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六章 厄介ごと

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「ああ……、やっと終わった……」
 高校生活を崩壊のリスクから守り始めて三日が経った。
「あー、疲れたよ~」
 秘密を守り通すことはこんなにもつらいものなのか、つくづく私はそう感じていた。しかも相変わらず、無意識のうちにドキドキしたり顔が火照ったりするといった症状も続いていたためなおさらだった。おまけに大親友でクラスの中で唯一気が置ける存在である目の前の琴乃も、今の私にとっては鋭い洞察力を持った敵にしか見えなかった。今のところ琴乃は私の秘密に気づいていないみたいだったが、いつとどめを刺されるかわからない。
 もうバレるの承知で自然にふるまってしまおうか……、いやっ、そんなことしたら私の残りの高校生活どうなるのよ、ダメ、耐えるのよ! 耐えるのよ私!
 こんな感じで、弱音を吐く自分とそれを阻止する自分の闘いが繰り返えされる日々が続いていた。
「おーい、移動教室だぞー」
 琴乃の呼びかけで私は意識を取り戻した。
「はっ、あ……、琴姉……」
 琴乃はさっさと身支度を整えて席を立った。
「ほら、置いてくぞ」
「ああっ、待ってよー」
 私は慌てて近くに散らばっていた筆記用具を筆箱に押し込んで席を立った。
「地理教室だって」
「あ、うん……」
 琴乃の斜め後ろをとぼとぼと歩いていた私だったが、ふと感じた。
「そういえば……、最近……、全然ない」
 最近の琴乃は、私のドキドキの発作について全く話さなくなっていたのだった。「何か起きたら私に教えて……」などという一言もない……。もしかして……。バレてる?
 そう思うと私の頭は不安な気持ちで埋め尽くされたが、すぐに疑問も湧いてきた。
 バレてるのなら、何で、何も言ってこない?
 考えをめぐらすうちに私たちは教室に着いた。
 あっ、そういえば地理教室の席ってやつが近くじゃん……。やばい!
 これまでは教室や他の特別教室での授業だったから隠し通せていたものの、地理教室の席だけは秘密を隠し通せる自信が全くなかった。

「はい、これね。ここがグレート・バリア・リーフ! グレートと言うだけあって大きさも超グレート……」
 授業中も私の意識は先生の話ではなく斜め後ろからの視線の方にあった。
「あいつ……、今日もこっち見てる。もー、私までドキドキしちゃうじゃないのよ!」
 私は一人無言で格闘していた。隣の席の秦野は今日も私には目もくれず、地図帳とにらめっこしているようだった。
 ダメ、今はダメッ……! もし琴乃が前の席にいるのなら! 一発アウトだわ!
 自分自身でもそう確信するほど、私の鼓動は激しくなり、体が火照っているのを感じた。

「へぇぇぇ~、終わった~」
 なんだか体育の授業後よりも疲労感がすごい。地理の授業でこんなにも疲れてる人なんて他にはいないだろう。どっぷりと疲労感に襲われていた私は、授業終了後もしばらく机に突っ伏し席を立てないでいた。

「痛っ!」
 額に痛みが走った。
「起きろ。戻るぞ」
 顔を上げると目の前には琴乃がいた。いつも私を起こす時のように困ったような顔をしていた。「あっ、ごめんごめ~ん。あっ、あと百合絵、ちょっと話があるんだけど」照れ笑いしながら言い返した私だったが、琴乃その言葉で緊張が走った。
 やっぱり、バレちゃったか……。そう思いながら私は目を強く閉じ、うつむいて身構えた。
「百合絵、勉強の調子はどうだ?」
「はっ?」琴乃のいきなりの質問に私は自然と言葉が出てしまった。
 な~んだ……。って何よ! こんなタイミングで! 緊張して損したわ! あー、でもこれで一安心。
 そう思いながら胸をなでおろした私は、「あっ、勉強ね、まあまあよ~」軽い口調でそう返した。
「ふ~ん。まっ、試験の点数で私に勝ったら褒めてやるよ」そう言って琴乃はそっぽを向いてしまった。
 私はまた、琴乃の斜め後ろを歩いていた。
 勉強で勝てるわけなんかないのに……。いじわるな琴姉……。
 私には琴乃は歩きながら手帳に何か書いているように見えたけど、そんなことは今の私にとってはどうでもよかった。

