Ms.バタフライと七人のG(爺)

薪原あすみ

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Ms.バタフライと七人のG(爺)

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 蝶子がホステスのバイトを始めたのは大学二年生の頃のことだ。   初めはただ大学の先輩に薦められたのと、割の良さに惹かれてのことだったが酔った客からもそうでない相手からも普通では出来なさそうな深い話を聞けたことがやめられない理由だった。
 もっともそれが事実かどうかは重要ではない。人の心のあやというか、そういったものに興味を惹かれたのである。
 しかし耳にした話を雑談として蝶子が実家で語る内容に、彼女の母はいつも否定から入った。
「馬鹿ねえ、そんなの本当なわけないでしょ」
「あのね、お母さん。私は本当のこととして話してるわけじゃないの」
 そう、いつも蝶子は『こんな話を聞いて笑ってしまった』あるいは『感心した』という意図で語っていたのだ。
「どんな嘘だってどこかに人の真実はあるんだから。例えそれがたったの一%だってね。」
「……あんたってば、本当にお父さんそっくりね」
 蝶子は父を高校生の頃に亡くしている。もっとも蝶子とその弟の進学費用、そして妻の生活費は保険金含め十分に確保してくれていたので彼女は働かなくとも生活出来ていた。ただ、高校卒業以降の子供らの生活費については出来るだけ自力で何とかしなさいというのが遺言だった。
「お母さんが融通利かなすぎるのよ」
 正論を言うといつも母は蝶子のことを父に似ていると言って非難する。
「ああもう、わかったわよ。ところで就活はどうなってるの?」
「……頑張ってはいるけど、イマイチ」
 大学の単位は順調だし、試験の成績も悪くない。しかし、どこかパッとしない状態が続いていた。
「そういうところは、私に似ちゃったのかしらね」
 蝶子の母は某お嬢様大学を出た後、叔父の経営する会社で秘書として拾われた。やはり成績は悪くなかったのにOLにはなれなかったからだ。
 ただ、おじの秘書として働くうちまだ中小企業の平社員だった父に見初められ猛アタックされ結婚したという経緯がある。
「お母さんのおじさんの会社がまだあったらよかったのに」
「一番業績良かったころに手放しちゃったからね」
 まるで経営はもう飽きたと言わんばかりに、あっさり他社に売り払い大金を持って海外移住した。
 今ではもう名前も業種も変わっていて移転しており、跡形もない。
「バイト仲間も調子良くないみたいで、みんな焦ってるわ」
「まあ、無理はしないで頑張んなさい。いいとこ入ろうなんて焦らなくていいから。あと、もし良いことあっても浮かれすぎないようにしなさい。誰がどこで足を引っ張ろうとするかわからないんだから」
 その忠告をいつもの母の皮肉だと思ってしまったが、後にそうではないことを思い知る。

 蝶子の状況は、その後もあまりよろしくはなく厳しい展開を迎えた。それというのも、ホステスのバイト仲間である一人が蝶子に関する悪評を意図的に流したのだ。その噂はどこからともなく広がり、蝶子がようやく手に入れかけていた中小企業の内定にまで影響を及ぼした。採用担当者の耳に届いた悪評により具体的な事実とは関係なくただただ彼女の印象を曇らせるのに十分だった。
結果、内定は取り消され蝶子の就活はまた振り出しに戻ってしまったのである。

