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第5話「囚われの王子と銀狼の城」
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橘蓮の邸宅で目覚めた朝は、信じられないほど穏やかだった。
鳥のさえずりが、優しい目覚まし代わり。
窓から差し込む朝の光が、部屋を柔らかく照らしている。
昨日までの、心身をすり減らすような日常が、まるで嘘のようだ。
ヒートの熱は、一晩でほとんど引いていた。
これも、橘蓮のフェロモンのおかげかもしれない。
彼の側にいるだけで、あれほど辛かった体の不調が和らいでいくのを、感じる。
番のアルファのフェロモンは、オメガにとって何よりの薬なのだと、本で読んだことがあった。
そのことを、身をもって実感していた。
ベッドから起き上がり、用意されていた着替えに袖を通す。
上質なコットンのシャツは、僕の体にぴったりと合っていた。
まるで、あつらえたみたいに。
部屋を出ると、長い廊下が続いていた。
壁には趣味のいい絵画が飾られ、磨き上げられた床は鏡のように僕の姿を映している。
まるで、城の中に迷い込んでしまったかのようだ。
リビングらしき広い部屋にたどり着くと、橘蓮がソファに座って新聞を読んでいた。
彼は僕の気配に気づくと、静かに新聞を畳んだ。
「おはよう、湊。よく眠れたか」
「……はい。お陰様で」
昨日よりも、ずっと自然に言葉が交わせる。
僕の緊張が、少しだけ解けている証拠だった。
「朝食の用意ができている。一緒にどうだ」
彼に促され、ダイニングテーブルにつく。
テーブルの上には、彩り豊かな朝食が並んでいた。
焼きたてのパン、新鮮なサラダ、ふわふわのスクランブルエッグ。
そして、温かいコンソメスープ。
その全てが、ホテルのレストランで出てくるようなクオリティだった。
「すごい……これ、全部橘さんが?」
「いや、今朝はハウスキーパーに来てもらった。私に作れるのは、昨日のスープくらいなものだ」
少しだけ、照れたように彼は言う。
その意外な一面に、僕の胸が小さくときめいた。
「さあ、冷めないうちに食べなさい。君は少し、痩せすぎだ」
そう言って、彼は僕の皿にパンを一つ乗せてくれた。
ぎこちない手つきの、その優しさがくすぐったい。
僕たちは、静かに朝食を食べ始めた。
時折、視線が合う。
そのたびに、気まずいような、でも心地よいような、不思議な空気が流れた。
食事を終えると、橘蓮は僕に一枚のカードキーを差し出した。
「君の私物を、アパートから持ってこさせた。クローゼットに入れてある。それと、これはこの家のカードキーだ。好きに使うといい」
「え……でも、僕は今日、ここを出ていくつもりで……」
「それは許さない」
僕の言葉を、彼はきっぱりと否定した。
その声には、有無を言わせぬ力がこもっている。
「君はまだ、万全じゃない。それに、外には君を危険に晒すものが多すぎる。君が完全に元気になるまで、ここにいなさい」
「でも……」
「これは、命令だ」
彼の黒い瞳が、僕をまっすぐに見つめる。
逆らえない。
逆らってはいけない。
僕の本能が、そう告げていた。
アルファの命令に、オメガは逆らうことができない。
特に、番のアルファの命令は絶対だ。
僕は、力なく頷くしかなかった。
こうして、僕の奇妙な「軟禁」生活が始まった。
橘蓮は、日中は書斎にこもって仕事をしているようだった。
僕は、広すぎる家の中を持て余し、ただぼんやりと過ごす。
読書をしたり、映画を観たり、時にはキッチンに立って、簡単な料理を作ったりもした。
誰にも邪魔されない、穏やかな時間。
それは、僕がずっと求めていたもののはずなのに、心のどこかが落ち着かなかった。
ここは、鳥籠だ。
金で飾られた、豪華で居心地のいい鳥籠。
僕は、橘蓮という名の飼い主に、囚われている。
その事実が、僕の胸に重くのしかかった。
***
数日が過ぎた、ある日の夜。
夕食を終え、リビングのソファでくつろいでいると、橘蓮が僕の隣に静かに座った。
彼が近くに来ると、今でも少しだけ緊張する。
「体調は、もういいのか」
「はい。すっかり」
「そうか。それは、よかった」
沈黙が落ちる。
何を話せばいいのかわからず、僕は手元のクッションをいじった。
「……あの、橘さん」
「蓮、でいい」
「え?」
「君には、そう呼ばれたい」
