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第五章
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しおりを挟む夕食時、レンは職員が声をかけに行っても食べに来ず、職員も仕方がないとすぐに諦めていた。
後から理由を聞くと、学校で何やら問題を起こし、かなり強めに叱られたらしい。施設に帰ってきてからも不安定で、物に当たったり、施設を飛び出したりと散々で、かなり手を焼いていたそう。
その原因をもう少し深掘りした方が良かったのかもしれないと思ったが、恐らく逆上するであろう未来しか見えず、今の私にはあれで良かったのだと思い直した。
向き合ったことによる疲れからか、歯磨きやシャワーを済ませ、ベッドに横になると、すぐに眠ってしまった。
明日の放課後は予定が入っていたため、早めに起きようと目覚ましをセットしてから寝るつもりが、それすらも忘れてしまうほど。
幸い、目が覚めると、窓の外は紫色と水色、そして淡い黄色の絵の具が水に溶かされたような、幻想的な明るさになっており、予定よりも早めに起きることができたと悟った。
私は部屋を出て、顔を洗いに行く。昨夜、大盛りのカレーを食べたせいで、浮腫んでいる気がしてならない。マッサージをして早く浮腫みを落とさなければ。
そんな事を考えながら洗面所へ向かって廊下を歩いていると、一つ扉がそっと開いた。
一か月前の出来事を思い出す。中から出てきたのは、前髪にヤシの木のような寝癖をつけ……てはいなかったが、あの日と同じく寝起きで目を腫らした女の子だった。
確か、アミちゃんと呼ばれていた気がする。
この一ヶ月でわかったが、彼女は小学校低学年の割には大人びていて、寡黙で、読書を好むような真面目な女の子。
人と群れることがあまり好きではないようで、ほとんど自室に閉じこもっている印象だった。
「お、おはよう」
目が合ったため、私が挨拶をすると、唇を数ミリ開いたものの、すぐにきゅっと閉ざし、目を逸らされてしまった。
食事も離れた席でとる事が多いため、ほとんど話した記憶がなく、緊張感があるのだろう。
そのままアミちゃんは、扉を閉めて、洗面所の方へとスタスタ歩いていった。反対方向なら良かったものの、残念なことに目的地が一緒なため、気まずい雰囲気が流れながらも、私は彼女の後ろをついて行く。
それなりに広めの洗面所で、彼女は顔を洗い始めた。間に入るわけにもいかず、私は歯ブラシを取り出して歯磨きを始める。
水が流れる音と、ブラシが歯を擦る音だけが響いていた。
アミちゃんがタオルで顔を拭き始めたのと同時に、私は口を濯ぎ、無言で場所を交代する。そしてアミちゃんは歯磨きを、私は洗顔を始めた。
違和感のない連携に、まるで何年もこうしてきたかのような息の合い方だった。
五分も経たずに私は顔を拭き、アミちゃんも歯磨きを終える。この子は以前もかなり早くに起きていたが、早起きをして一体何をしているのだろう。
そんなことを考えながらも、髪を梳いて浮腫み取りのマッサージをするために、自室へ引き返そうとした時だった。
「絵美は、ここ嫌い?」
声のした方へ振り返ると、アミちゃんが低い身長から視線だけをすっと持ち上げて、私の目を見つめていた。
「え? ここ?」
初めてアミちゃんの方から話しかけてくれたことに驚いてしまい、質問をよく聞き取ることができなかった。
アミちゃんはゆっくりと頷き、また口を開く。
「施設のこと。この前まで全然幸せそうじゃなかったし、喧嘩ばかりしてたから聞いた」
表情一つ変えることなく、まっすぐな目でアミちゃんはこちらを向いていた。
純粋な質問のはずなのに、どこか深い部分に探りを入れられている気がして、少し恐怖心を抱いてしまう。
「嫌いじゃ……ないよ」
「そうなの? じゃあ好き?」
「好き……かどうかは、わからないかな」
アミちゃんは、ふーんと呟き、洗面所の鏡に映る自分を見つめた。
彼女がどうしてこんな質問をするのか、意図が全く掴めない。
普段、施設の人とも関わることを拒否している彼女だ。アミちゃんは施設が嫌いだからこんなことを聞くのだろうか。仲間を探しているのか。
「アミはね、ここ好きなんだ」
唐突に、彼女は言った。予想外の言葉に、私は何も言えなくなる。
彼女は嬉しくも悲しくもない無の表情で、ただ自分が考えたことを口にしたような雰囲気だった。
