記憶喪失のふりをしていた最強α騎士、敵国のΩ医師と番になり祖国の陰謀を暴く

水凪しおん

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第1話「戦場の邂逅と雨上がりの森」

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 耳をつんざくような怒号と、肉を断つ生々しい剣戟の音。火薬の焦げ付く匂いと、鉄錆のような血の匂いが混じり合い、カイン・アークライトの鼻腔を不快に刺激する。ここは、ガルム帝国とシルヴァニア公国の国境線。泥濘と骸に塗れた、終わりの見えない戦場の最前線だ。
「団長!深追いは危険です!罠の可能性があります!」
 背後から聞こえる副官レオの声は、馬の嘶きと剣の音にかき消され、遠のいていく。分かっている。だが、ここで退くわけにはいかなかった。帝国最強と謳われる黒獅子騎士団の団長として、そして「鋼鉄の騎士」の異名を持つアルファとして、勝利以外の選択肢は許されない。
「怯むな!敵将の首は目前だ!」
 カインは愛馬の腹を蹴り、さらに前進する。燻した木のような、力強いアルファのフェロモンを威嚇するように放ちながら、敵兵を次々となぎ倒していく。その様はまさに、獅子が羊の群れを蹂躙するかのようだった。しかし、その刹那。足元の地面が、まるで獣の顎のように大きく開いた。
「なっ……!」
 巧妙に隠された巨大な落とし穴。レオの警告は正しかったのだ。体勢を立て直す間もなく、カインは愛馬ごと奈落の底へと飲み込まれていく。落下しながら背中に突き刺さる、幾本もの鋭い杭。全身を焼くような激痛が走り、カインの意識は急速に闇へと沈んでいった。ごぼりと口から溢れた血が、己の鎧を赤黒く染めていく。
(こんな、場所で……)
 帝国のため、アルファとしての使命のため、全てを捧げてきた人生の終焉がこれか。あまりにも、あっけない。崖の下へと無様に転がり落ちながら、薄れゆく意識の片隅で、カインはふわりと香る、不思議な匂いを感じていた。それは戦場にはあまりにも不似合いな、雨上がりの森のように清らかで、心を落ち着かせる香りだった。その香りに包まれた瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、彼の意識は完全に途絶えた。

 次にカインが目覚めた時、そこは見知らぬ簡素な部屋のベッドの上だった。軋む体をゆっくりと起こすと、全身に巻かれた真新しい包帯が目に入る。背中の傷は、素人目にも分かるほど丁寧に処置が施されていた。戦場の喧騒は嘘のように遠く、窓の外からは鳥のさえずりと、穏やかな風の音が聞こえてくる。
「気がつきましたか」
 穏やかで、透き通るような声。カインが声のした方へ顔を向けると、そこに一人の青年が立っていた。亜麻色の柔らかな髪が、窓から差し込む木漏れ日に照らされてきらきらと輝いている。こちらを覗き込む優しい瞳は、春の若葉のような色をしていた。そして、あの時感じた、雨上がりの森のような清らかな香りが、この青年から漂っていることにカインは気づいた。
「気分はどうです?かなり酷い傷でしたから、まだ動かない方がいい」
 青年はそう言って、カインの額にそっと手を当てる。ひんやりとした心地よい感触。カインは反射的にその手を振り払おうとしたが、体に力が入らなかった。
「……ここはどこだ。お前は、誰だ」
 掠れた声で問いかけると、青年は困ったように微笑んだ。
「ここはシルヴァニア公国の国境の村です。僕はリン・シェフィールド。この村で医者をしています」
 シルヴァニア。その言葉を聞いた瞬間、カインの全身に緊張が走った。敵国だ。目の前にいるこの穏やかな青年も、紛れもない敵国の人間。しかも、その清らかな香りから察するに、彼はオメガだ。アルファである自分が、敵国のオメガに手当てをされている。この状況が信じられなかった。
 リンと名乗った青年は、カインの警戒心を敏感に感じ取ったようだった。だが、彼は少しも態度を変えず、穏やかな口調で続ける。
「あなたの着ていた鎧、とても立派なものでした。ガルム帝国の高名な騎士様なのでしょう。……でも、僕にとっては関係ありません」
 リンはカインの目を真っ直ぐに見つめて言った。
「僕の目の前にいるのは、帝国の騎士様でも、敵でもない。ただ、助けが必要な一人の人間です。医者として、それを見過ごすことはできません」
 その瞳には、一点の曇りもなかった。揺るぎない信念と、深い慈愛に満ちている。カインは言葉を失った。戦場では、敵は殺すべき存在でしかなかった。慈悲など、真っ先に捨て去るべき感情だと教え込まれてきた。だが、目の前のオメガは、当たり前のようにその常識を覆してくる。
(こいつは、何かが違う……)
 警戒心は解けない。だが、今はここで体力を回復させるのが最優先だ。下手に身分を明かせば、どんな目に遭うか分からない。カインは咄嗟に嘘をついた。
「……頭を打ったせいか、何も思い出せない。自分の名前すら……」
 記憶喪失を装う。それが、この場を生き延びるための最善策だと判断した。リンはカインの言葉を疑う様子もなく、心配そうに眉を寄せた。
「そうでしたか……。無理に思い出そうとしないでください。傷が癒えれば、記憶も少しずつ戻ってくるかもしれません。それまでは、ゆっくり休んで」
 そう言って、リンは温かい薬湯をカインに手渡した。ほのかに甘い香りがするそれを、カインはゆっくりと喉に流し込む。温かい液体が、冷え切った体にじんわりと染み渡っていくようだった。
「何か、呼び名がないと不便でしょう。……そうですね、あなたの髪の色、燃え殻(アッシュ)のようですから、『アッシュ』というのはどうでしょう?」
 リンは悪戯っぽく笑う。カインは、ただ黙ってこくりと頷いた。
 こうして、帝国最強の騎士カイン・アークライトは、その名を捨て、敵国の片田舎で「アッシュ」として生きることになった。それは、後に二つの国の運命を、そして彼ら自身の魂の行方を大きく揺るがすことになる、運命の出会いの瞬間だった。カインはまだ、目の前にいる穏やかなオメガの医師が、己の凍てついた人生を根底から覆す存在になることなど、知る由もなかった。
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