不意打ちの言葉に、心臓が大きく跳ねた。
顔が、カッと熱くなる。
れん、さん。
声に出すのが、ひどく恥ずかしい。
「……蓮、さん。いつまで、僕はここにいればいいんでしょうか」
思い切って、ずっと気になっていたことを尋ねた。
僕の問いに、蓮さんは少しだけ考えるそぶりを見せた。
「君が、ここにいたいと思うまで、だ」
「……」
「嫌か?私と一緒にいるのは」
彼の声には、かすかな不安の色が滲んでいるように聞こえた。
この、完璧で、何一つ不自由のない男が、僕の答えを待って、不安になっている。
その事実に、僕の胸がきゅっと締め付けられた。
嫌じゃない。
むしろ、心地いいとさえ思っている自分がいる。
彼の側にいると、心が安らぐ。
ずっと悩まされていた体調不良も嘘のようだ。
でも、それを素直に認めてしまったら、僕はもう、後戻りできなくなる。
彼のいない生活には、戻れなくなる。
それが、怖かった。
僕が答えられずにいると、蓮さんはふっと息を吐いた。
「すまない、困らせたな。君の気持ちの整理がつくまで、待つつもりだ」
彼はそう言うと、立ち上がろうとした。
その時、僕の口から、自分でも思ってもみなかった言葉が飛び出していた。
「嫌、じゃ……ないです」
蓮さんの動きが止まる。
彼は、驚いたように僕を振り返った。
「むしろ……ここにいると、すごく、安心します」
顔が熱い。
恥ずかしくて、彼の顔をまともに見られない。
「でも、怖いんです。あなたに、全部委ねてしまうのが。あなたなしでは、生きていけなくなってしまうのが」
僕の正直な気持ちだった。
弱くて、情けない、僕の本心。
それを聞いた蓮さんは、再び僕の隣に座ると、その大きな手で、僕の頭を優しく撫でた。
「それで、いい」
彼の声は、夜の静寂に溶けるように、穏やかだった。
「私なしでは生きていけないように、してやるのが私の役目だ。君は、ただ私に甘えていればいい」
その言葉は、傲慢で、独りよがりで、でも、どうしようもなく甘かった。
僕の心の最後の砦が、その言葉で音を立てて崩れていく。
僕は、蓮さんの胸に、そっと顔をうずめていた。
彼の心臓の音が、力強く、そして優しく、僕の耳に響いていた。
この城から、もう、逃げ出すことはできないのかもしれない。
いや、逃げ出したいと、もう思っていないのかもしれない。
鳥のさえずりが、優しい目覚まし代わり。
窓から差し込む朝の光が、部屋を柔らかく照らしている。
昨日までの、心身をすり減らすような日常が、まるで嘘のようだ。
ヒートの熱は、一晩でほとんど引いていた。
これも、橘蓮のフェロモンのおかげかもしれない。
彼の側にいるだけで、あれほど辛かった体の不調が和らいでいくのを、感じる。
番のアルファのフェロモンは、オメガにとって何よりの薬なのだと、本で読んだことがあった。
そのことを、身をもって実感していた。
ベッドから起き上がり、用意されていた着替えに袖を通す。
上質なコットンのシャツは、僕の体にぴったりと合っていた。
まるで、あつらえたみたいに。
部屋を出ると、長い廊下が続いていた。
壁には趣味のいい絵画が飾られ、磨き上げられた床は鏡のように僕の姿を映している。
まるで、城の中に迷い込んでしまったかのようだ。
リビングらしき広い部屋にたどり着くと、橘蓮がソファに座って新聞を読んでいた。
彼は僕の気配に気づくと、静かに新聞を畳んだ。
「おはよう、湊。よく眠れたか」
「……はい。お陰様で」
昨日よりも、ずっと自然に言葉が交わせる。
僕の緊張が、少しだけ解けている証拠だった。
「朝食の用意ができている。一緒にどうだ」
彼に促され、ダイニングテーブルにつく。
テーブルの上には、彩り豊かな朝食が並んでいた。
焼きたてのパン、新鮮なサラダ、ふわふわのスクランブルエッグ。
そして、温かいコンソメスープ。
その全てが、ホテルのレストランで出てくるようなクオリティだった。
「すごい……これ、全部橘さんが?」
「いや、今朝はハウスキーパーに来てもらった。私に作れるのは、昨日のスープくらいなものだ」
少しだけ、照れたように彼は言う。
その意外な一面に、僕の胸が小さくときめいた。
「さあ、冷めないうちに食べなさい。君は少し、痩せすぎだ」
そう言って、彼は僕の皿にパンを一つ乗せてくれた。
ぎこちない手つきの、その優しさがくすぐったい。
僕たちは、静かに朝食を食べ始めた。
時折、視線が合う。
