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第1話「凍えるアルファと温かいオメガ」
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冬の王都は、刺すような冷たい風に支配されていた。石畳の通りには霜が降り、道行く人々は厚手の外套に身を縮めて足早に通り過ぎていく。しかし、王都の南外れに位置する薬草園の温室の中だけは、まるで別の季節が切り取られたかのような穏やかな空気に満ちていた。ガラス張りの天井からは淡い冬の太陽が優しく降り注ぎ、室内の温度を快適なものに保っている。足元には湿気を帯びた豊かな黒土が広がり、青々とした葉を広げる希少な植物たちが甘く青臭い香りを漂わせていた。
その温室の奥深く、日差しが一番よく当たる木製のベンチの上で、ルカは気持ちよさそうに目を閉じていた。カピバラ獣人であるルカは、元々他の獣人たちと比べても並外れて体温が高い。もふもふとした亜麻色の癖毛は陽の光を吸い込んでさらに温かさを増し、少し大きめの作業着の下からは、彼がオメガである証のフェロモンがふんわりと立ち上っていた。それは夏の終わりの草原を思わせる、甘く乾燥した干し草の匂いだ。吸い込むだけで心がほどけるようなその香りは、温室内の植物の匂いと混ざり合い、究極の安らぎの空間を作り出していた。
ルカは両手で自分のふっくらとした頬を包み込み、小さく幸せそうな吐息を漏らした。午前中の土いじりで少しだけ疲れた体が、ぽかぽかとした熱に包まれてまどろみの底へと沈んでいく。このままお昼ご飯の時間まで眠ってしまおうか。そんなのんきなことを考えていたルカの耳に、重く不規則な足音が聞こえてきた。
革靴が土を踏みしめる音は、温室の入り口から真っすぐにこちらへと向かってくる。普段この薬草園を訪れる客は、足取りの軽い薬師か近所のお年寄りくらいだ。しかし、今近づいてくる足音は明らかに違う。どこか切羽詰まったような、引きずるような重い響きがあった。ルカは薄く目を開け、眠気でぼやける視界を入り口の方へと向けた。
そこに立っていたのは、場違いなほど上等な黒い外套を羽織った長身の男だった。銀色の長い髪は乱れ、青白い顔には疲労と苦痛の色が色濃く浮かんでいる。男が足を踏み出すたびに、温室内の空気が一瞬にして凍りつくような錯覚に陥った。彼から発せられているのは、研ぎ澄まされた鋭い刃のような、そして絶対零度の氷のようなアルファのフェロモンだった。あまりにも冷たく鋭いその匂いに、ルカの甘い干し草の香りが一瞬だけかき消されそうになる。
男は蛇獣人だった。細められた金の瞳は焦点が定まっておらず、薄い唇は寒さのあまりか紫がかって震えている。極度の冷え性で知られる蛇獣人が、この厳冬の王都を歩き回るのは自殺行為に近い。男はふらりと体を揺らすと、そのまま糸が切れた操り人形のように前方へと崩れ落ちた。
倒れ込む先には、ベンチで横になっていたルカがいた。避ける間もなく、ずしりとした重みがルカの体の上にのしかかる。
「わわっ、ちょっと」
ルカは驚きの声を上げて男の肩を支えようとした。しかし、その手から伝わってきたのは、生き物とは思えないほどの恐ろしい冷たさだった。まるで真冬の湖の底に沈んでいた氷の塊に触れたかのようだ。男の黒い外套は外の冷気をたっぷりと吸い込んでおり、その下にある体はかじかんで小刻みに震えている。
男はルカの体に顔をうずめると、うめき声のような低い音を喉の奥で鳴らした。そして、本能のままにルカの温かい体にしがみついてきた。長い腕がルカの背中に回り、冷たい指先が服の布地をきつく握りしめる。顔をルカの首筋に押し付け、そこから放たれる熱と干し草のフェロモンを貪るように深く深呼吸を繰り返した。
『この人、すごく冷たい……このままじゃ凍え死んじゃうかもしれない』
ルカは自分にのしかかる男の重さと冷たさに戸惑いながらも、持ち前の温厚さで彼を突き飛ばすことはしなかった。それどころか、少しでも彼を温めてあげようと、自分の体温を分け与えるように男の背中へゆっくりと両手を回した。ルカの手のひらから伝わる熱が、男の凍てついた体をじんわりと包み込んでいく。もふもふとした癖毛が男の頬に触れ、優しい摩擦を生み出して肌の表面を温める。
しばらくの間、温室の中には男の荒い息遣いと、ルカの穏やかな心音が交差する音だけが響いていた。氷のようなアルファのフェロモンと、日だまりのようなオメガのフェロモン。本来なら反発し合うはずの二つの匂いが、不思議なほど自然に混ざり合い、新しい調和を生み出していく。男の震えは少しずつ収まり、強張っていた筋肉がルカの熱に溶かされるように弛緩していった。