 蝶子はその知らせを受けたとき、大学のキャンパス内のカフェで一人ブラックのアイスコーヒーを前に座っていた。正直、そのメールが来る前に嫌な予感はあった。バイトを辞めても時々お茶をしていた同級生から不穏な話を聞いていたからだ。
 彼女は要領良く早めに内定をもらっていたのだが、蝶子と一緒にまだ残っている他の子が店外デートと思しき状況で何処かの会社の人と蝶子の噂話を大声でしていたという。それも聞くに堪えない内容だったと。
 例えば蝶子の名前についても『まさに夜の蝶』だとかバイトとは言え
 水商売をしていることに引っ掛けて『Ms.バタフライって先輩たちがが呼んでるのよ』と下品な笑い方をしながら話していたそうだ。
 そもそもいくらバイトであっても、蝶子のバイト先では同伴前以外の店外デートは禁止されていた。
 バイト仲間からの裏切りとも言える行為に、最初は怒りを感じていたものの、次第に『どうしてこんな目に』という虚無感が押し寄せてきた。恨まれるようなことをした覚えはない。きっと母にこんなことを話せばまた『お父さんそっくりね』などと非難がましく言われるか『恨まれるようなことをした覚えはないって、本当に?』と尋ねられるかあるいは『私に似ちゃったのかしら』よ自嘲気味に笑われるか。どちらにせよ、励ましにはならないだろうと蝶子はため息をついた。

 一方で、悪評を流した同級生は同じ店で働く別の仲間(本職ホステス)や馴染み客たちと笑いものにしているのかも知れなかった。
 蝶子にはその動機がわからない。ただ、就活の焦りから来る嫉妬か、あるいは単なる意地悪、嫌がらせか。蝶子が 客から聞いた奥深い話に感じた『人の心のあや』が、ここでは全く違う形で現れていた。皮肉にも、彼女が興味を持っていた人間らしさの欠片がこんな形で自分を傷付けることになるとは思いもしなかっただろう。
 蝶子はその夜、キャスト控室で鏡を観ながら考えていた。自分の持論『どんな嘘にだってどこかに人の真実がある』が、自分に言い聞かせてきたその言葉が今は重く響く。
 内定取り消しのショックと裏切りの痛みを抱えながらも、彼女はどこかで立ち直るきっかけを探そうとしていた。母や亡父の影を背負いながら、蝶子はこの逆境をどう乗り越えるのだろうか。まだ見えないその先を、彼女は静かに見据えていた。

 蝶子を取り巻く悪評が広がりを見せる中、彼女がホステスとして働く店の店長は蝶子に特別な才能を見出していた。変な噂と内定取り消しのことも知ったうえで、ある日店長はこう切り出したのである。
「蝶子ちゃん、このまま大学卒業したとして、就活で出勤が減ったとしても繁忙期並みのお給料保障するからホステス続けてくれないかな」
「え……?」
「もちろん君の就活に役立つよう、変な意味じゃなく大手企業の重役や人事関係者を紹介するよ。だから良い御縁が   出来て仕事が決まるまで、ね?」
 店長の言葉には熱意が籠もっていた。蝶子を本気で引き留めたい気持ちが伝わってくる。
それは有り難い。卒業と同時に無職になるのは不安だし、なんだかんだでホステスというこの仕事を楽しんでいる自分がいた。まだそれは汚い部分をそこまで見ていないせいもあるのだろうが。
 水商売というと世間的には敬遠されがちだが、確かに人の心の機微を知る機会を与えてくれた。だが、かといってこのまま続けるのは不安が残る。
 だから店長の申し出はまさに渡りに船だった。
 結局、蝶子は一か八かである条件を出して、それを飲んでくれるなら提案を受け入れると店長に告げた。
「また性格悪いって、言われそうですけど……」
「いや、蝶子ちゃんが悪くないのは皆知ってるから。むしろルール違反したのはあっち。どうせやめてもらうつもりだったから」
 そう、店長は蝶子の頼みを聞いてくれたのである。蝶子の悪評をバラ撒いた例の同期の大学生は、次のシフトで出勤してきた日の開店前にクビを言い渡された。
抗議はしたようだが、蝶子に知らせてきた子が隠し撮りしていた動画で何も言えなくなったらしい。

