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毒ガス男と寝ぼけ女
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嫌なにおいで目が覚めた。嗅ぎ慣れた、嫌なにおい。まだ半分まどろみの中にある頭で考える。そうだった、昨日からこいつが泊まりに来てるんだった。タバコの紫煙越しに見えるぼやけた顔。壁にかけられた時計は昼の十二時を少し回ったところだった。私はベッドから上体を起こして、嫌なにおいの発信源に向かって言う。
「なんで起こしてくれなかったの」
「何回も起こしたのに起きなかったのはお前だろ、ネボケ。だから最終手段に出た」
口から煙を吐きながらそう言って、指に挟んだタバコを掲げてみせる。
「ベランダで吸ってって言ったじゃん」
「やだよ、外暑ぃから」
「あんたが今口にくわえてるタバコの種火の方がよっぽど熱いでしょ、ドク野郎」
「漢字がちげーだろ漢字が。せっかく起こしてやった恩人をまた外に追い出すのかよ」
そう言いつつも窓を開け、ベランダへ出て行く猫背気味の背中を見届けてから、再びベッドに倒れこむ。
私はタバコと朝が苦手だ。それと対照に、あいつは喫煙者で、寝覚めも良い。だからお互いを「ネボケ」「ドク」と呼び合うことで戒めているが、一向に改善される事はない。たぶん、そう呼ぶ事、呼ばれる事に嬉しさを感じているからだろう、あいつはどう思っているか知らないが、少なくとも私はそうだ。自分が嫌になる。
肺を汚し終え、ベランダから帰ってきたドクに、再度文句を言う。
「私の部屋まで毒ガス室にしないでよね」
毒ガス室というのは、ドクの住んでいる部屋のことだ。ワンルームの、おせじにも綺麗とは言えない外観のアパート。私が泊まりに来ている時も「この部屋では俺がルールだ」と言わんばかりに窓も開けず喫煙しているので、部屋の壁はヤニで黄色く染まっている。
「白い壁に飽きたらいつでも色塗り替えてやるよ、黄色くしかできないけど」
「バカじゃん、そんなペースで吸ってたらそのうち肺ガンになって死ぬよ」
「別にいーよ、長生きしても面白くないし」
この後に続く言葉を私は知っている。
「でも俺が死んだらネボケを起こす奴がいなくなるから困るよな」
何度も聴いたお決まりのセリフだったけど、それを聴く度に私は安心するのだった。
数週間後の朝、半分眠りながら電話に出た私は、ドクが死んだことを知らされた。ドクを少し落ち着かせたような声の主は、ドクの父親のものだった。交通事故で即死。息子と仲良くしてくれてありがとう。そんな言葉を黙って聴いた。その日は大学を休んで、ずっとベッドの中から動かなかった。何時間経っても頭の中を白いモヤが覆い、目は覚めているのに、寝起きのまどろみがずっと続いているような、そんな気分だった。
その後私はなんとなくドクの葬式に参列した。ドクを焼いた煙が、大きなタバコを思わせる煙突から空へと上っていくのを見た。毒ガス室に残っていた遺品は、ドクの家族に全て片付けられ、壁も真っ白く張り替えられていた。晴れて無菌室へと変貌を遂げた毒ガス室を見て、ようやく涙が出た。
頭の中のモヤは晴れないまま、ドクの言った通り、私は以前にも増して朝に弱くなった。目覚ましのアラームも、親に頼んだモーニングコールもまったく効かず、気づけば大学の授業を全休して一週間が過ぎていた。翌週の火曜日、重い足取りで大学へ向かった私を待っていたのは、私とドクが付き合っていたことを知る友人達だった。
「大丈夫? 私たちが力になるから」
「ゆっくりで良いから、元気になってね」
「無理しなくて良いよ」
それらが善意からの言葉だということは分かっていたけど、放っておいてほしかった。
「ドクくんのことは残念だけど…自分の人生も大切にしないとだよ」
「うるさいな! あんた達に何がわかるのよ! ドクの事を勝手にドクって呼ぶな!」
