1 / 2
前編 宇宙の虎
しおりを挟む
それは虎だった。
高度100キロメートルの上空。窓の外を見れば、青い惑星の海が広がっているのが見える高さ。弾道飛行による準軌道飛行機にある個室に現れたのは紛れもなく、一頭の虎だ。
「レイノルド・リベイン・チャン」
準軌道飛行機の持ち主である男の名を、虎は呼んだ。正確には、虎の首に取り付けられた首輪からその声は発せられている。
機内は既に無重力状態になっており、個室に現れた虎は宙に浮いていた。相対する男、レイノルドはと言うと、しっかりとした座り心地の合皮に包まれた高級チェアに、無重力状態で機内をふわふわと漂わない為のシートベルトを付けた状態だ。
レイノルドの所有する準軌道飛行機は成層圏を越え、中間圏を越え、高度100キロメートルに機体を打ち上げた後、宇宙空間を飛行することで地球上のどんな場所にでも、一時間以内に到着することのできる飛行機だ。
今時、それなりに値は張るが、中間所得層の庶民であっても大型旅客機として利用する時代だ。
レイノルドの所有するこれは個人機であり、操縦室を除いても十人以上が搭乗することのできる機体だが、現在は操縦士と部屋の外に居る筈のボディガード数名を除き、レイノルド以外の乗員はいない。
「助けを求めても無駄だ。機内には既にお前独りしかいない」
だが、虎は無慈悲にもレイノルドに現実を突きつけた。
「乗員は操縦士を含め、全て、皆殺した。レイノルド・リベイン・チャン。機内に残っている人間はお前しか居ない」
「お前は……」
虎はグルル、と唸り声をあげた。
「俺の本体は確かに人間だが、お前の目の前に居るのはただの虎だ。生体間脳接続インターフェイスで俺の思う通りに動いている俺の分身であることは確かだが」
虎は無重力状態の中を静かに泳ぎながら、レイノルドに近付いた。虎の温かい吐息が鼻先に掛かる程の近距離。
「このままお前の喉笛を噛み千切ることだって造作ないが、聴きたい。ロシア東南沿岸のラゾフスキーに造られた軍事基地をお前は覚えているか」
レイノルドは深く頷いた。当然だ。ラゾフスキーの軍事基地は、武装蜂起した日本人テロリストの鎮圧の為に、当時対テロ部隊の指揮を執っていたレイノルドが主導となって建設した。それが切っ掛けでレイノルドは救国の英雄と崇められ、こんな機体で世界のどこをでも一瞬で訪れることができるような、今の地位を手にしたのだから。
「私の迅速な判断により、日本人テロリストを一掃することが出来た。あの時奴らは北海道を占拠しつつ、太平洋側にしか目が行ってなかった。だからこそラゾフスキーからの攻撃に対応し切れなかったのだ。成程……」
あの時の日本人テロリスト掃討作戦から十年が経とうとしているが、まだ活動をしていた者達を全て炙り出すことが出来ていないのが現状だ。あの時恨みを抱いていた者であれば、どんなことがあってもレイノルドを殺しに来ることに、疑問を挟む余地はない。
それこそ、宇宙空間に虎を放ってまでも。
「お前はあの時の日本人の残党だな?」
虎はレイノルドの言葉を聞いた瞬間、大きく咆哮した。虎の叫びは宇宙全体に響き渡るかのように大きく、そして力強かった。そして呆れたように鼻息を鳴らす。
「見当違いも甚だしい。お前は何も覚えていないのか。あの時のことを」
「お前は何を……」
何を言っているのかレイノルドには分からなかった。あの戦争に勝てなければ、おそらく世界は焦土となっていた。だからこそ容赦ない銃弾の雨を敵に浴びせたのだ。敵に恨まれこそすれ、それ以外の人間から非難を浴びる謂れはない。
当然、頭の緩い平和主義者から鷹派のレッテルを貼られ戦争狂いだの好戦的過ぎるだの言われたことがないではないが、それでもこんな孤独な宇宙空間の中、今にも喉元に噛みつきそうな虎に睨みつけらるようなことをした覚えはない。
「最後のチャンスだ。レイノルド」
虎は低く唸り、レイノルドの目を見据えた。
「あの戦いで、お前が犠牲にしたものはなんだ。日本人の命。兵士の命、それ以外にも山程ある筈だ」