やがて、男がゆっくりと金の瞳を開いた。その瞳の奥には、先ほどの虚ろな光は消え、鋭い理性の輝きが戻っていた。男は自分が誰を抱きしめているのかを理解したのか、わずかに眉間にしわを寄せてルカの顔を下から見上げた。
「……暑苦しい。無駄に毛玉みたいにふくらんでいるな」
それが、男の第一声だった。命の恩人とも言えるルカに向かって放たれた言葉は、声のトーンこそ低いものの、氷のように冷たく毒を含んでいた。
「ええと、気がついた? 大丈夫ですか」
ルカは悪態をつかれたことなど全く気にせず、いつものんびりとした口調で問いかけた。カピバラ獣人のルカにとって、他人のささいな棘など右から左へと受け流すのが日常だ。
「大丈夫に見えるか。このくだらない寒さのせいで、俺は危うく路地裏で凍りつくところだった。お前みたいな無神経に体温が高いやつがいて助かったが、それにしても暑すぎる」
男は憎まれ口を叩きながらも、ルカの体から離れようとはしなかった。それどころか、ルカの首筋に顔を戻し、再びその温かいフェロモンを肺の奥まで吸い込んだ。言葉とは裏腹に、男の体はルカの熱を必死に求めているのがはっきりとわかる。
「寒いなら、もっとくっついててもいいですよ。僕、すごく温かいですから」
ルカは柔らかく微笑み、男の背中を一定のリズムで軽く叩いた。小さな子どもをなだめるようなその仕草に、男は一瞬だけ言葉を失い、それから深くため息をついた。
「俺は特務機関のヴィオだ。お前、名前は」
「ルカです。ここで薬草のお世話をしてます」
ヴィオと名乗った男は、ルカの名前を頭の中で反芻するように何度かつぶやいた。そして、突然ルカの肩を掴んで体を起こし、真剣な、しかしどこか見下すような視線を突き刺してきた。
「ルカ。お前を俺の専属の抱き枕として雇う。金はいくらでも出すから、今すぐ俺の屋敷に来い」
突然の提案に、ルカは目を丸くした。薬草園の仕事があるのに、いきなり知らない人の屋敷に行くなんて考えたこともない。しかし、ヴィオの氷のように冷たい指先が自分の腕を掴んで離さないのを感じると、彼がどれほどこの寒さに苦しんでいるのかが伝わってきた。
「抱き枕、ですか。でも、僕にはここのお仕事がありますし」
「そんな土いじりより、俺を温める方がよほど国のためになる。逆らうな、これは命令だ」
強引な言葉の裏に見え隠れする、切実なまでの温もりへの渇望。ルカは困ったように頬をかきながらも、目の前で強がる不器用なアルファを無下に扱うことはできなかった。温室のガラス越しに見える冬の空は、これからさらに冷え込むことを予感させるように灰色に濁っていた。
その温室の奥深く、日差しが一番よく当たる木製のベンチの上で、ルカは気持ちよさそうに目を閉じていた。カピバラ獣人であるルカは、元々他の獣人たちと比べても並外れて体温が高い。もふもふとした亜麻色の癖毛は陽の光を吸い込んでさらに温かさを増し、少し大きめの作業着の下からは、彼がオメガである証のフェロモンがふんわりと立ち上っていた。それは夏の終わりの草原を思わせる、甘く乾燥した干し草の匂いだ。吸い込むだけで心がほどけるようなその香りは、温室内の植物の匂いと混ざり合い、究極の安らぎの空間を作り出していた。
ルカは両手で自分のふっくらとした頬を包み込み、小さく幸せそうな吐息を漏らした。午前中の土いじりで少しだけ疲れた体が、ぽかぽかとした熱に包まれてまどろみの底へと沈んでいく。このままお昼ご飯の時間まで眠ってしまおうか。そんなのんきなことを考えていたルカの耳に、重く不規則な足音が聞こえてきた。
革靴が土を踏みしめる音は、温室の入り口から真っすぐにこちらへと向かってくる。普段この薬草園を訪れる客は、足取りの軽い薬師か近所のお年寄りくらいだ。しかし、今近づいてくる足音は明らかに違う。どこか切羽詰まったような、引きずるような重い響きがあった。ルカは薄く目を開け、眠気でぼやける視界を入り口の方へと向けた。
そこに立っていたのは、場違いなほど上等な黒い外套を羽織った長身の男だった。銀色の長い髪は乱れ、青白い顔には疲労と苦痛の色が色濃く浮かんでいる。男が足を踏み出すたびに、温室内の空気が一瞬にして凍りつくような錯覚に陥った。彼から発せられているのは、研ぎ澄まされた鋭い刃のような、そして絶対零度の氷のようなアルファのフェロモンだった。あまりにも冷たく鋭いその匂いに、ルカの甘い干し草の香りが一瞬だけかき消されそうになる。
男は蛇獣人だった。細められた金の瞳は焦点が定まっておらず、薄い唇は寒さのあまりか紫がかって震えている。極度の冷え性で知られる蛇獣人が、この厳冬の王都を歩き回るのは自殺行為に近い。男はふらりと体を揺らすと、そのまま糸が切れた操り人形のように前方へと崩れ落ちた。
