氷の支配者と偽りのベータ。過労で倒れたら冷徹上司(銀狼)に拾われ、極上の溺愛生活が始まりました。

水凪しおん

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第3話「限界シグナルと甘い予感」

 橘蓮のオフィスを飛び出してきてから、僕の心は、まったく落ち着かなかった。
 頬に残る彼のかすかな感触と、脳裏に焼き付いて離れないあの瞳。
 そして、僕の体の芯まで染み付いてしまったかのような、雪の森の香り。
 そのすべてが、僕を混乱させていた。

『集中しなきゃ……仕事に……』

 自分に言い聞かせ、無理やり意識を、パソコンの画面に戻す。
 プロジェクトから外されたとはいえ、僕にはまだ雑務が山のように残っている。
 ここでぼうっとしていたら、また高梨課長に何を言われるかわからない。
 カタカタとキーボードを叩くが、指が思うように動かなかった。
 橘蓮から注がれる、静かだが突き刺すような視線を感じる。
 彼は自分のオフィスから、ガラス越しに、僕のことをずっと見ているようだった。

 その日の業務が終わり、僕は逃げるように、会社を飛び出した。
 まっすぐ家に帰りたくなくて、少し遠回りをして、近所のスーパーに立ち寄る。
 何か温かいものでも作ろう。
 そうすれば、少しはこのささくれだった気持ちも、落ち着くかもしれない。
 食材をカゴに入れながら、ふと、あることを思い出した。

『そういえば、最近まともに食事してなかったな……』

 ここ数週間、まともな食事といえば、コンビニのおにぎりか、栄養補助食品ばかり。
 睡眠時間も、ろくに取れていない。
 抑制剤は、万全な体調で服用することが前提だ。
 こんな生活を続けていれば、効果が弱まるのも当然だった。

 自分の体のことを、あまりに蔑ろにしすぎていた。
 その事実に今更ながら気づき、ずしりと重い疲労感が、全身を襲う。
 家に帰り、買ってきた食材で簡単なスープとリゾットを作った。
 温かい食事が、冷え切った体にじんわりと染み渡っていく。
 少しだけ、生き返ったような気がした。

 でも、心のざわめきは消えない。
 橘蓮の存在が、頭の中から離れないのだ。
 彼の、僕を見る目。
 そこには、単なる上司が部下に向けるものとは違う、何か特別な色が混じっていた。
 あれは、アルファが番にかける独占欲に似た、光だ。

『まさか……』

 ありえない、と首を振る。
 僕は抑制剤を飲んでいる。
 完璧にベータとして擬態しているはずだ。
 僕がオメガだと気づかれるわけがない。
 それに、彼のような雲の上の人間が、僕なんかに興味を持つはずがない。
 きっと、僕が過労で弱っているから、アルファの本能で獲物として認識されただけだ。
 そうに違いない。

 そう自分に言い聞かせても、不安は募るばかりだった。
 橘蓮のフェロモンは、僕の体に確実に影響を与えている。
 下腹部の鈍痛は断続的に続き、時折、くらりと目まいがする。
 ヒートの周期が、確実に早まっているのを感じた。

 このままでは、いつか必ずボロが出る。
 会社でヒートを起こすなんてことになったら、それこそ終わりだ。
 僕は、会社の就業規則が書かれたファイルを、久しぶりに開いた。
 休職、という文字を探す。

『少し、休んだ方がいいのかもしれない』

 このまま働き続けても、心と体が壊れてしまうだけだ。
 橘蓮からも、ちゃんと休むように言われた。
 一度リセットして、体調を万全に立て直してから、また頑張ればいい。

