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第四章【椛山の先端が見える】

予定外の敵

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「黒橡(くろつるばみ)!」

 渚が叫ぶ。
 薄い墨色のワンピースを着て、口元をマスクで隠した女が現れた。渚の唯神だろう。
 女の背後から大量の紐のようなものが伸びてきて、真詞たち三人の体に巻き付け、上空に逃がす。
 地面は一層激しくうねっていた。今あそこにいたらあちらこちらに体をぶつけて怪我していただろう。

『きあぇぇぇぇぇぇぇぇ!』

 うねる地面から響いて、咄嗟に全員が耳を塞いだ。これは、音じゃない。以前、輝一郎が岬を元に戻すために読み上げていた時の物と同じ。聞こえる人にしか聞こえない何かだ。

『あぁぁぁぁぁぁ!』

 地面からは絶えず何かが響く。

「くそっ!」

 渚が悪態を付いた。

「渚、これって!」
「話しかけるな役立たず! 生まれたてだ! しかもかなり強い!」
「岬! どういうことだ! 説明しろ!」
「地中深くに大きな神が眠ってたんだ。さっきの攻撃で目を覚ました!」
「それって……」

 自分のせいじゃないのか? 明らかにオーバーキルだった。やりすぎてしまったのじゃないか? 真詞の心臓が不安にドクドクと波打つ。

「真詞。これは日柴喜家の責任だ。君はとにかく逃げることを考えて」
「岬……」
「おいっ!」

 状況を忘れたかのように話し出した二人を渚が一喝した。

「今から一撃入れる。黒橡のコレじゃあ完全に逃がすほどの距離は稼げない。地面に下り次第走れ!」
「渚はどうするの!」
「俺はギリギリまで引き付ける」
「それじゃ、お前が」
「じゃあ、あんたにできるのか! 日柴喜の恥さらしが!」
「それ、は……」
「グダグダ言ってる暇がないんだよ! そんなことも分からねぇのか! この愚図!」
「だったら!」

 そこまで言うと、岬は腰に巻き付いていた黒橡の紐を自分から解いた。

「岬?」
「俺が行った方がいい!」

 そう叫ぶと同時に岬が地面に向かって飛び降りる。
 地面には大きな亀裂が入って、その隙間から光る大きな何かが覗いている。

「岬!」
「花浅葱!」

 引き留める声に岬の声が重なる。同時に小さな亀が現れた。

「岬、どうするの?」
「まだ生まれたばかりだ。一撃入れて逃げる。頼める?」

 遠のいていく声が自分を守ろうとしているのが分かる。

「岬! ふざけるな! おい!」
「黙れ初心者!」
「なっ、渚……?」
「タイミングを間違えるな。あいつが攻撃したらできるだけ神力の弱い方へ逃げるんだ。いいな?」

 黒橡がゆっくりと後退していく。
 そのとき、カメラ百個分のフラッシュのような強烈な光が路地裏に満ちた。

「今だ!」

 叫んだ声は、岬と渚、二人同時だった。
 真詞は目が眩んだまま、降ろされた道を必死に走る。後ろに渚がいることが分かった。
 目は開かない。余りに強烈な光だった。

『ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁ!』

 後ろからは苦しそうに呻く巨大な神の声がする。足元が地震のときのように揺れて走りにくい。後ろの地面が津波のように追いかけてきているのが何故か分かった。それでも必死に前へ足を動かす。
 走っても走っても何故か通りが終わらない。大した距離じゃなかったはずなのに。そう思ったときだった。

 ブツンッ。

 何かが切断されるような音がして、その途端に誰かに名前を呼ばれた。

「渡辺様! 渚様!」
「っは、ぁ、え……?」
「ご無事ですか! お二人とも!」

 視界が開ける。そこはあの寂れた商店街だった。車を運転していた使用人の男が焦った顔でこちらを見ている。
 何が起こったのか分からず呆然とした。

「はぁ、はぁ、はぁ……。っ、大丈夫だ。兄が中にいる。早く応援を」
「すでに呼んでおります!」
「おい、今のは、何だ……?」

 真詞に続いて商店街に出て来た渚が淡々と指示を出す。胸騒ぎがして問いかけた。

「今の? なんのことだ」
「今の、壁みたいなやつだ! あれ、お前だろ……?」

 体に力が入る。奥歯を噛みしめた。この感情が何か分からない。でも、いいものじゃない。
 渚が息を整えながら嫌そうにこちらを見る。

「さすがは真詞様だな。神界(しんかい)を誰が作ったかも分かるのか」
「神界?」
「俺が説明する義理はない。それより……」

 後ろを振り返る渚につられて路地に視線を向ける。

「岬!」

 岬がボロボロになって全体が見えないほどに大きな神と対峙していた。
 腕を掴んで足を引きずっている。いつの間にあんな攻撃を受けたというのか。驚いて真詞は手を伸ばして岬をこちらへ引き寄せようとした。岬はほんの三メートルほども離れてなかったから。
 けどできなかった。手は壁のような物に遮られて指の先さえ路地に入ることができない。

 ドンッ!

 目の前にある壁を右手で叩く。

「これが、神界、か……」

 恐らく結界のような物だ。その証拠にあれだけうねっていた地面が、こちらの方は何ともない。ヒビの一つくらい入っていてもおかしくないというのに。
 巨大な神は顔がなかった。胴体に大きな目が付いている。さっき地中で光ったのはこの目だったのかもしれない。

「岬!」

 真詞が叫ぶ。岬には届いていないようだ。彼は必死に神からの攻撃を避けている。でも、器用に避けるにも限界があった。神が片方しかない巨大な腕を横に振った瞬間、岬の小さな唯神が吹っ飛んだ。

「花浅葱! おい! この中へ入れろ! 岬を引っ張ってくる!」
「無理だ」
「何で!」
「入るには神界を解除する必要がある。そんなことをしたらあいつが外に放逐される」
「一度解除してすぐ作り直すことはできないのか。岬はすぐそこにいる!」
「俺に説明させるな! 無理なもんは無理なんだ!」

 煩わしそうに言われて真詞は目を剥く。
 つまり、それじゃあ。

「岬が自力で出てくるのを待てってことか……?」
「あいつが自分で選んだんだ。すぐに応援がくる。運がよければ死にはしないだろ」

 渚が冷たく言い捨てて、笑った。

「お前……」

 まさか、まさかと気持ちが急き立てられる。

「……お前、わざとか? わざと岬に」
「だからどうした? 選んだのは、あいつだ」


 真詞は腹の底で火山が爆発したかのような錯覚を感じた。
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