5 / 16
第4話「予期せぬ熱」
暁に助けられたあの夜を境に、俺たちの間の空気は少しだけ変わった。
相変わらず彼は毎日店に来て定食を食べ、俺も黙々とそれを作る。会話らしい会話はほとんどない。けれど、以前のような張り詰めた緊張感は消え、穏やかで心地よい沈黙が二人を包んでいた。
俺がΩであることに、暁は一切触れてこなかった。その気遣いが、何よりもありがたかった。彼の前では、俺はただの「伊吹」でいられる。料理人として、一人の人間として、まっすぐに俺を見てくれる。その事実が、凍りついていた心をじんわりと温めていった。
福の作り手の件は、まだ保留のままだった。暁は何も言わないが、俺はまだ答えを出せずにいる。夢への憧れと、過去のトラウマからくる恐怖。二つの感情が、心の中でせめぎ合っていた。
そんなある日の昼下がり。店の仕込みをしていた俺を、突然、経験したことのないような体の異変が襲った。
『……なんだ、これ』
体の芯から、燃え上がるような熱が込み上げてくる。ぐらりと視界が揺れ、立っているのがやっとだった。全身の力が抜け、額には玉のような汗が浮かぶ。
『まさか、ヒート……?』
ありえない。毎朝、欠かさず抑制剤をのんでいるはずだ。今まで一度だって、こんなことはなかったのに。だというのに、体は正直だった。脳が蕩けるような甘い感覚と、誰かを求める本能的な渇望が、荒れ狂う嵐のように俺の理性を飲み込もうとしていた。
「う、ぁ……っ」
カウンターにもたれかかり、荒い息を繰り返す。甘ったるいΩのフェロモンが、自分でもわかるくらいに店中に満ちていく。まずい。誰かが来たら、大変なことになる。
『早く、家に帰って……薬を……』
震える足で店の戸口へ向かおうとした、その時。
からん、と無情にも鈴の音が鳴った。顔を上げると、そこには息をのんだ暁が立っていた。いつもよりずっと早い時間の来店だった。
「伊吹……?どうした、顔色が――」
言いかけた暁の言葉が、途中で止まる。彼の黒い瞳が、驚きと、そして別の熱を帯びた色に見開かれた。俺が放つ強烈なフェロモンに、彼も気づいたのだ。
「あ、かつき、さん……来ちゃ、だめだ……!」
「……ヒート、なのか」
掠れた声で、暁が問う。俺はこくこくと頷くことしかできない。暁の表情が、苦悩に歪んだ。彼はαだ。発情したΩのフェロンモンは、αにとって抗いがたい媚薬のようなもの。理性を保っているのが不思議なくらいだ。
「逃げ、て……俺から、離れて……!」
懇願する俺に、しかし暁は一歩、また一歩と近づいてくる。彼の瞳には、抗いがたい渇望の色が浮かんでいた。
「……無理だ」
低い声が、俺の耳を震わせる。
「こんなお前を置いて、行けるはずがない」
暁は俺の目の前まで来ると、その大きな手で、熱に浮かされた俺の頬をそっと包み込んだ。ひやりとした手のひらが心地よくて、俺は思わずその手に頬をすり寄せてしまう。
「あ……」
「伊吹」
暁が、俺の名前を呼ぶ。その声は熱っぽく、それでいて切実な響きを帯びていた。
「……嫌なら、抵抗しろ」
そう言って、暁は俺の体を強く抱きしめた。彼のたくましい胸に顔を埋める形になり、澄んだ森の香りが、より一層濃く俺の体を包み込む。彼の香りもまた、ヒートに浮かされた俺の体に甘く作用した。
『だめだ、抗えない……』
本能が、このαに抱かれたいと叫んでいる。俺の全てをこの人に委ねてしまいたいと、心が求めている。
俺が抵抗しないのを見て取ると、暁は俺の体を軽々と横抱きにした。驚いて彼の首にしがみつくと、暁は力強い足取りで店の奥にある居住スペースへと向かう。
「俺はお前がいい」
耳元で、暁がささやいた。
「他の誰でもない。お前でなければ、駄目だ」
その言葉が、最後の理性の扉をこじ開ける。俺はもう、この抗いがたい運命の渦に、身を任せることしかできなかった。