 嫌がらせへの仕返しも出来て悩み事は一つ片付いたが、まだ大きな問題が残っていた。それは、母の説得だ。
 ホステスを大学卒業後ももうちょっと続けると言えば、きっといい顔はしないだろう。……もっともそれについても切り札はあるのだが。
 蝶子は店長にあらためて待遇などを書面にしてもらった数日後の昼、意を決して母に電話をかけた。
「あ、お母さん。実はね、この前の内定取り消しのことで店長から頼まれて、卒業してももうちょっとホステス続けることになったの」
『……本気なの?』
 案の定、母の呆れた声が耳に刺さる。
「うん。だって昼職に切り替えてバイトしながら引き続き就活するんじゃ金銭的に大変だし、そりゃ貯金はあるけど何時までかかるかわからないし?」
『それはそうだけど……』
「それにね、仕事柄いろんな企業のおえらいさんも来るから、店長のピックアップで紹介してくれるんだって。内定出た会社よりもっと上のとこ」
 これは、切り札そのいちだ。
『……信頼出来るの?』
「店長は本当に良い人よ。信頼出来るし、それにね」
 何よりも現金な母には、これほど有効な手だてはない。
「私が就活のせいで欠勤することになっても、繁忙期のお給料保障してくれるって。だから家に入れられるお金がもっと増えるよ」
『え、どのくらい?』
 かかった、と蝶子はにやりと笑んだ。
「んー、安めのブランドバッグ一個分くらいかな」
 店長が書面にしてくれた内容を眺めながら、ちょっと曖昧に告げる。
『それじゃイマイチわかんないわよ』
 母の苛立ちが、蝶子には手に取るようにわかった。
「……やや変動あるけど、二十万弱」
『…………』
 母は黙り込む。その瞬間、蝶子は勝利を確信したのだった。

 こうして、蝶子は単なるバイトから一時的にではあるがホステスを職業とすることになったのである。
 大学に正式な書類を提出する際、たまたま学生課に蝶子の悪評を流した元バイト仲間も来ており『何故私が店をクビにならなければいけないんだ』と食ってかかられたが、蝶子は涼しい顔でこう言ったのだ。
「自分の胸に聞いてみれば? 言っておくけど証拠動画のことも教授は知ってるからね」
「…………」
 彼女の苦虫を噛み潰したような表情で、蝶子はやっと本当に溜飲を下げた。おそらくバイトでも何でも一応の進路が定まっていないことを怒られたのだろう。もっともそれはそれで大学の教授の手伝いという名目の救済処置はあるのだが、バイトと言うにしても酷く発給な上激務なので嫌がる学生が殆どだった。しかも数カ月ごとの更新で『使えない』と判断されれば直ぐに契約を打ち切られ二度と復帰出来ないというもの。
とは言え卒後時の仕事さえ決まっていれば、一応大学側も学生側も面子は保たれるのだろうが。

