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第1話「鋼鉄の部長とガラスの心」
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帝国情報部のオフィスは、今日も静寂に支配されていた。聞こえてくるのは、規則正しくキーボードを叩く音と、空調の微かな駆動音だけだ。その静寂の中心にいるのが、このフロアの絶対的支配者、ミカエル部長だった。
銀の光を反射する髪、寸分の隙もなく着こなされた漆黒の軍服、そして、いかなる感情の揺らぎも映さない、氷のような青い瞳。彼は「鋼鉄の部長」の異名で呼ばれ、部下たちから畏怖されていた。
その冷たい視線が、今、一人の青年に注がれている。
青年の名は、リオン。栗色の柔らかな髪に、少し気弱そうな大きな瞳を持つオメガだ。彼はミカエルの直属の部下であり、そして、ミカエルの執拗なまでの叱責の的でもあった。
「リオン調査官。この報告書は何だ。誤字が三箇所、データの引用元も不明瞭だ。こんなもので、私の時間を奪うつもりか」
低く、温度のない声が響く。周囲の職員たちが、びくりと肩を揺らした。また始まった、と誰もが思ったことだろう。ミカエルがリオンに向ける厳しさは、他の部下に対するそれとは、明らかに一線を画していた。それは指導というよりも、人格を否定するかのような、陰湿ささえ含んでいたからだ。
「も、申し訳ありません! すぐに修正いたします!」
リオンは顔を真っ赤にして立ち上がり、深々と頭を下げる。心臓が、嫌な音を立てていた。この報告書は、三日も徹夜して作り上げたものだ。誤字など、あるはずがない。引用元も、全て巻末に記載してある。しかし、この鋼鉄の上司に反論など、できるはずもなかった。
「……オメガはこれだから困る。感情の起伏が激しいばかりか、仕事の精度まで安定しない。重要な任務には、到底不向きだ」
吐き捨てるような言葉が、リオンの胸に突き刺さる。ガラスの心が、また一つ、ひび割れた音がした。
確かにリオンはオメガだ。アルファやベータに比べて体格も劣るし、定期的に訪れるヒート(発情期)は、業務に支障をきたすこともある。しかし、彼にはそれを補って余りある、類稀なる才能があった。
一度見聞きした情報を、映像のように完璧に記憶し、瞬時に整理して分析できるその能力は、情報部に欠かせないもののはずだった。
だが、ミカエルは決してその能力を認めようとはしない。それどころか、リオンの功績を巧妙に自身のものにしたり、わざと実現不可能な量の業務を押し付けたりと、彼の存在価値を貶めるようなことばかりしていた。
報告書を突き返され、リオンは自分のデスクへと、とぼとぼと戻る。隣の席のフィンが、心配そうな顔でそっと声をかけてきた。
「リオン、大丈夫か? また部長に……。あの言い方はないよな。あの報告書、俺も少し見せてもらったけど、完璧だったじゃないか」
フィンはベータで、リオンの唯一の親友だった。彼の優しさが、ささくれだった心に染み渡っていく。
「ありがとう、フィン。でも、僕がもっとしっかりしていれば……」
「リオンのせいじゃない。どう考えたって、部長の当たりが異常なんだ。まるで、君をこの職場から追い出したいみたいだ」
フィンの言葉に、リオンは何も言い返せなかった。事実、この一年間、ミカエルの仕打ちに耐えきれず、辞職を考えたことは一度や二度ではない。それでも彼がここに留まっているのは、この仕事に誇りを持っているからだ。
そして、心のどこかで、いつかミカエルに認められたい、という淡い期待を捨てきれないでいたからだった。あの氷のような瞳の奥に、何か別の感情が隠されているような気がして、ならなかったのだ。
その日の午後、情報部に激震が走った。
