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第四章【椛山の先端が見える】

渡辺真詞という人間②

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 二日後の朝、真詞は部屋の前で岬が出てくるのを待っていた。
 彼が半ば謹慎を言い渡されてから、何度も部屋の前に行っては引き返してきた。
 岬はどうやら律儀に部屋に籠っていたらしく、風呂とトイレ以外は出ようとしなかった。食事も部屋に運ばせる徹底ぶりだ。
 室内の彼の神力が、襖の前で止まった。
 視線を向けて出てくるのを待っているのに、いつまで待ってもそこから動く気配がない。
 真詞はしびれを切らして思い切り岬の部屋の襖を横に開いた。

 パァンッ!

 襖の縁が枠に当たって軽妙な音を立てた。それと同時に左右にある真詞の部屋と空き部屋の襖もリズミカルに開く。
 いくら何でもそこまでの勢いで開けてなんていないし、神力を使わない限り無理な現象だ。
 両手を開いた状態のまま固まる真詞と、予想外の状況に固まる岬の視線がかち合う。
 この家は真詞の心情を写し取る。岬に話しかけるに当たって、前のめりになっていること表しているのかもしれない。普段は気にならないけど、今は少し迷惑だ。

 そのとき、あれ? と思った。
 ほとんど変わらなかったはずの二人の目線に明らかな差が付いていたのだ。そう言えば細かった腕周りや胸板も妙に肉厚に感じる。

「伸びてないか……?」
「え? 何?」
「背、伸びてないか?」
「え? ああ、うん。休んでる間に伸びたんだろうね」
「え? 三日で?」
「俺、成長期に栄養不足だったから、今伸びてるんじゃない?」
「いや、でも三日……」
「努君の言う通りだったよ。オーバーワークはよくないね。休んでる間に体も神力もすごくいい感じになった気がする」
「気がするっていうか……」

 そこまで話して真詞は食い下がるのを諦めた。
 今までの常識が通じない場所にいるのだ。三日で身長が伸びたとしても仕方ない。そう言い聞かせた。

「それで渡辺君は、俺に何か話があるんじゃない?」
「ああ、まあ……」
「あんまり時間もないし、課題しながらでもいい?」
「分かった。まずは勉強部屋に行こう」
「うん」

 岬の返事と同時に、二人並んで廊下を歩く。
 いつもなら真っすぐ行って突き当りを右に一回、その後左へ二回曲がれば着くはずの勉強部屋は、いつまで経っても見えてこない。

「これは……」
「好きに話しなよってことだろうね」
「……そうか……」
「愛されてるねぇ」
「うるさい。立ち話でいいのか?」
「俺は構わないよ」
「じゃあ、言わせてもらう」
「……どうぞ」

 岬の視線が少しだけ伏せられて、諦めたような笑みが浮かべられる。
 真詞が口調を変えていることも、態度を変えていることもすでに気付いているのに何も言ってこないし、本当に言いたいことを言わせてもらえない環境だったのだろう。
 気の毒に思いはするけど、そんなの知ったこっちゃない。

「あんたがどんなに俺を取り込もうしたところで、俺はあんたらの言いなりになる気はない」
「うん」
「だから、俺のご機嫌を取ったりしなくていいし、オーバーワークは迷惑だ。止めろ」
「……そうだね。気を付ける」
「あと」
「うん」
「もう敬語は止める」
「え? う、うん」
「それだけだ」
「え!」
「なんだよ」
「それだけ?」
「それ以外に、何かあるか?」
「何か、って……」

 岬がもごもごと口を動かす。

「何か言って欲しいことでもあるのか? 巡のことなら、あんたが気にするのは勝手だけど、俺は――」
「渡辺君?」
 そこで真詞は一度言葉を切った。不思議そうな岬が真詞を呼ぶ。

 ああ――。
 真詞は目を見開いて、そして悔しいことに笑いが浮かぶのを止められなかった。
 もう、自分は何日彼のことを考えずに過ごしただろうか。
 その代わりに思い浮かんでいた顔は誰のものだっただろうか。

「いや……。俺と巡のことと、あんたと巡のことはまた違う問題だろ。俺に気を遣うのは違う」
「でも」
「気にするなら!」
「うん……! な、なに?」

 岬が一歩大きく踏み込む。予想外に近くて真詞はさっきとは違った形に目を見開く。
 のけ反りながら後ろへ二歩下がる。

「っ……気にするなら、生きてくれ」
「……生きて……?」
「ああ」
「それ、だけ……?」
「それだけだ」

 呆然とした顔が近くにある。
 巡を忘れることなんてない。当り前だ。真詞は間違いなく彼が好きだった。
 でも、多分もう受け入れ始めているのだ。巡がいない現実を。
 こんなに簡単なんて、本当に日柴喜の人間は酷い。これは果たして陰謀なのだろうか、それとも彼らなりの優しさなのだろうか。

「そろそろ行かないと課題する時間がなくなる」

 立ち尽くしたまま何も言わない岬に、仕方なく声をかけてやった。色々な物が交ざって声は随分ぶっきらぼうなものになった。

「おい、聞こえてるか?」
「うん……。うん、そうだね……」

 岬が顔を俯けて、続けて何かを呟く。何を言ったのかは察しが付いたけど、真詞の耳には届かなかったから気付かないフリをした。
 恐らくすぐに着くだろう勉強部屋へ向かって歩き出す。

「あー……岬? 行かないのか?」
「……ううん。行こうか。――真詞」

 笑った岬の顔と声は、巡とは随分違っているように感じた。
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