相変わらず彼は毎日店に来て定食を食べ、俺も黙々とそれを作る。会話らしい会話はほとんどない。けれど、以前のような張り詰めた緊張感は消え、穏やかで心地よい沈黙が二人を包んでいた。
俺がΩであることに、暁は一切触れてこなかった。その気遣いが、何よりもありがたかった。彼の前では、俺はただの「伊吹」でいられる。料理人として、一人の人間として、まっすぐに俺を見てくれる。その事実が、凍りついていた心をじんわりと温めていった。
福の作り手の件は、まだ保留のままだった。暁は何も言わないが、俺はまだ答えを出せずにいる。夢への憧れと、過去のトラウマからくる恐怖。二つの感情が、心の中でせめぎ合っていた。
そんなある日の昼下がり。店の仕込みをしていた俺を、突然、経験したことのないような体の異変が襲った。
『……なんだ、これ』
体の芯から、燃え上がるような熱が込み上げてくる。ぐらりと視界が揺れ、立っているのがやっとだった。全身の力が抜け、額には玉のような汗が浮かぶ。
『まさか、ヒート……?』
ありえない。毎朝、欠かさず抑制剤をのんでいるはずだ。今まで一度だって、こんなことはなかったのに。だというのに、体は正直だった。脳が蕩けるような甘い感覚と、誰かを求める本能的な渇望が、荒れ狂う嵐のように俺の理性を飲み込もうとしていた。
「う、ぁ……っ」
カウンターにもたれかかり、荒い息を繰り返す。甘ったるいΩのフェロモンが、自分でもわかるくらいに店中に満ちていく。まずい。誰かが来たら、大変なことになる。
『早く、家に帰って……薬を……』
震える足で店の戸口へ向かおうとした、その時。
からん、と無情にも鈴の音が鳴った。顔を上げると、そこには息をのんだ暁が立っていた。いつもよりずっと早い時間の来店だった。
「伊吹……?どうした、顔色が――」
言いかけた暁の言葉が、途中で止まる。彼の黒い瞳が、驚きと、そして別の熱を帯びた色に見開かれた。俺が放つ強烈なフェロモンに、彼も気づいたのだ。
「あ、かつき、さん……来ちゃ、だめだ……!」
「……ヒート、なのか」
掠れた声で、暁が問う。俺はこくこくと頷くことしかできない。暁の表情が、苦悩に歪んだ。彼はαだ。発情したΩのフェロンモンは、αにとって抗いがたい媚薬のようなもの。理性を保っているのが不思議なくらいだ。
「逃げ、て……俺から、離れて……!」
懇願する俺に、しかし暁は一歩、また一歩と近づいてくる。彼の瞳には、抗いがたい渇望の色が浮かんでいた。
「……無理だ」
低い声が、俺の耳を震わせる。
「こんなお前を置いて、行けるはずがない」
暁は俺の目の前まで来ると、その大きな手で、熱に浮かされた俺の頬をそっと包み込んだ。ひやりとした手のひらが心地よくて、俺は思わずその手に頬をすり寄せてしまう。
「あ……」
「伊吹」
暁が、俺の名前を呼ぶ。その声は熱っぽく、それでいて切実な響きを帯びていた。
「……嫌なら、抵抗しろ」
そう言って、暁は俺の体を強く抱きしめた。彼のたくましい胸に顔を埋める形になり、澄んだ森の香りが、より一層濃く俺の体を包み込む。彼の香りもまた、ヒートに浮かされた俺の体に甘く作用した。
『だめだ、抗えない……』
本能が、このαに抱かれたいと叫んでいる。俺の全てをこの人に委ねてしまいたいと、心が求めている。
俺が抵抗しないのを見て取ると、暁は俺の体を軽々と横抱きにした。驚いて彼の首にしがみつくと、暁は力強い足取りで店の奥にある居住スペースへと向かう。
「俺はお前がいい」
耳元で、暁がささやいた。
「他の誰でもない。お前でなければ、駄目だ」
その言葉が、最後の理性の扉をこじ開ける。俺はもう、この抗いがたい運命の渦に、身を任せることしかできなかった。
あなたにおすすめの小説