倒れ込む先には、ベンチで横になっていたルカがいた。避ける間もなく、ずしりとした重みがルカの体の上にのしかかる。
「わわっ、ちょっと」
ルカは驚きの声を上げて男の肩を支えようとした。しかし、その手から伝わってきたのは、生き物とは思えないほどの恐ろしい冷たさだった。まるで真冬の湖の底に沈んでいた氷の塊に触れたかのようだ。男の黒い外套は外の冷気をたっぷりと吸い込んでおり、その下にある体はかじかんで小刻みに震えている。
男はルカの体に顔をうずめると、うめき声のような低い音を喉の奥で鳴らした。そして、本能のままにルカの温かい体にしがみついてきた。長い腕がルカの背中に回り、冷たい指先が服の布地をきつく握りしめる。顔をルカの首筋に押し付け、そこから放たれる熱と干し草のフェロモンを貪るように深く深呼吸を繰り返した。
『この人、すごく冷たい……このままじゃ凍え死んじゃうかもしれない』
ルカは自分にのしかかる男の重さと冷たさに戸惑いながらも、持ち前の温厚さで彼を突き飛ばすことはしなかった。それどころか、少しでも彼を温めてあげようと、自分の体温を分け与えるように男の背中へゆっくりと両手を回した。ルカの手のひらから伝わる熱が、男の凍てついた体をじんわりと包み込んでいく。もふもふとした癖毛が男の頬に触れ、優しい摩擦を生み出して肌の表面を温める。
しばらくの間、温室の中には男の荒い息遣いと、ルカの穏やかな心音が交差する音だけが響いていた。氷のようなアルファのフェロモンと、日だまりのようなオメガのフェロモン。本来なら反発し合うはずの二つの匂いが、不思議なほど自然に混ざり合い、新しい調和を生み出していく。男の震えは少しずつ収まり、強張っていた筋肉がルカの熱に溶かされるように弛緩していった。
やがて、男がゆっくりと金の瞳を開いた。その瞳の奥には、先ほどの虚ろな光は消え、鋭い理性の輝きが戻っていた。男は自分が誰を抱きしめているのかを理解したのか、わずかに眉間にしわを寄せてルカの顔を下から見上げた。
「……暑苦しい。無駄に毛玉みたいにふくらんでいるな」
それが、男の第一声だった。命の恩人とも言えるルカに向かって放たれた言葉は、声のトーンこそ低いものの、氷のように冷たく毒を含んでいた。
「ええと、気がついた? 大丈夫ですか」
ルカは悪態をつかれたことなど全く気にせず、いつものんびりとした口調で問いかけた。カピバラ獣人のルカにとって、他人のささいな棘など右から左へと受け流すのが日常だ。
「大丈夫に見えるか。このくだらない寒さのせいで、俺は危うく路地裏で凍りつくところだった。お前みたいな無神経に体温が高いやつがいて助かったが、それにしても暑すぎる」
男は憎まれ口を叩きながらも、ルカの体から離れようとはしなかった。それどころか、ルカの首筋に顔を戻し、再びその温かいフェロモンを肺の奥まで吸い込んだ。言葉とは裏腹に、男の体はルカの熱を必死に求めているのがはっきりとわかる。
「寒いなら、もっとくっついててもいいですよ。僕、すごく温かいですから」
ルカは柔らかく微笑み、男の背中を一定のリズムで軽く叩いた。小さな子どもをなだめるようなその仕草に、男は一瞬だけ言葉を失い、それから深くため息をついた。
「俺は特務機関のヴィオだ。お前、名前は」
「ルカです。ここで薬草のお世話をしてます」
ヴィオと名乗った男は、ルカの名前を頭の中で反芻するように何度かつぶやいた。そして、突然ルカの肩を掴んで体を起こし、真剣な、しかしどこか見下すような視線を突き刺してきた。
「ルカ。お前を俺の専属の抱き枕として雇う。金はいくらでも出すから、今すぐ俺の屋敷に来い」
突然の提案に、ルカは目を丸くした。薬草園の仕事があるのに、いきなり知らない人の屋敷に行くなんて考えたこともない。しかし、ヴィオの氷のように冷たい指先が自分の腕を掴んで離さないのを感じると、彼がどれほどこの寒さに苦しんでいるのかが伝わってきた。
「抱き枕、ですか。でも、僕にはここのお仕事がありますし」
「そんな土いじりより、俺を温める方がよほど国のためになる。逆らうな、これは命令だ」
強引な言葉の裏に見え隠れする、切実なまでの温もりへの渇望。ルカは困ったように頬をかきながらも、目の前で強がる不器用なアルファを無下に扱うことはできなかった。温室のガラス越しに見える冬の空は、これからさらに冷え込むことを予感させるように灰色に濁っていた。
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