 六時間目の終わりを知らせるチャイムが鳴った。今日も何とかやり遂げた私は、この日もまた表しようのない疲労感に襲われており、やっぱり机の上のカバンにもたれかかっていた。
「さて、さっさと帰ろう」
 今日は部活動も休み。さっさと逃げよう。そう思って立ち上がろうとする私の頭を誰かがポンポンとたたいてきた。
「百合絵、たまには一緒に帰るか」
 琴乃だった。琴乃はそう言って私の頭に手を置いている。
「えっ、部活は?」
「今日は臨時の休み。百合絵だって今日は部活休みだろー」
「う、うん、そうだけど……」
 久しぶりの琴乃との帰宅。本当はとてもうれしいはずなのに……、なぜか今日の私は少し動揺してしまっていた。

 夕方前、まだ明るい駅までの道を私と琴乃は並んで歩いていた。周りには私たちと同じ学校の制服姿の男子や女子のグループも点々に歩きながらそれぞれの話に花を咲かせていた。私たちも同じように勉強の話題や最近の部活の話題をネタにおしゃべりを楽しんでいた。
「ヘヘヘヘッ、百合絵そんなに勉強頑張ってるけど、どうせまた熱が冷めていつもみたいに居眠りしちゃうんだろー?」
「そ、そんなことないもん!」
「本当か~? まっ、今度の中間テストの答案で判断させてもらうことにするよー」
「えーっ、また答案交換とかするのー、いやだよー」

 そんな話をしながら、次第に私はかつてのように琴乃との帰り道を楽しむようになっていった。
 横浜駅で電車を降り、私たちはいつもの青色の電車へ乗り換えた。夕方前の時間ということもあり私たちは運よくドアよりの端の座席へ座ることができた。ドアが閉まり電車はゆっくりと走り出した。駅を出発してすぐの真っ直ぐな線路を、急行電車は勢いよく加速していった。
「さてと……」
 辺りを見回して琴乃はそう言った。私も琴乃も直前までたわいもない雑談をしていたため、突然だった。そのため私は相変わらず雑談のノリで話した。
「え~、何~」
「百合絵ってさー、舟渡のこと好きなんでしょ?」
「えっ?」
 突然の琴乃の言葉に理解不能に陥った私だったが、次第に頭の中が真っ白になっていった。
「えっ、ちょっと……、嘘…………、何言ってるの…………」
「何って? 好きなんじゃないの、舟渡のこと?」
「ち、違う……、そんな……、私は…………」
 慌てふためきながら必死に否定する私だったが、体が火照り鼓動が激しくなっていく一方だった。
 こんなこと琴乃にバレたら、私の高校生活おしまいだよ~!
 そう思ったけれど、もう私にはどうすることもできなかった。両手で顔を隠した私からは心の声が漏れてしまった。
「わぁ~~ん! 違うも~ん!」
 自分でももう何を言っているかわからなかった。込み上げる思いと燃え上がる感覚を感じるだけだった。
「百合絵、百合絵……」
 琴乃のささやき声が聞こえた。
「百合絵、百合絵ってば!」
 ささやき声とともに肩への感触も感じた。
「百合絵、どうした?」
 顔を隠しながらその声を聴いていた。
「百合絵、おい、どうしたんだよ?」
 少々イラついた声に変っていた。しかし相変わらず私の肩をポンポンとたたいている。
「おい、百合絵、しっかりしろよ~」そう言って琴乃は私の肩をゆすりはじめた。私自身も少々気を取り直し、泣き止もうとしていた。
「おいおい。百合絵さ~、恥ずかしがるのはわかるけど、泣くほどのことか~? つぅーかここ電車の中だし……」
 まだ半泣きの私に向かって、琴乃は冗談を言うかのように訊いてきた。
「だっ、だって……、私の……、グスン……。私の、高校生活がぁ~」
「はあ~?」
「だって、その……、高校生活がぁ~!」
「はあ~? だから、おまえの高校生活がなんなんだよー? 恋愛できた方がいい生活送れんじゃねーかよ」
 琴乃は私の気持ちなどまったくわかってくれてはいないようだった。
「だ……、だから……その……、琴姉が……」
「ああん? 私が? ……もしかしておまえ、私が言いふらしてクラス中の笑いものにされちゃうとか思ってんのか?」
「…………うん……」
「ぷっ! おまえ、バッカじゃねえ~の? 私がこれまでおまえの秘密勝手に言いふらしたことあるか~?」
「……だっ……、だって……、手帳とか……」
「あれは私が一人で楽しんでるだけ。百合絵の秘密なんて好き勝手に広めるわけないだろ~」
 これまでの苦労は徒労に終わった。琴乃は私の恋愛感情をからかったり広めたりするつもりは微塵もないみたいだった。
「えっ……、それじゃあ……」
「あっ、手帳にはバッチリ書かせてもらうけどなー」
 琴乃はにっこりとしながらうなずいて、そう言った。
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