 それからしばらくして蝶子が大学を卒業し、ホステスとして働き始めて半年が経った。
最初は仕方なく引 き受けたこの仕事だったが、 彼女は意外にもその環境に適応して いった。客の中でも特に印象的だったのが、店に通う七人の 『爺』 たち-……いずれも大企業の重役や相談役を務める老人たちだ。彼ら は店長に紹介されたからというだけではなく不思議と人を惹きつける蝶子に目をかけ、 彼女の鋭い観察眼と気配り、 そして何より 『そこそこいい大学を出た』その 頭脳を評価した。
「蝶子ちゃん、こんなところで燻ってるのはもったいないよ」 と、ある晩、石油関連企業の元役員である山田爺が言った。 
「でも、就職活動じゃどこもダメで............」 
と返すと、隣にいた製薬 会社の顧問・箱根爺が笑いながら割り込んだ。
「そりゃ、君が面接で正直すぎるからさ。 もっと世渡り上手にな らなきゃ」
 そんな会話がきっかけで、七人の爺たちは蝶子に『昼の世界』への 橋渡しを始めた。 山田爺が知り合いの部長に推薦状を書き、富士田爺が業界のコネを駆使し、 ついに蝶子は大学卒業後一年ほどで誰もが知る大手商社「東 陽トレーディング」のOLとして転職を果たした。 ホステス時代の 給与保証は終わりを迎えたが、安定した昼の仕事と七人の爺たちの 後ろ盾を得て、蝶子は新たな一歩を踏み出したのだ。
 ところが、順風満帆とはいかなかった。 入社早々、 彼女は直属の上司である営業部の高原英司と衝突することになる。
 英司は実は社長の息子で東洋トレーディングの跡取りだった。年齢は三十歳そこそこ。仕事は出来るが性格は難アリで、頑張っている蝶子の丁寧な口調を「媚びてるみたいで気持ち悪い」と笑うのだ。 しかし蝶子も負けてはいない。
 「古臭いって言うなら、新しいアイデアを出して くださいよ」
と言い返し、二人は初対面から水と油の関係になった。
「何だ、あの女。 ホステス崩れが生意気言うな」
と陰で悪態をつ く英司に対し、蝶子は内心で苛立ちつつも冷静さを保った。七人の爺 から学んだ世渡りの術……感情を抑え、 相手の弱点を見極める姿勢 が、彼女を支えていたのだ。
 ある日、重要なクライアントとの商談が控えていた。英司は自信 満々にプレゼンを進めていたが、クライアントの質問に詰まり、 顔を真っ赤にして立ち往生。 すると、隣にいた蝶子がすっと立ち 上がり、淀みなくデータを補足し、クライアントの信頼を取り戻 した。その場に居合わせた部長が 「君、いい仕事するね」
と褒めると、英司の表情はさらに歪んだ。
 その夜、蝶子はいつものバーで7人の爺たちと一杯やっていた。 
「高原の坊ちゃんとは相性悪いみたいだね」 
と、 山田爺がニヤリ と笑う。
「水と油ですよ。 あんな我儘な人、初めてです」
と愚痴をこぼす 蝶子に、佐藤爺が言った。
「でもね、蝶子ちゃん。 ああいう奴を味方にできれば、君の人生 もっと楽になるよ。敵のままなら、ただの厄介者だ」
 蝶子はグラスを傾けながら考えた。英司との関係を修復するべき か、それとも距離を保ちつつ自分の力を磨くべきか。 七人の爺たち が築いてくれた人間関係は確かに彼女の財産だったが、 最後に道 を切り開くのは自分自身だ。夜の世界で培った忍耐と、昼の世界 で試される決断力……その両方を手に、蝶子は次の戦いに挑もうと 決意したのだった。