そのたびに、気まずいような、でも心地よいような、不思議な空気が流れた。
食事を終えると、橘蓮は僕に一枚のカードキーを差し出した。
「君の私物を、アパートから持ってこさせた。クローゼットに入れてある。それと、これはこの家のカードキーだ。好きに使うといい」
「え……でも、僕は今日、ここを出ていくつもりで……」
「それは許さない」
僕の言葉を、彼はきっぱりと否定した。
その声には、有無を言わせぬ力がこもっている。
「君はまだ、万全じゃない。それに、外には君を危険に晒すものが多すぎる。君が完全に元気になるまで、ここにいなさい」
「でも……」
「これは、命令だ」
彼の黒い瞳が、僕をまっすぐに見つめる。
逆らえない。
逆らってはいけない。
僕の本能が、そう告げていた。
アルファの命令に、オメガは逆らうことができない。
特に、番のアルファの命令は絶対だ。
僕は、力なく頷くしかなかった。
こうして、僕の奇妙な「軟禁」生活が始まった。
橘蓮は、日中は書斎にこもって仕事をしているようだった。
僕は、広すぎる家の中を持て余し、ただぼんやりと過ごす。
読書をしたり、映画を観たり、時にはキッチンに立って、簡単な料理を作ったりもした。
誰にも邪魔されない、穏やかな時間。
それは、僕がずっと求めていたもののはずなのに、心のどこかが落ち着かなかった。
ここは、鳥籠だ。
金で飾られた、豪華で居心地のいい鳥籠。
僕は、橘蓮という名の飼い主に、囚われている。
その事実が、僕の胸に重くのしかかった。
***
数日が過ぎた、ある日の夜。
夕食を終え、リビングのソファでくつろいでいると、橘蓮が僕の隣に静かに座った。
彼が近くに来ると、今でも少しだけ緊張する。
「体調は、もういいのか」
「はい。すっかり」
「そうか。それは、よかった」
沈黙が落ちる。
何を話せばいいのかわからず、僕は手元のクッションをいじった。
「……あの、橘さん」
「蓮、でいい」
「え?」
「君には、そう呼ばれたい」
不意打ちの言葉に、心臓が大きく跳ねた。
顔が、カッと熱くなる。
れん、さん。
声に出すのが、ひどく恥ずかしい。
「……蓮、さん。いつまで、僕はここにいればいいんでしょうか」
思い切って、ずっと気になっていたことを尋ねた。
僕の問いに、蓮さんは少しだけ考えるそぶりを見せた。
「君が、ここにいたいと思うまで、だ」
「……」
「嫌か?私と一緒にいるのは」
彼の声には、かすかな不安の色が滲んでいるように聞こえた。
この、完璧で、何一つ不自由のない男が、僕の答えを待って、不安になっている。
その事実に、僕の胸がきゅっと締め付けられた。
嫌じゃない。
むしろ、心地いいとさえ思っている自分がいる。
彼の側にいると、心が安らぐ。
ずっと悩まされていた体調不良も嘘のようだ。
でも、それを素直に認めてしまったら、僕はもう、後戻りできなくなる。
彼のいない生活には、戻れなくなる。
それが、怖かった。
僕が答えられずにいると、蓮さんはふっと息を吐いた。
「すまない、困らせたな。君の気持ちの整理がつくまで、待つつもりだ」
彼はそう言うと、立ち上がろうとした。
その時、僕の口から、自分でも思ってもみなかった言葉が飛び出していた。
「嫌、じゃ……ないです」
蓮さんの動きが止まる。
彼は、驚いたように僕を振り返った。
「むしろ……ここにいると、すごく、安心します」
顔が熱い。
恥ずかしくて、彼の顔をまともに見られない。
「でも、怖いんです。あなたに、全部委ねてしまうのが。あなたなしでは、生きていけなくなってしまうのが」
僕の正直な気持ちだった。
弱くて、情けない、僕の本心。
それを聞いた蓮さんは、再び僕の隣に座ると、その大きな手で、僕の頭を優しく撫でた。
「それで、いい」
彼の声は、夜の静寂に溶けるように、穏やかだった。
「私なしでは生きていけないように、してやるのが私の役目だ。君は、ただ私に甘えていればいい」
その言葉は、傲慢で、独りよがりで、でも、どうしようもなく甘かった。
僕の心の最後の砦が、その言葉で音を立てて崩れていく。
僕は、蓮さんの胸に、そっと顔をうずめていた。
彼の心臓の音が、力強く、そして優しく、僕の耳に響いていた。
この城から、もう、逃げ出すことはできないのかもしれない。
いや、逃げ出したいと、もう思っていないのかもしれない。
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