借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる

水凪しおん

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第4話「氷解のきざし」

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 温室での一件以来、伊織と征四郎の間に流れる空気はわずかに変化した。征四郎が伊織に話しかけてくることは相変わらずなかったが、屋敷の廊下で偶然すれ違う時、以前のような完全な無視ではなく一瞬だけ彼の視線が伊織に注がれるようになった。それはまだ氷のように冷たい視線だったが、そこには以前のような拒絶の色はなかった。まるで未知の生き物を観察するかのような静かな光が宿っていた。

 伊織はあの日以来、征四郎の許可を得て正式に温室と荒れ果てた西の庭園の手入れをすることが許された。

「好きにしろ。ただし私の目に触れるな」

 そう言い放った彼の言葉は素っ気なかったが、伊織にはそれが彼の不器用な優しさなのだと感じられた。

 土に触れている時間は伊織の心を穏やかにした。雑草を抜き固くなった土をクワで耕し、枯れた花がらを摘む。それは地道で骨の折れる作業だったが、伊織は無心でそれに打ち込んだ。庭が少しずつ美しくなっていくのが目に見える喜びだった。それはまるで空っぽだった自分の心に、小さな花が一つずつ咲いていくような感覚に似ていた。

 メイドたちもそんな伊織の姿を遠巻きに眺めていた。最初は「当主様が連れてきたただの飾り物」としか見ていなかった彼らも、毎日泥だらけになって庭仕事に励む伊織の姿に少しずつ見る目を変えていった。昼食の後には冷たい飲み物や汗を拭うためのタオルをそっと差し出してくれるようになった。

「伊織様、あまりご無理をなさらないでくださいね」

 そんな風に声をかけられるたび、伊織の胸には温かいものが込み上げた。この屋敷に来て初めて、自分という人間を認められたような気がした。

 伊織が特に力を注いだのはスズランが咲いていた温室の周りだった。きっと亡くなった奥様が愛した場所だったに違いない。そう思うと自然と力が入った。彼女がどんな想いでこの花々を育てていたのか伊織には知る由もなかったが、彼女が残した温もりを絶やしてはいけないと思ったのだ。

 一方、征四郎はそんな伊織の姿を書斎の窓から静かに見つめていた。
 最初はただの気まぐれだろうと思っていた。都会育ちの線の細い青年。すぐに音を上げるに違いない。そう高を括っていた。だが伊織は毎日黙々と作業を続けた。慣れない手つきでクワを振るい、額に汗して土を運ぶ。その小さな背中は征四郎が今まで抱いていたΩのイメージとはかけ離れていた。

(何を考えているんだ)
 征四郎には伊織の行動が理解できなかった。富も安楽な生活も与えられている。ただ大人しく鳥かごの中にいればいいものを、なぜ好き好んで泥にまみれるようなことをするのか。

 だが目で追っているうちに征四郎は気づかざるを得なかった。庭仕事をしている時の伊織の表情が、この屋敷に来てから初めて見るほど生き生きとしていることに。花に触れるその指先は優しく、そして手入れを終えた庭を眺めるその横顔には満ち足りたような柔らかな笑みが浮かんでいた。

 その姿が不意に記憶の中の景色の扉を叩いた。
『征四郎さん、見てください。こんなに綺麗に咲きましたよ』
 そう言って屈託なく笑った今は亡き番の姿。彼女もまたこの庭で花と語らうように時を過ごしていた。伊織の姿がその記憶の残像とふと重なる。

 ハッとして征四郎は頭を振った。
(違う。この男はあいつではない)
 自分にそう強く言い聞かせる。二度と誰かを深く愛することはない。そう誓ったはずだった。亡き番の面影をこの青年に見たからこそ手元に置くという矛盾した行動に出た。だがそれはあくまで感傷でしかない。彼を番にする気など毛頭ない。

 しかしその決意とは裏腹に、征四郎の目は知らず知らずのうちに庭で作業をする伊織の姿を探すようになっていた。仕事の合間ふと窓の外に目をやり、彼の小さな背中を見つけるとほんの少しだけ凍てついた胸の奥が和らぐのを感じる。その変化に征四郎自身が最も戸惑っていた。

 ある日の午後、急な夕立が庭を襲った。書斎で書類に目を通していた征四郎は、窓を叩く激しい雨音に顔を上げた。その瞬間彼の脳裏を庭にいるはずの伊織の姿がよぎった。

(あの男、まさかまだ外にいるのでは……)
 気づいた時には征四郎は椅子から立ち上がり玄関へと向かっていた。なぜ自分がこんな行動を取るのか彼自身にもわからなかった。ただ雨に打たれて途方に暮れているであろう青年の姿が妙に気にかかった。

 玄関の扉を開けると案の定、伊織がびしょ濡れになって軒下で立ち尽くしていた。突然の雨に温室から母屋に戻るタイミングを失ってしまったらしい。薄いシャツは雨水を含んで肌に張り付き、華奢な身体の線が露わになっていた。ぶるぶると小さく震える肩を見て征四郎は眉をひそめた。

「……何をしている。早く中に入れ」

 低い声でそう言うと伊織はびくりと肩を揺らし、驚いたように征四郎の顔を見上げた。その大きな瞳が不安げに揺れている。

「……申し訳ありません。床を濡らしてしまいますので……」

「そんなことはどうでもいい。風邪をひくぞ」

 征四郎は苛立ったように言うと、躊躇している伊織の腕を掴み半ば強引に屋敷の中へと引き入れた。掴んだ腕は驚くほど冷たかった。

「田所!タオルと着替えを!」

 征四郎の大声に執事の田所が慌てて駆けつけてくる。その間に征四郎は掴んでいた伊織の腕を離した。濡れたシャツから透ける白い肌が妙に生々しく、征四郎は思わず目を逸らした。

「……ありがとうございます」

 タオルを受け取った伊織が小さな声で礼を言う。その声が微かに震えていることに征四郎は気づいた。

「……いいから早く部屋に戻って温まれ」

 それだけを吐き捨てるように言うと、征四郎は伊織に背を向け足早に書斎へと戻っていった。

 一人残された伊織は濡れた髪をタオルで拭きながら、彼の去っていった背中を呆然と見つめていた。乱暴な口調だったが、掴まれた腕に残る彼の熱と自分を案じてくれた響きは確かに伊織の心に届いていた。

 氷の帝王が初めて見せた不器用な優しさ。
 それは厚い氷の表面にできたほんの小さなひび割れ。そこから差し込んだ一筋の光が伊織の心を温かく照らし始めていた。
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