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第1話「二度目の人生は真っ当に」
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夏のうだるような暑さと、鼻の奥にこびりついて離れない鉄錆のような血の匂い。
それが、飛燕の記憶の底に重く沈んでいる、前世の最後の光景だった。
横断歩道へ無邪気に飛び出した小さな背中。
アスファルトを削るように響き渡った、耳をつんざくようなブレーキの摩擦音。
考えるよりも先に身体が弾かれたように動き、子供の小さな身体を力いっぱい突き飛ばした。
直後に襲いかかってきたのは、全身の骨が粉々に砕け散るような途方もない衝撃だった。
硬い地面に無惨に叩きつけられた背中の鈍い痛みと、急速に体温を失って冷えていく指先の心細い感覚は、今でも不意に夢に見ては、汗だくになって跳ね起きるほど鮮明だ。
現代日本で不良として喧嘩に明け暮れ、周囲に迷惑ばかりかけて、決して褒められるような生き方をしてこなかった自分が、最後の最後で名も知らない子供の命を救えたこと。
それだけが、あのどうしようもなかった人生の、たった一つの救いだったのかもしれない。
『飛燕、喧嘩ばかりしないで、真っ当に生きなさい』
親のいない自分を男手一つならぬ祖母の手一つで育ててくれた、亡き祖母のしわがれた優しい声が、不意に耳の奥で蘇る。
しわだらけの温かい手で頭を撫でられた記憶が、胸の奥をぎゅっと締め付けた。
***
そんな前世の記憶を色濃く抱えたまま、彼は今、まったく見知らぬ異世界で二度目の人生を歩んでいた。
ひんやりとした朝の心地よい空気が、開け放たれた木枠の窓から滑り込んでくる。
飛燕はふうっと長く息を吐き出しながら、鏡の前に立って自分の姿を見つめた。
そこには、かつての傷だらけで筋骨隆々だった不良の面影は微塵もない。
鏡に映っているのは、透き通るような白い肌と、少し長めに切り揃えられた艶やかな黒髪を持つ、ひどく華奢で細身の少年だった。
瞳の色は夜空を切り取ったような深い漆黒で、目鼻立ちはどこか少女のように整っている。
ここは現代日本ではなく、龍凰帝国と呼ばれる、中華風の絢爛な文化と厳しい身分制度が息づく架空の国だった。
そして飛燕が今通っているのは、帝国の未来を担う貴族の子息や優秀な人材が集められた名門校、天耀学舎だ。
飛燕は鏡の前で、学校指定の制服の襟元を丁寧に整えた。
深い藍色を基調とした上質な絹の生地には、光の加減で鈍く輝く銀糸の刺繍が細やかに施されている。
首元までしっかりとボタンを留め、帯をきつく締める動作にも、すっかり慣れてしまっていた。
しかし、どれだけ高価な衣服を身にまとっても、飛燕の心を常に重く曇らせている事実がある。
それは、この世界に存在する特異な性別、オメガとして自分が生まれ変わってしまったということだ。
アルファと呼ばれる強者が社会の実権を握り、ベータが平民として働き、オメガは保護という名目で従属を強いられる。
そんな理不尽な階級社会の中で、飛燕の身体からは、自分でも嫌になるほど甘く柔らかい香りが微かに漂っていた。
春の始まりに咲く、名も知らぬ花の蜜のような匂い。
前世で汗と土とタバコの匂いにまみれていた自分から、こんな甘ったるい匂いが発せられていること自体が、どうにも居心地が悪くて仕方がない。
「真っすぐ生きるって決めたんだ。喧嘩なんて、もう絶対にしない」
飛燕は鏡の中の自分に向かって、言い聞かせるように小さくつぶやいた。
祖母との約束だ。
今度こそ、誰かに後ろ指を指されるような生き方はしない。
目立たず、騒ぎを起こさず、ただ静かに学業を修めて、平穏無事な一生を送る。
それが、二度目の命を与えられた飛燕の唯一の目標だった。
***
部屋を出て、学園の広大な敷地へと足を踏み入れる。
見上げるほど高い朱塗りの柱と、複雑な木組みが美しい渡り廊下がどこまでも続いている。
