心を閉ざした元天才ピアニストのルームメイトの氷を、寮長の僕が絶対溶かしてみせる。

水凪しおん

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第10話: 逃げ出した旋律

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 誰かが準備のBGMにと、教室のスピーカーから音楽を流し始めた。誰もが知っている、有名なピアノ協奏曲。華やかで、力強い旋律が、活気のある放課後の教室に満ちていく。
 その、最初の数音が耳に入った瞬間だった。
 ガシャン! という、けたたましい音。
 晶の隣で飾り付けの入った段ボール箱を運んでいた結が、突然、その箱を床に落としてしまったのだ。
「雪村?」
 晶が振り返ると、そこにいた結の姿に息をのんだ。
 顔面蒼白、という言葉が、まさしく当てはまる。彼の顔からは全ての血の気が引き、唇はわなわなと震えていた。その瞳は大きく見開かれ、恐怖と絶望の色を浮かべて、何もない虚空を彷徨っている。
「おい、大丈夫か!?」
 晶が駆け寄ろうとした、その時。
 結は、壊れた人形のようにぎこちなく踵を返すと、一直線に教室のドアに向かって走り出した。
「雪村、待て!」
 晶の制止の声も耳に入らない様子で、彼は廊下を飛び出し、階段を駆け下りていく。その姿は、まるで恐ろしい何かから逃げるように、必死だった。
「……今の、何?」
「どうかしたのか、あいつ」
 呆然と立ち尽くすクラスメイトたちを背に、晶は迷わずその後を追った。
 結の行き先に、何となく見当はついていた。彼はいつも、一人になりたい時、校舎裏の中庭に向かう。
 案の定、中庭の古びたベンチの影で、結はうずくまっていた。両手で耳を強く塞ぎ、小さな体を丸めている。その肩は、小刻みに震えていた。
「雪村……」
 晶は、どう声をかけるべきか逡巡しながら、ゆっくりと近づいた。
 晶の気配に気づいた結が、弾かれたように顔を上げる。その顔は涙と汗でぐしゃぐしゃだった。
「来るな!」
 金切り声に近い、悲痛な叫び。
「俺に、関わるな!」
 今までで一番激しい、全身全霊の拒絶。その言葉は鋭い刃となって、晶の胸に突き刺さった。
 一歩も、それ以上近づくことができない。
 結は、晶が立ち尽くしているのを見ると、再びよろめくように立ち上がり、今度は寮の方向へと走り去ってしまった。
 一人残された中庭には、教室から漏れ聞こえてくる、あの美しいピアノの旋律だけが、皮肉なほどに響き渡っていた。
 晶は、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。彼のあの尋常ではない反応。耳を塞ぐ仕草。
 音楽。ピアノ。
 あの日、音楽室で感じた予感が、確信に変わっていく。
 彼が必死で隠している過去の傷は、間違いなく、音楽と深く関わっているのだと。
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