「ここは殴られることもないし、ご飯をお腹いっぱい食べられるし、真っ暗で寒い中、外で朝が来るのを待つこともなく、ふかふかのベッドで安心して寝られる。大人も子供も、問題を起こさなければみんな優しいし、安心できるから好き」
短い会話なのに、彼女の言葉から見えてくる生い立ちはとても悲しかった。本当なら、そんな世界、知らずに生きるべきなのに。
「だけど、絵美やレンが喧嘩したり、大声を出している時は思い出しちゃう。だから基本、部屋に閉じこもっていたり、皆と接触するタイミングをずらしたりしてたの。多分、みんなアミのこと、大人しい子って思ってるだろうけど、本当はただの臆病者なんだ」
鏡を通して、アミちゃんと目が合った。窓から差し込んできた陽の光が、鏡に反射して眩しく、思わず目を細める。
「絵美も同じだと思ってた。思ったことを言葉にできなくて、態度や手に出すことしかできないって。だから勝手に同情してた。でも、最近の絵美はそうじゃなくなったよね」
アミちゃんは再び私の方へと顔を向ける。朝日が昇り、アミちゃんの背中から神々しい光が溢れていた。
私はごくりと唾を飲む。
「昨日、見ちゃったの。レンと絵美が話してるところ。怖かったけど、最後まで聞いてしまうくらい、絵美の言葉が胸に刺さった。それから思ったの。思いをちゃんと言葉で伝えられる絵美は、凄くかっこ良いって。同情じゃなくて、アミは今、絵美に憧れてるって」
耳から入る幼い透き通った声は、心の中に春をもたらしたかのように、一気に胸が熱くなる。
施設に来た翌日、アミちゃんを見かけた時は、嫌われていると思ったのに、そうではなかったのだ。
アミちゃんの表情は、逆光で見えなくなりながらも、微笑んでいるように思えた。
麻仲に指摘されたあの日から、ようやく私は自分の過ちに気がついた。
簡単には変わることはできなくて、上手く言葉にできないこともたくさんあった。
それでも意識をして、変わりたいと思ったから、思いを正しく言葉にできるよう頑張った。
小さな一歩一歩の積み重ねで、変わることができているのかわからなくて、不安な時もあった。
昨日のレンとのことだって、伝えて良かったと思っていたけれど、心のどこかで、言わなくても良かったんじゃないかと考えている自分もいた。
思いを口にすることだけが本当に正しいのか、なんて無意識のうちに不安を抱えていた私の存在を認識したのだって、今アミちゃんの言葉を聞いて、肩を撫で下ろすような感覚を覚えてからだ。
本当に言葉で伝えて良かった。昨日はレンに響けと思って言ったことが、こうして本人以外にも影響を与えるものなのだと知って、嬉しくて堪らない。
「ありがとう、アミちゃん。そんな風に思ってくれて嬉しいよ」
私はそっと、アミちゃんの頭に手を伸ばした。子供相手は慣れていないため、どんな反応が正解かはわからないが、シャボン玉に触れるように、優しく頭を撫でる。
アミちゃんは一瞬、びくっと肩に力が入り、目を閉じるも、すぐに開いて、私を見上げた。
「……アミも、絵美みたいになりたい。どうしたら良い?」
「なれるよ。初めは怖いかもしれないけど、自分の本当の気持ちに気づくの。そしてそれを認めて、一言ずつで良いから、口に出してみて。焦らず、ゆっくりでいいんだよ。勇気を出して、思いを伝えられるようになったアミちゃんは、きっと誰かの心を救う言葉を紡げるようになると思う。だって今、私もアミちゃんの言葉を聞いて、嬉しくなったから」
私が微笑むと、アミちゃんは照れくさそうに視線をずらし、笑顔を抑制させるかのような形で、不器用に口角を上げていた。
「わかった。でもその手、やめて」
「あ、ごめんごめん」
アミちゃんは私の手首を掴み、自分の頭から下ろした。私も謝りながら離れる。
私の反応が面白かったのか、ふふっと笑い、アミちゃんは部屋に向かって、廊下を走っていった。
ペタペタと床に張りつく裸足の音が、まだ夜が明けたばかりの施設内に響く。
私は変わったんだ。やり直しを選んで、私は一歩成長することができた。
やり直しをして、本当に良かった。
私も自室へ向かい、歩き出す。今日は放課後に麻仲とお茶をして、高羅の部活が終わり次第ディナーデートだ。
胸がドキドキとして、脈が早くなる。
今日は盛りだくさんで、運命が変わる特別な日だ。
どうか、最高の一日になりますように。
朝日がよく見える自室の扉を開け、私は支度を始めた。
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