 そう決意すると、少しだけ気持ちが軽くなった。
 明日の朝、高梨課長に休職の相談をしよう。
 そう決めて、その日は早めにベッドに入った。

 ***

 翌朝。
 僕はいつもより少し早く出社し、高梨課長に声をかけるタイミングをうかがっていた。
 しかし、課長は朝から誰かと電話で揉めていて、ひどく機嫌が悪い。

「だから、それはこちらの管轄じゃないと何度言えばわかるんだ!」

 怒鳴り声が、フロアに響き渡る。
 とてもじゃないが、今、休職の話を切り出せる雰囲気ではなかった。

『タイミングが悪いな……』

 仕方なく、自分の席でチャンスを待つことにする。
 すると、橘蓮がオフィスから出てきて、まっすぐ僕の方へ歩いてきた。
 彼の姿を認めると、また心臓が大きく跳ねる。

「水瀬君。少し、いいかな」

 有無を言わさぬ口調。
 僕は頷くしかなく、彼の後に続いて給湯室へと向かった。
 二人きりになれる、密室。
 その事実に、緊張で喉がカラカラに乾く。

「昨日は、すまなかった」

 給湯室に入るなり、橘蓮が意外なことを口にした。

「少し、踏み込みすぎたようだ」

「い、いえ……そんなことは……」

「君が、他者からの過剰な干渉を嫌うタイプだということは、理解している。だが、君の仕事ぶりを見ていると、どうしても言いたくなる」

 彼はコーヒーを淹れながら、静かに続けた。

「君は、もっと評価されるべきだ」

 その言葉が、また僕の胸に突き刺さる。
 どうしてこの人は、僕の心を揺さぶるようなことばかり言うんだろう。
 優しくされることなんて、期待していないのに。
 期待してはいけないのに。

「あの……橘さん」

 僕は、意を決して口を開いた。

「僕、少し、休職しようと思っています」

 橘蓮の動きが、ぴたりと止まった。
 彼はゆっくりと振り返り、その黒い瞳で、僕を射抜くように見つめた。

「休職?なぜだ」

「体調が、あまり良くなくて……。このままでは、皆さんに迷惑をかけてしまうので」

「迷惑?君が誰かに迷惑をかけたことなど、一度でもあったか?」

 彼の声が、少しだけ低くなった。

「むしろ、君は迷惑をかけられている側だろう。高梨のような無能に仕事を押し付けられ、正当な評価もされず、ただ搾取されているだけだ」

「そ、そんなことは……」

「私には、わかる」

 橘蓮は、コーヒーカップを置くと、僕との距離を詰めた。
 彼の大きな影が、僕を完全に覆い隠す。
 雪の森の香りが、僕の理性を麻痺させていく。

「君は、ずっと一人で戦ってきたんだろう。誰にも頼らず、弱音も吐かず、ただ歯を食いしばって」

 彼の指が、僕の目の下のクマを、そっとなぞった。
 その優しい手つきに、僕の体の力が抜けていく。

「だが、それももう終わりだ」

「え……?」

「君はもう、頑張らなくていい」

 囁かれた言葉は、まるで魔法のようだった。
 今まで、誰にも言ってもらえなかった言葉。
 僕が、心のどこかでずっと求めていた言葉。
 その一言で、僕の中で張り詰めていた何かが、ぷつんと音を立てて切れた。

 視界が、急にぐにゃりと歪む。
 立っているのが、やっとだった。
 体が、言うことを聞かない。
 熱い。
 内側から、何かが込み上げてくる。

『あ……だめだ……ヒートが……!』

 抑制剤が、完全に効果を失った。
 甘く、とろりとしたオメガのフェロモンが、僕の体から溢れ出す。
 まずい。
 バレる。
 この人に、僕がオメガだと知られてしまう。

「っ……はな、してください……!」

 僕は最後の力を振り絞って、橘蓮の胸を押した。
 しかし、彼はびくともしない。
 それどころか、僕の腰をがっしりと抱き寄せ、そのたくましい腕の中に閉じ込めた。

「やはり、な」

 橘蓮の声が、耳元で低く響く。
 その声には、驚きではなく、確信の色が滲んでいた。

「ずっと、探していた。……ようやく、見つけた」

「なにを……言って……」

「君の香りだ、湊」

 初めて、下の名前で呼ばれた。
 彼の熱い吐息が、僕のうなじにかかる。

「この甘い香りは……間違いない。君は、私の番だ」

 絶望的な宣告。
 僕の最大の秘密が、最も知られたくない相手に、暴かれてしまった。
 意識が、遠のいていく。
 橘蓮の腕の中で、僕はなすすべもなく、熱に浮かされた意識を手放した。

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