黒い雪

えすかるご

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黒い雪

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 十二月二十四日。
タクシー運転手になって今年で三年目の隆史は、寒い新宿の夜を走っている。
「雪か…。」
そう呟いた数分後、道路の脇にタクシーを停め、仮眠をとり始めた。
「朝家を出てくる時に見た黒い雪の結晶…。あれは何だったのだろう…。」
隆史の家の周りに工場などはない。排気ガスによって雪が汚染されたとは考えづらい。しかしあの雪は確実に黒かった。空を見上げた時額に落ちてきたあの雪…単なる見間違いなのか? それとも…。

 次の週のある日の夜中一時頃、隆史は行きつけのバーに向かった。ここ数日間胸元が締め付けられる様な感覚が続いている。ドアを開けたがそこに店主はいなかった。
「マスター」
夜中という事もあり、弱々しくも聴こえる声でマスターを呼んだ。マスターの姿は視界に入って来ない。
「…。」
いつもならドアを開けたその瞬間、マスターの高らかな声が店内にこだまするのだが、今日はどこか様子がおかしい。マスターの電話番号を知っていた隆史は、仕方なくスマホを手に取った。
「もしもしマスター?取り込み中かい?」
「あぁ…ちょっとな まあ気にするな。」
「気にするなって、俺お店来ちゃったよ。」
「…。」
「マスター?」
「とにかく今顔合わせ出来ないんだ。お前に何か隠してるとかじゃない。カウンターの左奥にお前の為にとっておいたカクテルがある。タダでやるから許してくれ。」
「わ、分かった。じゃあマスター、またよろしく。」
 いくら信頼関係が厚いとは言え、置いてあるカクテルを勝手に…それにタダで…一体何が…。
 店内にいるのは隆史と数匹のクモだけだ。
「この店も建てて四十年になるって言ってたな…。マスター頑張ってるな。」
 店に入って一時間程経ち、カクテルの最後の一口を飲み干そうとした時、背後に何か気配を感じた。
「…!?」
顔を引きつらせながら振り返ったが、何の姿もない。
「…何だ?」
隆史は視線をそのまま床にやった。
「濡れてる…?」
昼間雨など降っていなかった。心の奥に潜んでいた恐怖が一気に込み上げてきた。
「…。…!?」
カウンターの奥に視線を戻すと、紫色の着物を着た女性が立っていた。年齢は…分からない。ただ分かる事は一つ、脆弱な皮膚をしており、今にも剥がれてしまいそうだ。そして折れそうな左手を隆史に差し出し、白いタオルを渡した。
「タオルを…あなたは…?」
「…これを受け取れば…全て思い通りになるの…」
「思い通り…?あ…あなたは…?」
「四年前に起きた事件の事を知っているなら…」
「事件…?」
「本当は心にしまっておきたかったわ…でもどうしても叶えたいの…」
 隆史は意味が分からなかった。この女は誰?なぜ白いタオル?どうやって店内に入った?
 最後のセリフを残し、隆史が気を取り戻した時には女の姿はなかった。