 その日は、蝶子にとって珍しい休日だった。 実家の法事で会社を 休み、久しぶりに地味な黒のワンピースと薄化粧で過ごしてい た。法事が終わり、車で帰路についていると、道路脇でスーツ姿 の男が苛立った様子で電話をかけている姿が目に入った。よく見 ると、それは高原英司だった。
『どうしたんだろう?』と気になりつつも、蝶子は一度はそのま ま通り過ぎようとした。だが、ちらりと見えた彼の 焦った表情 になぜか放っておけず、 車をUターンさせて戻った。
「高原さん、大丈夫ですか?」
と窓を下げて声をかけると、 英司は 一瞬驚いた顔をした後、
「お前……蝶子?」
と目を丸くした。 
「はい。たまたま通りかかったんですけど、何か困ってます?」
 英司は渋々事情を説明した。 夕方の重要な商談に向かう途中、 社用 車のタイヤがパンクしてしまい、代わりの車が間に合わないのだ という。
「こんな時に限って……」
と毒づく彼を見て、蝶子はため息 をつきながら言った。
「仕方ないですね。乗ってください。商談の場所まで送ります よ」
車に乗り込んだ英司は、助手席で落ち着かない様子だった。蝶子が いつもより化粧も控えめで、派手なホステス風の雰囲気がないことに気づいた彼は、思わず口を滑らせた。
「いつもそんな感じなら良いのに。..……いや、その、なんでもない」 
 蝶子はハンドルを握る手を一瞬止めた。 
「え?」 
と聞き返すと、英司 は慌てて窓の外に目を逸らした。
「いや、別に...お前、 普段が派手すぎるってだけだよ」
 その言葉に、蝶子の中で何かが繋がった。 高原が自分を嫌ってい た理由--それは、 彼女の 「ホステス崩れ」と揶揄される派手な外 見や態度にあったのだ。 確かに、夜の世界で培った華やかなメイ クや服装が、昼のオフィスでは浮いてしまうこともあったかもし れない。黙って運転を続ける蝶子に、英司は気まずそうに付け加え た。
「まあ、今日は助かったよ。 サンキュな」
 その日の商談は無事に成功したらしい。翌日、オフィスで蝶子が デスクに座っていると、 英司が不自然なほどぎこちなく近づいてき た。 そして、 紙袋を差し出しながら言った。
「昨日のお礼だ。...受け取っとけよ」
 中を見ると、大人っぽいデザインのブランドバッグが入ってい た。派手さはないが、上質で洗練されたものだ。蝶子は驚きつつ も、
「ありがとうございます」
と素直に礼を言った。 英司は 
「別に大 したもんじゃないから」
とぶっきらぼうに背を向け、 自分の席に 戻っていったのである。

 その日から、蝶子は少しずつ自分を変えようと思った。 派手な赤 いリップや濃いアイラインを控え、ナチュラルなメイクにシフ ト。服装も、ホステス時代に好んだタイトなスカートから、シン プルで落ち着いたパンツスーツに変えた。 すると、周囲の反応も 変わり始めた。 部長からは
「最近、雰囲気が柔らかくなったね」
 と褒められ、同僚たちとも打ち解ける機会が増えた。
 そして、何より高原との関係が微妙に変わっていった。 ある日、 会 議の後に英司が蝶子に近づき、 「お前、この前の資料、 よくまとまっ てたぞ」
と珍しく褒めた。 蝶子が 
「ありがとうございます」
 と笑 顔で返すと、彼は一瞬目を逸らし、
 「まあ、頑張れよ」
とだけ言って去った。以前の刺々しさは薄れ、ぎこちないながらも互いを め合う空気が生まれつつあった。
 夜、いつものバーで七人の爺たちにその話をすると、 山田爺が 細めて言った。
「ほぉ、 高原の坊ちゃんを味方に引き込んだか。やるじゃない か、蝶子ちゃん」
「まだ味方ってほどじゃないですよ」
と苦笑する蝶子に、佐藤がグラスを掲げて言った。
「いやいや、 敵じゃなくなっただけでも大進歩さ。 これからもそ
の調子でな」
 蝶子はバッグを手に持つ英司の姿を思い出し、ふと微笑んだ。 夜の
世界で学んだ柔軟さと、昼の世界で試される自分らしさ。その両 方を少しずつ調和させながら、彼女は新たな一歩を踏み出してい た。