友人の言葉に、私はとうとう怒鳴ってしまった。絶句する友人達を尻目に、私は講義室を飛び出した。普段友人達がドクをそう呼ぶ事なんて気にしていなかったのに、今はそれが無性に腹立たしかった。
入り口の門を出てすぐに、友人に怒鳴ってしまった事と、また授業を休んでしまった事への後悔が押し寄せてきた。これからどうしようかなあ、このままドクの後を追って自殺して、完璧な悲劇のヒロインになってやろうかな。そんなことを考えながら下を向いてキャンパス沿いを歩いていると、突然足下に何かが擦り寄ってきて、私は飛び上がって驚いた。その正体は汚れた子猫だった。恐る恐る抱き上げて傍らを見ると、小さな段ボール箱と「オスです可愛がってください」の文字。オーソドックスな捨て猫と、恋人に先立たれたオーソドックスな悲劇のヒロイン。どちらもフィクションの中でだけど。そんな自嘲をしながら、子猫を連れて帰って、身体を綺麗に拭いてやり、猫用のミルクや缶詰を買いに近所のスーパーへ走り、ネットで飼いかたを調べるうちに爪とぎ足場付きのケージまで注文していた。私は何をしているんだろう。こんな子猫一匹で、ドクのいない世界を埋め合わせられるのか? そんな私の考えは、杞憂に終わった。
翌朝から私は毎朝、子猫の鳴き声で目覚めた。なぜだか起きなければいけない時間のきっかり一時間前に、ニャオンというのほほんとした鳴き声が耳に届いて、気持ちよくベッドから脱出する事が出来るようになった。朝ごはんの缶詰を食べた後、子猫はきまって、ベランダに出たがった。五分ほどベランダの隅で物憂げに空を見つめて、そそくさと部屋に戻ってくるのだった。
輪廻転生した生き物は、無意識のうちに前世で取っていた行動と同じ行動を取ることがあるという。
なんとなく気づいていたのだ。私とドクが知り合った場所で捨てられていた事も、背中のホクロと同じ場所に黒いブチがある事も、ベランダの隅っこがお決まりの喫煙席だった事も、ネボケの私を甲斐甲斐しく起こしてくれる事も全部。
頭の中を覆っていた白いモヤはすっかり晴れていた。私は友人たちに謝り、大学に復帰した。今日も朝食後のベランダから戻ってきた子猫を抱き上げ、その背中に顔を埋めてみた。ほんのりと煙のにおいがした。嗅ぎ慣れた、懐かしいにおい。
「なんで起こしてくれなかったの」
「何回も起こしたのに起きなかったのはお前だろ、ネボケ。だから最終手段に出た」
口から煙を吐きながらそう言って、指に挟んだタバコを掲げてみせる。
「ベランダで吸ってって言ったじゃん」
「やだよ、外暑ぃから」
「あんたが今口にくわえてるタバコの種火の方がよっぽど熱いでしょ、ドク野郎」
「漢字がちげーだろ漢字が。せっかく起こしてやった恩人をまた外に追い出すのかよ」
そう言いつつも窓を開け、ベランダへ出て行く猫背気味の背中を見届けてから、再びベッドに倒れこむ。
私はタバコと朝が苦手だ。それと対照に、あいつは喫煙者で、寝覚めも良い。だからお互いを「ネボケ」「ドク」と呼び合うことで戒めているが、一向に改善される事はない。たぶん、そう呼ぶ事、呼ばれる事に嬉しさを感じているからだろう、あいつはどう思っているか知らないが、少なくとも私はそうだ。自分が嫌になる。
肺を汚し終え、ベランダから帰ってきたドクに、再度文句を言う。
「私の部屋まで毒ガス室にしないでよね」
毒ガス室というのは、ドクの住んでいる部屋のことだ。ワンルームの、おせじにも綺麗とは言えない外観のアパート。私が泊まりに来ている時も「この部屋では俺がルールだ」と言わんばかりに窓も開けず喫煙しているので、部屋の壁はヤニで黄色く染まっている。
「白い壁に飽きたらいつでも色塗り替えてやるよ、黄色くしかできないけど」
「バカじゃん、そんなペースで吸ってたらそのうち肺ガンになって死ぬよ」
「別にいーよ、長生きしても面白くないし」
この後に続く言葉を私は知っている。
「でも俺が死んだらネボケを起こす奴がいなくなるから困るよな」
何度も聴いたお決まりのセリフだったけど、それを聴く度に私は安心するのだった。