帝国の中枢サーバーに保管されている機密データ――皇族の個人情報や、国家安全保障に関わる最重要情報――を狙った、テロリストからの襲撃予告が届いたのだ。犯行予告日時は、三日後。情報部は直ちに特別警戒態勢に入り、その防衛作戦の責任者に、ミカエルが任命された。
フロアに緊張が走る中、ミカエルは作戦メンバーを次々と選抜していく。誰もが、その中にリオンが含まれるだろうと予測していた。彼の情報処理能力は、膨大なデータをリアルタイムで解析し、敵の動きを予測する必要があるこの任務において、絶対不可欠なものだったからだ。
しかし、ミカエルの口からリオンの名前が呼ばれることはなかった。
作戦会議が終わった後、リオンは意を決して部長室の扉を叩いた。
「部長、失礼します。テロ対策の件ですが、僕にも何か手伝えることはないでしょうか。データ解析なら、きっとお役に立てると思います」
ミカエルはデスクで書類から顔も上げずに、冷たく言い放った。
「必要ない」
「ですが、今回の襲撃は規模が違います。僕の能力があれば、万が一の事態にも……」
「口答えをするなと言っている」
ミカエルがようやく顔を上げる。その青い瞳は、絶対零度の光を宿していた。
「お前のような情緒不安定なオメガに、帝国の命運を預けられるとでも? これは訓練ではない。お前に任せるのは、不安でしかない」
不安だ、と彼は言った。
その言葉は、これまでのどんな罵倒よりも、リオンの心を深くえぐった。能力も、存在も、全てを否定された気がした。
目の前が真っ暗になり、リオンはかろうじて「失礼しました」とだけ言うと、逃げるように部長室を後にした。もう、涙をこらえることさえできなかった。
そして、作戦当日。
リオンは通常業務を命じられ、対策本部が置かれた特別司令室に入ることも許されなかった。自席のモニターに映し出される緊迫した状況を、ただ歯がゆい思いで見つめることしかできない。
作戦は、当初、順調に進んでいるように見えた。テロリストのサイバー攻撃は、ミカエルが率いるチームによって完璧に防御されている。だが、予告時刻を過ぎた、まさにその時だった。
突如、庁舎全体が、地響きと共に激しく揺れた。
「な、なんだ!?」
「爆発だ! 物理的な襲撃かっ!」
オフィスがパニックに陥る。テロリストの真の狙いは、サイバー攻撃ではなく、庁舎そのものへの直接攻撃だったのだ。サイバー攻撃は、警備リソースを情報システム部門に集中させるための、巧妙な陽動に過ぎなかった。
天井のパネルが剥がれ落ち、壁に亀裂が走る。鳴り響く非常ベルと、悲鳴。
「みんな、机の下に隠れろ!」
誰かの叫び声が聞こえる。リオンも慌ててデスクの下に潜り込もうとした。
その瞬間、彼の頭上で、ひときわ大きな亀裂が天井に走るのが見えた。次の瞬間には、巨大なコンクリートの塊が、轟音と共に彼に向かって落下してきていた。
「―――っ!」
あまりの恐怖に、声も出ない。迫り来る死を前に、リオンは固く目をつぶった。
しかし、訪れるはずの衝撃は、いつまで経ってもやってこない。
代わりに、誰かの温かい腕が、彼の身体を強く抱きしめていた。そして、背後で何かが砕け散る、耳を聾するほどの破壊音が響き渡った。
恐る恐る目を開けると、すぐ目の前に、銀色の髪があった。かぎ慣れた、けれど今はどこか違う、濃密なアルファのフェロモン。サンダルウッドの冷静な香りの中に、焼けつくような焦燥と、今まで感じたことのない、甘い庇護の香りが混じり合っている。
「……ぶ、ちょう……?」
彼を瓦礫から守るように覆いかぶさっていたのは、ミカエルだった。その背中からは、赤い血が流れている。ミカエルは苦痛に顔をゆがめながらも、リオンを抱く腕の力を、決して緩めようとはしなかった。
「……無事か、リオン」
かすれた声で名を呼ばれ、リオンの思考は完全に停止した。
なぜ。なぜ、あなたが、ここに。
そしてなぜ、僕を、庇ったのですか?