 蝶子が東陽トレーディングに入社してから一年と数ヶ月が過ぎていた。 彼女は仕事に慣れ、落ち着いたイメージが社内外で評判を呼んでい た。派手さを抑えたスタイルが功を奏し、クライアントからも 『信頼感がある』と好評で、営業成績も安定。 七人の爺たちからも 「昼の世界でも立派にやれてるじゃないか」
と褒められるほど だ。そして何より、 高原英司との関係も改善し、 時には業務後に軽 い冗談を交わすような間柄になっていた。
 ある金曜の夕方、 英司が何気なく蝶子を誘った。
「飯でも食わない か? 近くにいい店があるんだよ」
 特別な意味はないのだろうと思いながらも、蝶子は
「いいですね」
と気軽に応じた。
 連れて行か れたのは、オフィス街から少し離れたシックなレストラン。 
 二人 で料理を楽しみながら仕事の話をしていると 突然、 見知らぬ女 性がテーブルに近づいてきた。
「あなた、誰?」
と鋭い声で問う彼女に、蝶子が戸惑っている と、次の瞬間、グラス一杯の水が蝶子の顔に浴びせられた。髪も 服もお気に入りのバッグもびしょ濡れになり、 呆然とする蝶子。 
 店内がざわつき、 英司が 立ち上がって女性を睨みつけた。
「何だよ、 お前!いい加減にし ろ!」
 女性は20代後半くらいで、派手なドレスに身を包み、怒りに震え ていた。
「いい加減なのはそっちでしょ、 英司君! この女は誰?」
女の名前は美咲。半年以上前、 英司の見合い相手として紹介された 女性だったが、 彼は一度会っただけで 『合わない』と感じ断っていた はずだった。しかし、 美咲は 『いずれ自分が社長夫人になる』と 勝手に思い込み、 英司の周辺で行動を嗅ぎ回り未だに執着していたらしい。 そしてこの日、偶然レストランで蝶子と英司が一緒にいるのを見て、デー トだと勘違いし、衝動的に暴挙に出たのだ。
 英司はすぐさま店員に美咲を退出させ、 蝶子に謝った。 「悪い、 巻き 込んじまって......。 すぐ片付けるから」と言い、濡れた蝶子の服を気 遣って自分のジャケットを貸してくれた。 帰り道、 気まずい空気の 中、英司は珍しく真剣な口調で言った。 「あいつと、 俺がちゃんと縁を切れてなかったせいだ。 親父と紹介者に抗議しとく。 もう二度と こんなことさせない」
その言葉に、蝶子は
「気にしないでください」
と笑顔で返したも のの、心の中では複雑な感情が渦巻いていた。英司の態度に、ただ の上司と部下以上の何かを感じたのだ。一方の英司も、濡れた髪を 拭う蝶子の姿を見ながら、彼女の落ち着いた強さと優しさに改め て気づかされていた。
 翌週、英司は美咲の父親と紹介者に連絡し、きっぱりとした態度で 縁談の終了を宣言。 美咲からの連絡も途絶え、事態は収束したか に見えた。しかし、あの夜の出来事がきっかけで、二人の間に微 妙な変化が生まれていた。 英司は蝶子に業務外でも声をかけることが増え、蝶子も彼のぶっきらぼうながら誠実な一面に惹かれ始めていた。
ある日、残業で二人きりになったオフィスで、英司がふと言った。 
「お前、最近よくやってるよな。..……俺、あの水かけ事件の後、お前 が嫌いじゃなくなったっていうかさ」
 蝶子は書類から顔を上げ、彼をまじまじと見た。
「私も...……高原さん がそんな悪い人じゃないって、 分かってきました」
 一瞬の沈黙の後、 二人は照れくさそうに笑い合った。
その夜、バーで七人の爺たちに報告すると、 山田爺がニヤニヤしな がら言った。
「おやおや、 高原の坊ちゃんと恋仲に発展か?」
「違いますよ。そ、そんなんじゃ……ありません」
と慌てる蝶子に、佐藤爺がグラスを掲げて笑っ た。
「まあ、敵から味方、 そしてそれ以上か。 人生ってのは面白い もんだな」
 蝶子は頬を赤らめつつ、心の中で認めていた。 英司への気持ちが、 少しずつ芽生えていることを。 そしてそれは、 英司も同じだった。 夜の世界から昼の世界へ、 そして新たな関係へと--蝶子の旅は、 まだまだ続いていくのだった。

 高原英司は蝶子との関係を急がず、ゆっくりと進めようとしてい た。 レストランでの一件以来、二人の間には確かな信頼感が生ま れ、業務外でも自然に会話が弾むようになっていた。蝶子もま た、彼のペースに合わせることに心地よさを感じていた。焦る必 要はない――そう思っていた矢先、 社内外に奇妙な噂が広がり始め た。
「蝶子が社長の跡取りと付き合っている」
  誰が言い出したの か分からないその噂は、あっという間に広がり、二人の関係に影 を落とした。