オメガだと隠して地味なベータとして生きてきた俺が、なぜか学園最強で傲慢な次期公爵様と『運命の番』になって、強制的にペアを組まされる羽目に
水凪しおん
BL
この世界では、性は三つに分かたれる。支配者たるアルファ、それに庇護されるオメガ、そして大多数を占めるベータ。
誇り高き魔法使いユキは、オメガという性を隠し、ベータとして魔法学園の門をくぐった。誰にも見下されず、己の力だけで認められるために。
しかし彼の平穏は、一人の男との最悪の出会いによって打ち砕かれる。
学園の頂点に君臨する、傲慢不遜なアルファ――カイ・フォン・エーレンベルク。
反発しあう二人が模擬戦で激突したその瞬間、伝説の証『運命の印』が彼らの首筋に発現する。
それは、決して抗うことのできない魂の繋がり、『運命の番』の証だった。
「お前は俺の所有物だ」
傲慢に告げるカイと、それに激しく反発するユキ。
強制的にペアを組まされた学園対抗トーナメント『双星杯』を舞台に、二人の歯車は軋みを上げながらも回り出す。
孤独を隠す最強のアルファと、運命に抗う気高きオメガ。
これは、反発しあう二つの魂がやがて唯一無二のパートナーとなり、世界の理をも変える絆を結ぶまでの、愛と戦いの物語。
氷の支配者と偽りのベータ。過労で倒れたら冷徹上司(銀狼)に拾われ、極上の溺愛生活が始まりました。
水凪しおん
BL
※この作品には、性的描写の表現が含まれています。18歳未満の方の閲覧はご遠慮ください。
オメガであることを隠し、メガバンクで身を粉にして働く、水瀬湊。
過労と理不尽な扱いで、心身ともに限界を迎えた夜、彼を救ったのは、冷徹で知られる超エリートα、橘蓮だった。
「君はもう、頑張らなくていい」
――それは、運命の番との出会い。
圧倒的な庇護と、独占欲に戸惑いながらも、湊の凍てついた心は、次第に溶かされていく。
理不尽な会社への華麗なる逆転劇と、極上に甘いオメガバース・オフィスラブ!
世界一大好きな番との幸せな日常(と思っているのは)
かんだ
BL
現代物、オメガバース。とある理由から専業主夫だったΩだけど、いつまでも番のαに頼り切りはダメだと働くことを決めたが……。
ド腹黒い攻めαと何も知らず幸せな檻の中にいるΩの話。
冷酷なアルファ(氷の将軍)に嫁いだオメガ、実はめちゃくちゃ愛されていた。
水凪しおん
BL
これは、愛を知らなかった二人が、本当の愛を見つけるまでの物語。
国のための「生贄」として、敵国の将軍に嫁いだオメガの王子、ユアン。
彼を待っていたのは、「氷の将軍」と恐れられるアルファ、クロヴィスとの心ない日々だった。
世継ぎを産むための「道具」として扱われ、絶望に暮れるユアン。
しかし、冷たい仮面の下に隠された、不器用な優しさと孤独な瞳。
孤独な夜にかけられた一枚の外套が、凍てついた心を少しずつ溶かし始める。
これは、政略結婚という偽りから始まった、運命の恋。
帝国に渦巻く陰謀に立ち向かう中で、二人は互いを守り、支え合う「共犯者」となる。
偽りの夫婦が、唯一無二の「番」になるまでの軌跡を、どうぞ見届けてください。
捨てられた花屋のオメガは、雨の日に現れたスパダリ社長に溺愛される~抑制剤をやめたら、運命の番に捕まりました~
水凪しおん
BL
花屋『フルール・リリエン』で働くオメガの藍沢湊は、かつて家柄を理由に番(つがい)に捨てられたトラウマから、アルファを頑なに拒絶して生きてきた。
強力な抑制剤でフェロモンを隠し、ひっそりと暮らす湊。しかしある雨の日、店に現れたIT企業社長のアルファ・橘蓮に見初められてしまう。
「この花、あなたに似ている」
毎日店に通い詰め、不器用ながらも真っ直ぐな愛を注ぐ蓮。その深い森のような香りに、湊の閉ざされた心と、抑え込んでいた本能が揺さぶられ始めて――?