氷のように冷たかったはずの青い瞳が、今は激しい熱を帯びて、ただ一心にリオンだけを映していた。
銀の光を反射する髪、寸分の隙もなく着こなされた漆黒の軍服、そして、いかなる感情の揺らぎも映さない、氷のような青い瞳。彼は「鋼鉄の部長」の異名で呼ばれ、部下たちから畏怖されていた。
その冷たい視線が、今、一人の青年に注がれている。
青年の名は、リオン。栗色の柔らかな髪に、少し気弱そうな大きな瞳を持つオメガだ。彼はミカエルの直属の部下であり、そして、ミカエルの執拗なまでの叱責の的でもあった。
「リオン調査官。この報告書は何だ。誤字が三箇所、データの引用元も不明瞭だ。こんなもので、私の時間を奪うつもりか」
低く、温度のない声が響く。周囲の職員たちが、びくりと肩を揺らした。また始まった、と誰もが思ったことだろう。ミカエルがリオンに向ける厳しさは、他の部下に対するそれとは、明らかに一線を画していた。それは指導というよりも、人格を否定するかのような、陰湿ささえ含んでいたからだ。
「も、申し訳ありません! すぐに修正いたします!」
リオンは顔を真っ赤にして立ち上がり、深々と頭を下げる。心臓が、嫌な音を立てていた。この報告書は、三日も徹夜して作り上げたものだ。誤字など、あるはずがない。引用元も、全て巻末に記載してある。しかし、この鋼鉄の上司に反論など、できるはずもなかった。
「……オメガはこれだから困る。感情の起伏が激しいばかりか、仕事の精度まで安定しない。重要な任務には、到底不向きだ」
吐き捨てるような言葉が、リオンの胸に突き刺さる。ガラスの心が、また一つ、ひび割れた音がした。
確かにリオンはオメガだ。アルファやベータに比べて体格も劣るし、定期的に訪れるヒート(発情期)は、業務に支障をきたすこともある。しかし、彼にはそれを補って余りある、類稀なる才能があった。
一度見聞きした情報を、映像のように完璧に記憶し、瞬時に整理して分析できるその能力は、情報部に欠かせないもののはずだった。
だが、ミカエルは決してその能力を認めようとはしない。それどころか、リオンの功績を巧妙に自身のものにしたり、わざと実現不可能な量の業務を押し付けたりと、彼の存在価値を貶めるようなことばかりしていた。
報告書を突き返され、リオンは自分のデスクへと、とぼとぼと戻る。隣の席のフィンが、心配そうな顔でそっと声をかけてきた。
「リオン、大丈夫か? また部長に……。あの言い方はないよな。あの報告書、俺も少し見せてもらったけど、完璧だったじゃないか」
フィンはベータで、リオンの唯一の親友だった。彼の優しさが、ささくれだった心に染み渡っていく。
「ありがとう、フィン。でも、僕がもっとしっかりしていれば……」
「リオンのせいじゃない。どう考えたって、部長の当たりが異常なんだ。まるで、君をこの職場から追い出したいみたいだ」
フィンの言葉に、リオンは何も言い返せなかった。事実、この一年間、ミカエルの仕打ちに耐えきれず、辞職を考えたことは一度や二度ではない。それでも彼がここに留まっているのは、この仕事に誇りを持っているからだ。
そして、心のどこかで、いつかミカエルに認められたい、という淡い期待を捨てきれないでいたからだった。あの氷のような瞳の奥に、何か別の感情が隠されているような気がして、ならなかったのだ。
その日の午後、情報部に激震が走った。
帝国の中枢サーバーに保管されている機密データ――皇族の個人情報や、国家安全保障に関わる最重要情報――を狙った、テロリストからの襲撃予告が届いたのだ。犯行予告日時は、三日後。情報部は直ちに特別警戒態勢に入り、その防衛作戦の責任者に、ミカエルが任命された。