数週間後の朝、半分眠りながら電話に出た私は、ドクが死んだことを知らされた。ドクを少し落ち着かせたような声の主は、ドクの父親のものだった。交通事故で即死。息子と仲良くしてくれてありがとう。そんな言葉を黙って聴いた。その日は大学を休んで、ずっとベッドの中から動かなかった。何時間経っても頭の中を白いモヤが覆い、目は覚めているのに、寝起きのまどろみがずっと続いているような、そんな気分だった。
その後私はなんとなくドクの葬式に参列した。ドクを焼いた煙が、大きなタバコを思わせる煙突から空へと上っていくのを見た。毒ガス室に残っていた遺品は、ドクの家族に全て片付けられ、壁も真っ白く張り替えられていた。晴れて無菌室へと変貌を遂げた毒ガス室を見て、ようやく涙が出た。
頭の中のモヤは晴れないまま、ドクの言った通り、私は以前にも増して朝に弱くなった。目覚ましのアラームも、親に頼んだモーニングコールもまったく効かず、気づけば大学の授業を全休して一週間が過ぎていた。翌週の火曜日、重い足取りで大学へ向かった私を待っていたのは、私とドクが付き合っていたことを知る友人達だった。
「大丈夫? 私たちが力になるから」
「ゆっくりで良いから、元気になってね」
「無理しなくて良いよ」
それらが善意からの言葉だということは分かっていたけど、放っておいてほしかった。
「ドクくんのことは残念だけど…自分の人生も大切にしないとだよ」
「うるさいな! あんた達に何がわかるのよ! ドクの事を勝手にドクって呼ぶな!」
友人の言葉に、私はとうとう怒鳴ってしまった。絶句する友人達を尻目に、私は講義室を飛び出した。普段友人達がドクをそう呼ぶ事なんて気にしていなかったのに、今はそれが無性に腹立たしかった。
入り口の門を出てすぐに、友人に怒鳴ってしまった事と、また授業を休んでしまった事への後悔が押し寄せてきた。これからどうしようかなあ、このままドクの後を追って自殺して、完璧な悲劇のヒロインになってやろうかな。そんなことを考えながら下を向いてキャンパス沿いを歩いていると、突然足下に何かが擦り寄ってきて、私は飛び上がって驚いた。その正体は汚れた子猫だった。恐る恐る抱き上げて傍らを見ると、小さな段ボール箱と「オスです可愛がってください」の文字。オーソドックスな捨て猫と、恋人に先立たれたオーソドックスな悲劇のヒロイン。どちらもフィクションの中でだけど。そんな自嘲をしながら、子猫を連れて帰って、身体を綺麗に拭いてやり、猫用のミルクや缶詰を買いに近所のスーパーへ走り、ネットで飼いかたを調べるうちに爪とぎ足場付きのケージまで注文していた。私は何をしているんだろう。こんな子猫一匹で、ドクのいない世界を埋め合わせられるのか? そんな私の考えは、杞憂に終わった。
翌朝から私は毎朝、子猫の鳴き声で目覚めた。なぜだか起きなければいけない時間のきっかり一時間前に、ニャオンというのほほんとした鳴き声が耳に届いて、気持ちよくベッドから脱出する事が出来るようになった。朝ごはんの缶詰を食べた後、子猫はきまって、ベランダに出たがった。五分ほどベランダの隅で物憂げに空を見つめて、そそくさと部屋に戻ってくるのだった。
輪廻転生した生き物は、無意識のうちに前世で取っていた行動と同じ行動を取ることがあるという。
なんとなく気づいていたのだ。私とドクが知り合った場所で捨てられていた事も、背中のホクロと同じ場所に黒いブチがある事も、ベランダの隅っこがお決まりの喫煙席だった事も、ネボケの私を甲斐甲斐しく起こしてくれる事も全部。
頭の中を覆っていた白いモヤはすっかり晴れていた。私は友人たちに謝り、大学に復帰した。今日も朝食後のベランダから戻ってきた子猫を抱き上げ、その背中に顔を埋めてみた。ほんのりと煙のにおいがした。嗅ぎ慣れた、懐かしいにおい。
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