料理が好きだ。それだけでは、駄目か」
それは、さっきの男たちが俺がΩだと気づいていたことを、彼もわかっているという表明だった。そして、それでも構わないという、力強い肯定の言葉だった。
凍りついていた心の奥深くに、温かい雫がぽたりと落ちる。視界が滲んで、暁の顔がぼやけて見えた。
『この人は、俺がΩだと知っても、軽蔑したりしない……?』
追い出されたあの日から、俺はずっと独りだった。誰にも理解されない孤独の中で、ただ息を潜めるように生きてきた。その分厚い氷の壁を、この人はたった一言で溶かそうとしている。
「……ありがとうございます」
絞り出した声は、ひどく震えていた。
暁は何も言わず、ただ静かに俺を見つめていた。その夜、俺は久しぶりに温かい気持ちで眠りにつくことができた。暁がかけてくれた上着から香る、彼の匂いに包まれながら。
福の作り手の話は二度と口にしなかったが、その無言の圧力はひしひしと伝わってくる。俺は気まずさから、以前よりもさらに口数が少なくなった。それでも暁は、ただ静かに俺の料理を味わい、いつも通り「美味かった」とだけ言って帰っていく。
そんな奇妙な日々が続いていたある夜のことだ。
店じまいを終え、冷え切った夜道を自宅アパートへと急いでいた俺は、角を曲がったところで数人の男に行く手を阻まれた。
「よぉ、兄ちゃん。いい匂いがするじゃねえか」
下品な笑みを浮かべ、男たちがじりじりと距離を詰めてくる。その目には、獲物を見つけた獣のような光が宿っていた。
『しまった……!』
いつもより抑制剤をのむ時間が遅れたせいか、わずかにΩのフェロモンが漏れ出てしまっていたらしい。男たちはそれに気づいたのだろう。αではない、βのようだが、数の上では圧倒的に不利だ。
「おい、こいつΩだぜ。極上の匂いだ」
「こんなところで一人歩きなんかしやがって。誘ってんのか?」
逃げようにも、退路は塞がれている。じわりと額に汗が滲んだ。恐怖で足が震え、その場に縫い付けられたように動けない。
「さあ、こっちに来いよ。楽しいことしようぜ」
一人の男が、汚い手を伸ばしてきた。俺が思わず目を固く閉じた、その時だった。
「――その男に、触るな」
地を這うような低い声が、路地に響き渡った。
ハッとして目を開けると、男たちの背後に、暁が、いつもの黒い着流しを纏って立っていた。その瞳は、凍てつくような怒りの色を宿している。
「な、なんだてめえは!」
「失せろ。俺の気に障る前に」
暁が放つ強烈なαのフェロモンが、威圧となって男たちに叩きつけられる。それはまさしく、王者の風格だった。βである男たちは、本能的な恐怖に顔を引きつらせ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
あっという間に静まり返った路地で、俺は腰が抜けたようにその場にへたり込んだ。心臓がバクバクと激しく脈打ち、呼吸が浅くなる。
「……怪我は、ないか」
近づいてきた暁が、心配そうに俺の顔を覗き込む。俺はΩであることを知られたかもしれないという恐怖で、彼の顔をまともに見ることができなかった。
「な、んで……」
「お前が店を出るのが見えた。少し、胸騒ぎがしてな。つけてきて正解だった」
暁はそう言うと、俺の隣にしゃがみ込んだ。そして、震える俺の肩に、そっと自身の上着をかけた。高価そうな生地から、暁の匂いがふわりと香る。それは、冷たい森の奥深くを思わせる、澄んだ香りだった。不思議と、荒ぶっていた心が少しずつ落ち着いていく。
「立てるか」
「……はい」
暁に手を貸してもらい、やっとのことで立ち上がる。足がまだ少し震えていた。
「送る。家はどっちだ」
「いえ、でも……」
「いいから」
有無を言わせない口調で、暁は歩き出した。俺はなすすべもなく、彼の少し後ろをついて歩く。二人分の足音だけが、しんと静まり返った夜道に響いていた。
アパートの前まで着くと、俺は深々と頭を下げた。
「あの、ありがとうございました。助かりました」
「気にするな」
暁は短く答え、俺にかけたままだった上着を返せと促した。俺が名残惜しい気持ちで上着を脱ごうとした時、暁が不意に口を開いた。
「伊吹」
「はい」
「お前の価値は、性別などで決まるものではない」
月明かりの下で、暁の黒い瞳が真っ直ぐに俺を捉える。
「俺は、お前が作る料理が好きだ。それだけでは、駄目か」
それは、さっきの男たちが俺がΩだと気づいていたことを、彼もわかっているという表明だった。そして、それでも構わないという、力強い肯定の言葉だった。
凍りついていた心の奥深くに、温かい雫がぽたりと落ちる。視界が滲んで、暁の顔がぼやけて見えた。
『この人は、俺がΩだと知っても、軽蔑したりしない……?』
追い出されたあの日から、俺はずっと独りだった。誰にも理解されない孤独の中で、ただ息を潜めるように生きてきた。その分厚い氷の壁を、この人はたった一言で溶かそうとしている。
「……ありがとうございます」
絞り出した声は、ひどく震えていた。
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