フロアに緊張が走る中、ミカエルは作戦メンバーを次々と選抜していく。誰もが、その中にリオンが含まれるだろうと予測していた。彼の情報処理能力は、膨大なデータをリアルタイムで解析し、敵の動きを予測する必要があるこの任務において、絶対不可欠なものだったからだ。
しかし、ミカエルの口からリオンの名前が呼ばれることはなかった。
作戦会議が終わった後、リオンは意を決して部長室の扉を叩いた。
「部長、失礼します。テロ対策の件ですが、僕にも何か手伝えることはないでしょうか。データ解析なら、きっとお役に立てると思います」
ミカエルはデスクで書類から顔も上げずに、冷たく言い放った。
「必要ない」
「ですが、今回の襲撃は規模が違います。僕の能力があれば、万が一の事態にも……」
「口答えをするなと言っている」
ミカエルがようやく顔を上げる。その青い瞳は、絶対零度の光を宿していた。
「お前のような情緒不安定なオメガに、帝国の命運を預けられるとでも? これは訓練ではない。お前に任せるのは、不安でしかない」
不安だ、と彼は言った。
その言葉は、これまでのどんな罵倒よりも、リオンの心を深くえぐった。能力も、存在も、全てを否定された気がした。
目の前が真っ暗になり、リオンはかろうじて「失礼しました」とだけ言うと、逃げるように部長室を後にした。もう、涙をこらえることさえできなかった。
そして、作戦当日。
リオンは通常業務を命じられ、対策本部が置かれた特別司令室に入ることも許されなかった。自席のモニターに映し出される緊迫した状況を、ただ歯がゆい思いで見つめることしかできない。
作戦は、当初、順調に進んでいるように見えた。テロリストのサイバー攻撃は、ミカエルが率いるチームによって完璧に防御されている。だが、予告時刻を過ぎた、まさにその時だった。
突如、庁舎全体が、地響きと共に激しく揺れた。
「な、なんだ!?」
「爆発だ! 物理的な襲撃かっ!」
オフィスがパニックに陥る。テロリストの真の狙いは、サイバー攻撃ではなく、庁舎そのものへの直接攻撃だったのだ。サイバー攻撃は、警備リソースを情報システム部門に集中させるための、巧妙な陽動に過ぎなかった。
天井のパネルが剥がれ落ち、壁に亀裂が走る。鳴り響く非常ベルと、悲鳴。
「みんな、机の下に隠れろ!」
誰かの叫び声が聞こえる。リオンも慌ててデスクの下に潜り込もうとした。
その瞬間、彼の頭上で、ひときわ大きな亀裂が天井に走るのが見えた。次の瞬間には、巨大なコンクリートの塊が、轟音と共に彼に向かって落下してきていた。
「―――っ!」
あまりの恐怖に、声も出ない。迫り来る死を前に、リオンは固く目をつぶった。
しかし、訪れるはずの衝撃は、いつまで経ってもやってこない。
代わりに、誰かの温かい腕が、彼の身体を強く抱きしめていた。そして、背後で何かが砕け散る、耳を聾するほどの破壊音が響き渡った。
恐る恐る目を開けると、すぐ目の前に、銀色の髪があった。かぎ慣れた、けれど今はどこか違う、濃密なアルファのフェロモン。サンダルウッドの冷静な香りの中に、焼けつくような焦燥と、今まで感じたことのない、甘い庇護の香りが混じり合っている。
「……ぶ、ちょう……?」
彼を瓦礫から守るように覆いかぶさっていたのは、ミカエルだった。その背中からは、赤い血が流れている。ミカエルは苦痛に顔をゆがめながらも、リオンを抱く腕の力を、決して緩めようとはしなかった。
「……無事か、リオン」
かすれた声で名を呼ばれ、リオンの思考は完全に停止した。
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