 隆史はタクシー運転手になる前、引越し業者をしていた。その時にお世話になっていた先輩である加藤と食事をする事になった。他愛もない話で盛り上がった後、先日の夜の事を思い出した。
「加藤さん」
「どうした?」
「加藤さんに聞いても何も分からないかもしれませんが、加藤さんと働いていた時、僕何かしましたっけ?」
「何か?いや、何もしてないと思うけどな。隆史は優秀だったし仕事のミスもなかった。どの先輩もお前のこと一目置いてたよ。
「…。
「ただ…。」
「…ただ?ただ何ですか?」
「お前が入社してから二年目くらいの時、どこか様子のおかしかった民家の引っ越しを担当したの、覚えてるか?」
「様子のおかしかった民家…?」
「うん。家主だと思うが、若い女の人だ。全く仕事を手伝わなかっただろ。もちろん荷物運びは業者が率先してやる事だ。けど、それにしてもおかしかった。部屋の真ん中で棒立ちになったまま俺たちが家を出るまでほとんど動かなかっただろ。あまりにも気味が悪かったんだ。」
 隆史は微かな記憶が蘇ってきた。あの時の女性…確か紫色を身に纏って…。
「加藤さん、僕思い出しました。でもその人はそれっきり見かける事なかったですし、それがどうしたんですか?」
「…実はな あの引っ越しが終わった後、事務所の方にすぐ電話がかかってきたんだ。その電話は部長が受け取った。…でも何も声が聞こえてこなかったみたいでな。」
「…それからどうなったんですか?」
「部長は電話を切らずに大分粘ったらしいんだ。そしたらようやく潰れそうな声で『タカ…シ…』って…。」
「…!?その人、僕に何か不満があったんでしょうか?」
「いや、そうじゃないんだ。よくよく聞くと、どうやらお前が大変そうに仕事をしている所を見て手助けをしたかったそうなんだ。だけどお前は仕事に夢中で、女性の方など見向きもしない。彼女も彼女で、極度の人見知りだったそうで、なかなか声が掛けられなかったんだろうな。」
「…。」
「それにどうやら、お前の顔が数年前に亡くなった弟にそっくりだったみたいで…五十嵐と言う名の男に殺されたらしい…。その弟さんも力仕事をしてたみたいでな。助けてあげたくなったんだよ。」
「五十嵐…。そうだったんですね…。」
「そうなんだ。だけど左手に握ってた汗拭きタオルを渡すタイミングも分からず、結局渡せず終いになったらしい。」
「タオル…。」
「彼女は数日経ってもタオルを渡せなかった事を後悔し、やがてある日の夜中一時、そのタオルで首を吊って死んだ。」
「…え?」
「まさか…俺もそこまでする必要ないと思ったよ。」
「…。」
「でもあの日、雪が降る程寒い日なのに着物を着てたし…それも雪の結晶柄…元々変わった人だったんだろうな。俺たちが何度も行き来したせいで庭に積もってた綺麗な雪を真っ黒にしてしまって…恐らく大好きな雪を…申し訳なかったな。」
「…。」

 隆史は夜家に帰り、家の隅に置いてあるタオルに目をやる。
「あの時のタオル…でもどうやって…。」
 隆史は気を失いそうになった。うっすら目が閉じかけたその時、ベランダの外に人影を見た。
「人…?」
 この前行ったバーで突如現れた、あの女性らしき人影だった。
「こんな寒い日に…その着物…。」
「………。あなたの事しばらく忘れる事はなかった。気持ちに気付いてくれなくて…あの日の事…後悔させてあげるね…」
「後悔…?」

 隆史は気を失った。目を覚ましたのは大分後の事だったように感じた。見渡すと、部屋の中には敷いてある絨毯とポケットの中のスマホ以外何もない。
 訳も分からずおもむろにスマホを取り出すと、バーのマスターから昨夜着信があったようだ。隆史はすぐにかけ直した。
「…もしもし…マスター?」
「ああ、こないだは悪かった。実は店に向かう途中事故に遭ってな。雪が凄かったからな。特に交通違反もせずに走っていたんだが、俺とその向かいから走ってきた運転手の車のハンドルがどっちも効かなくなってな…。正面衝突って感じだ…。俺は幸い怪我はなかったから店に向かう事を考えたんだが…うーん…何だかやめた方が良い気がしてな。病院に行った方が良いとも言われてたから、その時は大人しくそうする事にしたよ。」
「…そうだったんだ。でも命に別状がなくて良かった。」
「おう、心配かけてごめんな。今日飯でも行くか?」
「…うん。今から駅に向かうね。」
そう言い残し、電話を切った。

 家を出ると、雪が降り積もっていた。隆史はベランダに積もった雪だけ少し黒く見えたが、すぐに気のせいだと思った。隅に落ちているタオルに気付く事はなかった。
「雪…。早く暖かくならないかな…。」

そんな事を考えながら五十嵐マスターの待つ駅へ脚を運び始めた。
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