足元に敷き詰められた白く磨かれた石畳は、歩くたびに微かな足音を心地よく響かせる。
庭園には立派な松の木が枝を広げ、風に揺れる柳の葉がさらさらと柔らかな音を立てていた。
すれ違う生徒たちの多くは、金糸の装飾が施された豪華な制服を着崩したアルファの貴族たちだ。
彼らのそばを通り過ぎるたび、飛燕の鼻先をツンと刺すような、香木と強い自己主張の混じったアルファ特有の威圧的な匂いが漂ってくる。
飛燕が頭を下げて道を譲ると、彼らは一瞥もくれずに通り過ぎていくか、あるいはあからさまに見下すような冷たい視線を投げかけてきた。
『オメガのくせに、天耀学舎の空気を汚すな』
声に出さずとも、彼らの目元や口角の歪みがそう雄弁に語っている。
前世の自分であれば、そんな生意気な視線を向けられた瞬間、相手の胸ぐらをつかんで壁に叩きつけていただろう。
だが、今の飛燕は違う。
手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握りしめながらも、深く頭を下げ、足早にその場を立ち去ることを選んだ。
胃の奥がキリキリと痛み、喉の奥に苦いものがこみ上げてくる。
我慢だ。ひたすら我慢するしかない。
そうやって自分に言い聞かせながら、飛燕は教室へと続く長い回廊を、うつむき加減で歩き続けた。
風が吹き抜け、飛燕の黒髪をふわりと揺らす。
どこからか漂ってくる庭園の梅の香りが、少しだけ彼の高ぶった神経をなだめてくれた。
平和で退屈な日常。それこそが、今の自分が最も望んでいるものなのだから。
そう心に固く誓いながらも、飛燕の胸の奥底では、前世で培われた荒々しい闘争心が、まだ完全には消え去っていなかった。
無理やり押さえつけているその火種が、ふとした瞬間に燃え上がってしまうのではないかと、彼自身も時折不安になることがある。
それでも、祖母の優しい笑顔を思い出すたびに、飛燕は深く息を吸い込み、心を落ち着かせるのだった。
朝の陽光が瓦屋根に反射して眩しく輝く中、飛燕は重い足取りで教室の引き戸に手をかけた。
木と紙が擦れる特有の音とともに戸が開き、教室内の喧騒が彼を迎え入れる。
今日もまた、息を潜めてやり過ごす一日が始まろうとしていた。
それが、飛燕の記憶の底に重く沈んでいる、前世の最後の光景だった。
横断歩道へ無邪気に飛び出した小さな背中。
アスファルトを削るように響き渡った、耳をつんざくようなブレーキの摩擦音。
考えるよりも先に身体が弾かれたように動き、子供の小さな身体を力いっぱい突き飛ばした。
直後に襲いかかってきたのは、全身の骨が粉々に砕け散るような途方もない衝撃だった。
硬い地面に無惨に叩きつけられた背中の鈍い痛みと、急速に体温を失って冷えていく指先の心細い感覚は、今でも不意に夢に見ては、汗だくになって跳ね起きるほど鮮明だ。
現代日本で不良として喧嘩に明け暮れ、周囲に迷惑ばかりかけて、決して褒められるような生き方をしてこなかった自分が、最後の最後で名も知らない子供の命を救えたこと。
それだけが、あのどうしようもなかった人生の、たった一つの救いだったのかもしれない。
『飛燕、喧嘩ばかりしないで、真っ当に生きなさい』
親のいない自分を男手一つならぬ祖母の手一つで育ててくれた、亡き祖母のしわがれた優しい声が、不意に耳の奥で蘇る。
しわだらけの温かい手で頭を撫でられた記憶が、胸の奥をぎゅっと締め付けた。
***
そんな前世の記憶を色濃く抱えたまま、彼は今、まったく見知らぬ異世界で二度目の人生を歩んでいた。
ひんやりとした朝の心地よい空気が、開け放たれた木枠の窓から滑り込んでくる。
飛燕はふうっと長く息を吐き出しながら、鏡の前に立って自分の姿を見つめた。
そこには、かつての傷だらけで筋骨隆々だった不良の面影は微塵もない。
鏡に映っているのは、透き通るような白い肌と、少し長めに切り揃えられた艶やかな黒髪を持つ、ひどく華奢で細身の少年だった。
瞳の色は夜空を切り取ったような深い漆黒で、目鼻立ちはどこか少女のように整っている。