傷ついたオメガ×一途で完璧なスパダリ社長。
雨上がりの紫陽花のように涙に濡れた恋が、あたたかな陽だまりに変わるまでの、救済と溺愛のオメガバース。
※この作品には、性的描写の表現が含まれています。18歳未満の方の閲覧はご遠慮ください。
隠れオメガの整備士は自由になりたい。なのに暴走する最強騎士を身体を張って止めたら、運命の番だとバレて過保護な専属契約を結ばされました
水凪しおん
BL
※オメガバース設定。激しい戦闘描写や、執着攻めによるマーキング描写、軽度の性的な接触の描写がありますので、15歳未満の方の閲覧はご遠慮ください。
汚染された惑星を浄化する生体兵器『機装(ギア)』。
その搭乗者は優れた能力を持つ『アルファ』に限られ、彼らの精神を安定させる鎮静剤として『オメガ』が存在する世界。
整備士のエリアンは、オメガであることを隠し、ベータと偽って軍の最前線で働いていた。
オメガは道具のように扱われるこの社会で、自由を守るための必死の嘘だった。
だがある日、軍最強のエリートパイロット・クレイドの機装が暴走する事故に遭遇する。
死を覚悟して止めに入ったエリアンだったが、暴走する機体はなぜか彼にだけ反応し、沈静化した。
それは、隠していたオメガのフェロモンが、クレイドと強烈な『共鳴』を起こした瞬間だった。
「見つけた。俺の対になる存在を」
正体がバレたと戦慄するエリアンに対し、冷徹なはずのクレイドが向けたのは、処罰ではなく執着に満ちた熱い視線で……?
孤独なエリート騎士×身分を隠した健気な整備士。
星の命運と本能が交錯する、近未来SFオメガバース!
抑制剤の効かない薬師オメガは森に隠れる。最強騎士団長に見つかり、聖なるフェロモンで理性を溶かされ、国を捨てた逃避行の果てに番となる
水凪しおん
BL
「この香りを嗅いだ瞬間、俺の本能は二つに引き裂かれた」
人里離れた森で暮らす薬師のエリアルは、抑制剤が効かない特異体質のオメガ。彼から放たれるフェロモンは万病を癒やす聖なる力を持つが、同時に理性を失わせる劇薬でもあった。
ある日、流行り病の特効薬を求めて森を訪れた最強の騎士団長・ジークフリートに見つかってしまう。エリアルの香りに強烈に反応しながらも、鋼の理性で耐え抜くジークフリート。
「俺が、貴方の剣となり盾となる」
国を救うための道具として狙われるエリアルを守るため、最強の騎士は地位も名誉も投げ捨て、国を敵に回す逃避行へと旅立つ。
シリアスから始まり、最後は辺境での幸せなスローライフへ。一途な騎士と健気な薬師の、運命のBLファンタジー。
鏡開きと恋のぜんざい~無愛想な和菓子職人はスランプ作家を甘く溶かす~
水凪しおん
BL
「あなたの作るお菓子が、僕を救ってくれたんです」
仕事の重圧に潰れ、言葉を紡げなくなったライターの一ノ瀬湊。
逃げるように訪れた冬の古都で、彼は一軒の古びた和菓子屋『月光堂』と出会う。
そこで黙々と菓子を作るのは、鋭い眼光を持つ無愛想な職人・高遠蓮。
第一印象は最悪。けれど、彼が差し出した不器用なほど優しい和菓子の味に、湊の凍りついた心は次第に解かされていく。
経営難に苦しむ店を救うため、湊は自身のペンを武器に宣伝部長に立候補するが――?
「俺は、あなたに食べてほしかった」
閉ざされた蔵の鍵、硬い鏡餅、そして頑なな職人の心。
二人なら、どんな硬い殻だって割ることができる。
冬の京都を彷彿とさせる古都で紡がれる、甘くて温かい救済と再生のBLストーリー。