 ある日の昼休み、 同僚が冗談めかして 
「お似合いだよね、高原さ んと」
と言うのを耳にした蝶子は、 顔が熱くなるのを感じた。英司 と目が合うと、 彼は気まずそうに視線を逸らし、
「噂なんて馬鹿ら しいな」
と呟いた。それ以降、二人の会話は減り、オフィスでの 空気はぎこちないものに。 英司は
「ちょっと考えることがあってさ」 
とだけ言い残し、遠方の出張に出てしまった。それから連絡は途絶え、蝶 子は不安を押し殺しながら日々を過ごした。

 数ヶ月が過ぎたある日、衝撃的な知らせが蝶子の耳に届いた。 
「高原が会社を辞めるらしい」
 部長が何気なく漏らしたその言葉に、蝶子は凍りついた。理由も分からないまま、彼が東陽トレーディ ングを去るという事実に頭が混乱した。
いてもたってもいられず、蝶子は彼のマンションを訪ねる決意をした。
 しかし、ドアに貼ら れた『入居者募集中』の張り紙を見て、 彼女の心は砕けた。 英司はもうここにはいない。
ショックから翌日、蝶子は会社を欠勤した。 部屋で膝を抱え、涙 を堪えていると、ポストに一通の手紙が滑り込んだ。 不思議に思 いながら封を開けると、そこには見慣れた筆跡……英司からの手紙だった。
『蝶子へ。突然いなくなって悪かった。噂が広がって、お前とどう向き合え ばいいか分からなくなった。 俺は東陽トレーディングを出て、 新 しい道を選んだ。 今、 あるベンチャー企業の立ち上げに誘われて 社長を引き受けたんだ。リスクはあるけど、自分の力で何かを築 きたいと思った。……それと、お前にずっと言えなかったことがあってさ。俺、お前が好き だ。 あの水かけ事件の時から、いや、もしかしたらもっと前か ら。お前と一緒にいると、 自分がもっとまともな人間になれる 気がした。もしよかったら、俺の会社で一緒に働かないか?お 前なら、絶対に力になってくれると信じてる。
返事は急がなくていい。俺、待つから。英司』
 手紙を読み終えた蝶子は、涙が溢れるのを止められなかった。不 安と混乱が一気に解け、同時に胸が熱くなった。 英司が自分を必要 としてくれていること、そして何より彼の愛の告白が、彼女の心を強く揺さぶった。
それから一年後――。

 とあるベンチャー企業のオフィスで、 蝶子は新しいキャリアを歩 んでいた。東陽トレーディングを辞め、英司の誘いに応じたのだ。会 社はまだ小規模だったが、英司の情熱と蝶子の冷静な判断力が融合 し、急速に成長していた。そして、その年の秋、 二人は結婚式を挙げた。
式場はシンプルながら温かみのある会場で、高原の父と母、蝶子の亡父の遺影を抱いた母と弟はもちろんのこと……七人の爺たちが揃って 参列していた。山田爺が「蝶子ちゃん、やっと幸せ掴んだな」と目を潤ませ、佐藤爺が 
「高原の坊ちゃんもやるじゃないか」
とグ ラスを掲げる。 英司はタキシードに身を包み、少し照れながら美しいドレス姿の蝶子の手を握った。
「お前とここまで来れて良かった」 
と囁くと、蝶子は笑 顔で
「私も」
と答えた。
 夜の世界で始まった蝶子の旅は、昼の世界での試練を経て、愛と信頼に満ちた未来へと繋がった。ベンチャー企業の社長とその右腕として、二人は新しい挑戦を続けていく。そして、その背中に は、七人の爺たちの祝福がいつも寄り添っていたのだった。

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