戦争なのだ。当然人は死ぬ。そんな当たり前のこと、レイノルドだってわかっている。救国の英雄と持ち囃されて社会的地位を加速度的に手に入れても尚、レイノルドは戦死者の弔慰だって、毎年欠かしたことはない。
「そうか。ならばもう、お前に問うことはない」
「待て」
虎は最期の一声を発しようとするレイノルドに構うことなく、彼の喉元に噛み付いた。部屋の外にいるボディガードや、準軌道飛行機の操縦士を殺した時と同じように、ゆっくりと牙を食い込ませ、血を啜る。
レイノルドはガタガタと身体を震わせた後に、首をガクンと落とし、動かなくなった。
虎は無人となった機体の中を泳ぎ、窓が見えるところまで行く。
窓の外には、地球が見えた。もうすぐ、操縦士の居なくなったこの機体は、人工知能の自動操縦によって地上へ帰るだろう。その前に、この雄大な景色を虎は一望した。
地球の表面は雲が掛かってはいるが、それでも雄大なロシアの大地を見下ろせる。
あそこでレイノルドとレイノルドの指揮する軍達、そして日本人テロリストが戦った。
レイノルドはあの戦いがなければ、世界は焦土に変わっていたと嘯いたが、そんな政治と世界情勢の機微を、虎は詳しく知ることはない。
だが、今日の為にレイノルドが唯一独りになるこの宇宙空間で、レイノルドの所業を思い出させる為に綿密な計画を立てて、虎は今ここに居る。
それもレイノルドにはどうでもいいことであったが。
「最期に、普通の虎なら決して味わえないこの景色を味わえよ。俺の最後の罪滅ぼしだ。……いや、こんなことエゴであることは俺だってわかってる。でも……すまなかった」
虎の首輪から独白が流れる。それは虎と直接繋がった、地上にいる虎の飼い主の、虎への別れの言葉であった。
パチリ。
小さな音が鳴る。音と共に、虎は身体をぶるぶると震わせた。もう、虎の意志は操られていない。自由である。
虎は先程とは打って変わり、おぼつかない足取りで機内を泳いだ。しかし、窓の近くを決して離れることはなく、ただひたすらに、青い地球の大地を、見下ろし続けた。
高度100キロメートルの上空。窓の外を見れば、青い惑星の海が広がっているのが見える高さ。弾道飛行による準軌道飛行機にある個室に現れたのは紛れもなく、一頭の虎だ。
「レイノルド・リベイン・チャン」
準軌道飛行機の持ち主である男の名を、虎は呼んだ。正確には、虎の首に取り付けられた首輪からその声は発せられている。
機内は既に無重力状態になっており、個室に現れた虎は宙に浮いていた。相対する男、レイノルドはと言うと、しっかりとした座り心地の合皮に包まれた高級チェアに、無重力状態で機内をふわふわと漂わない為のシートベルトを付けた状態だ。
レイノルドの所有する準軌道飛行機は成層圏を越え、中間圏を越え、高度100キロメートルに機体を打ち上げた後、宇宙空間を飛行することで地球上のどんな場所にでも、一時間以内に到着することのできる飛行機だ。
今時、それなりに値は張るが、中間所得層の庶民であっても大型旅客機として利用する時代だ。
レイノルドの所有するこれは個人機であり、操縦室を除いても十人以上が搭乗することのできる機体だが、現在は操縦士と部屋の外に居る筈のボディガード数名を除き、レイノルド以外の乗員はいない。
「助けを求めても無駄だ。機内には既にお前独りしかいない」
だが、虎は無慈悲にもレイノルドに現実を突きつけた。
「乗員は操縦士を含め、全て、皆殺した。レイノルド・リベイン・チャン。機内に残っている人間はお前しか居ない」
「お前は……」
虎はグルル、と唸り声をあげた。
「俺の本体は確かに人間だが、お前の目の前に居るのはただの虎だ。生体間脳接続インターフェイスで俺の思う通りに動いている俺の分身であることは確かだが」
虎は無重力状態の中を静かに泳ぎながら、レイノルドに近付いた。虎の温かい吐息が鼻先に掛かる程の近距離。
「このままお前の喉笛を噛み千切ることだって造作ないが、聴きたい。ロシア東南沿岸のラゾフスキーに造られた軍事基地をお前は覚えているか」