ここは現代日本ではなく、龍凰帝国と呼ばれる、中華風の絢爛な文化と厳しい身分制度が息づく架空の国だった。
そして飛燕が今通っているのは、帝国の未来を担う貴族の子息や優秀な人材が集められた名門校、天耀学舎だ。
飛燕は鏡の前で、学校指定の制服の襟元を丁寧に整えた。
深い藍色を基調とした上質な絹の生地には、光の加減で鈍く輝く銀糸の刺繍が細やかに施されている。
首元までしっかりとボタンを留め、帯をきつく締める動作にも、すっかり慣れてしまっていた。
しかし、どれだけ高価な衣服を身にまとっても、飛燕の心を常に重く曇らせている事実がある。
それは、この世界に存在する特異な性別、オメガとして自分が生まれ変わってしまったということだ。
アルファと呼ばれる強者が社会の実権を握り、ベータが平民として働き、オメガは保護という名目で従属を強いられる。
そんな理不尽な階級社会の中で、飛燕の身体からは、自分でも嫌になるほど甘く柔らかい香りが微かに漂っていた。
春の始まりに咲く、名も知らぬ花の蜜のような匂い。
前世で汗と土とタバコの匂いにまみれていた自分から、こんな甘ったるい匂いが発せられていること自体が、どうにも居心地が悪くて仕方がない。
「真っすぐ生きるって決めたんだ。喧嘩なんて、もう絶対にしない」
飛燕は鏡の中の自分に向かって、言い聞かせるように小さくつぶやいた。
祖母との約束だ。
今度こそ、誰かに後ろ指を指されるような生き方はしない。
目立たず、騒ぎを起こさず、ただ静かに学業を修めて、平穏無事な一生を送る。
それが、二度目の命を与えられた飛燕の唯一の目標だった。
***
部屋を出て、学園の広大な敷地へと足を踏み入れる。
見上げるほど高い朱塗りの柱と、複雑な木組みが美しい渡り廊下がどこまでも続いている。
足元に敷き詰められた白く磨かれた石畳は、歩くたびに微かな足音を心地よく響かせる。
庭園には立派な松の木が枝を広げ、風に揺れる柳の葉がさらさらと柔らかな音を立てていた。
すれ違う生徒たちの多くは、金糸の装飾が施された豪華な制服を着崩したアルファの貴族たちだ。
彼らのそばを通り過ぎるたび、飛燕の鼻先をツンと刺すような、香木と強い自己主張の混じったアルファ特有の威圧的な匂いが漂ってくる。
飛燕が頭を下げて道を譲ると、彼らは一瞥もくれずに通り過ぎていくか、あるいはあからさまに見下すような冷たい視線を投げかけてきた。
『オメガのくせに、天耀学舎の空気を汚すな』
声に出さずとも、彼らの目元や口角の歪みがそう雄弁に語っている。
前世の自分であれば、そんな生意気な視線を向けられた瞬間、相手の胸ぐらをつかんで壁に叩きつけていただろう。
だが、今の飛燕は違う。
手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握りしめながらも、深く頭を下げ、足早にその場を立ち去ることを選んだ。
胃の奥がキリキリと痛み、喉の奥に苦いものがこみ上げてくる。
我慢だ。ひたすら我慢するしかない。
そうやって自分に言い聞かせながら、飛燕は教室へと続く長い回廊を、うつむき加減で歩き続けた。
風が吹き抜け、飛燕の黒髪をふわりと揺らす。
どこからか漂ってくる庭園の梅の香りが、少しだけ彼の高ぶった神経をなだめてくれた。
平和で退屈な日常。それこそが、今の自分が最も望んでいるものなのだから。
そう心に固く誓いながらも、飛燕の胸の奥底では、前世で培われた荒々しい闘争心が、まだ完全には消え去っていなかった。
無理やり押さえつけているその火種が、ふとした瞬間に燃え上がってしまうのではないかと、彼自身も時折不安になることがある。
それでも、祖母の優しい笑顔を思い出すたびに、飛燕は深く息を吸い込み、心を落ち着かせるのだった。
朝の陽光が瓦屋根に反射して眩しく輝く中、飛燕は重い足取りで教室の引き戸に手をかけた。
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