レイノルドは深く頷いた。当然だ。ラゾフスキーの軍事基地は、武装蜂起した日本人テロリストの鎮圧の為に、当時対テロ部隊の指揮を執っていたレイノルドが主導となって建設した。それが切っ掛けでレイノルドは救国の英雄と崇められ、こんな機体で世界のどこをでも一瞬で訪れることができるような、今の地位を手にしたのだから。
「私の迅速な判断により、日本人テロリストを一掃することが出来た。あの時奴らは北海道を占拠しつつ、太平洋側にしか目が行ってなかった。だからこそラゾフスキーからの攻撃に対応し切れなかったのだ。成程……」
あの時の日本人テロリスト掃討作戦から十年が経とうとしているが、まだ活動をしていた者達を全て炙り出すことが出来ていないのが現状だ。あの時恨みを抱いていた者であれば、どんなことがあってもレイノルドを殺しに来ることに、疑問を挟む余地はない。
それこそ、宇宙空間に虎を放ってまでも。
「お前はあの時の日本人の残党だな?」
虎はレイノルドの言葉を聞いた瞬間、大きく咆哮した。虎の叫びは宇宙全体に響き渡るかのように大きく、そして力強かった。そして呆れたように鼻息を鳴らす。
「見当違いも甚だしい。お前は何も覚えていないのか。あの時のことを」
「お前は何を……」
何を言っているのかレイノルドには分からなかった。あの戦争に勝てなければ、おそらく世界は焦土となっていた。だからこそ容赦ない銃弾の雨を敵に浴びせたのだ。敵に恨まれこそすれ、それ以外の人間から非難を浴びる謂れはない。
当然、頭の緩い平和主義者から鷹派のレッテルを貼られ戦争狂いだの好戦的過ぎるだの言われたことがないではないが、それでもこんな孤独な宇宙空間の中、今にも喉元に噛みつきそうな虎に睨みつけらるようなことをした覚えはない。
「最後のチャンスだ。レイノルド」
虎は低く唸り、レイノルドの目を見据えた。
「あの戦いで、お前が犠牲にしたものはなんだ。日本人の命。兵士の命、それ以外にも山程ある筈だ」
戦争なのだ。当然人は死ぬ。そんな当たり前のこと、レイノルドだってわかっている。救国の英雄と持ち囃されて社会的地位を加速度的に手に入れても尚、レイノルドは戦死者の弔慰だって、毎年欠かしたことはない。
「そうか。ならばもう、お前に問うことはない」
「待て」
虎は最期の一声を発しようとするレイノルドに構うことなく、彼の喉元に噛み付いた。部屋の外にいるボディガードや、準軌道飛行機の操縦士を殺した時と同じように、ゆっくりと牙を食い込ませ、血を啜る。
レイノルドはガタガタと身体を震わせた後に、首をガクンと落とし、動かなくなった。
虎は無人となった機体の中を泳ぎ、窓が見えるところまで行く。
窓の外には、地球が見えた。もうすぐ、操縦士の居なくなったこの機体は、人工知能の自動操縦によって地上へ帰るだろう。その前に、この雄大な景色を虎は一望した。
地球の表面は雲が掛かってはいるが、それでも雄大なロシアの大地を見下ろせる。
あそこでレイノルドとレイノルドの指揮する軍達、そして日本人テロリストが戦った。
レイノルドはあの戦いがなければ、世界は焦土に変わっていたと嘯いたが、そんな政治と世界情勢の機微を、虎は詳しく知ることはない。
だが、今日の為にレイノルドが唯一独りになるこの宇宙空間で、レイノルドの所業を思い出させる為に綿密な計画を立てて、虎は今ここに居る。
それもレイノルドにはどうでもいいことであったが。
「最期に、普通の虎なら決して味わえないこの景色を味わえよ。俺の最後の罪滅ぼしだ。……いや、こんなことエゴであることは俺だってわかってる。でも……すまなかった」
虎の首輪から独白が流れる。それは虎と直接繋がった、地上にいる虎の飼い主の、虎への別れの言葉であった。
パチリ。
小さな音が鳴る。音と共に、虎は身体をぶるぶると震わせた。もう、虎の意志は操られていない。自由である。
虎は先程とは打って変わり、おぼつかない足取りで機内を泳いだ。しかし、窓の近くを決して離れることはなく、ただひたすらに、青い地球の大地を、見下ろし続けた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
2
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる