純白のレゾン

雨水林檎

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ひとこいしい

01

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「向島ァ、聞いたぞ昨日女と歩いてたって?」
「は? 急に何の話です、青海先生」
「見かけたやつがいるんだよ、駅前をさぁ茶髪ショートの女と大荷物抱えてお前が」
「大荷物、ああ……ゴミ箱ですね。大きいのが欲しかったんですけどお店で購入してから、荷物の宅配は無理って言われてしまって手荷物として抱えて家まで帰ったんですよ」
「ゴミ箱?」
「今までのものは小さくって。けれど狭い家なんで、何かと二人じゃ生活しにくいんですよね。だからと言って引っ越すお金も物件もないし……」
「ど、同棲……? お前いつから付き合ってたんだよ、俺知らなかったぞ!」

 休日の向島砂和を見かけた同僚がいたのだ。向島、二十五歳にして初めての浮いた話だった。よって職員室内では密かにあいつの動向に視線が集まっていて、噂を聞いた俺はたまらずその件について問い詰めようとした、しかし……。

「何か勘違いされてますね、青海先生」
「え? 茶髪ショートの美人だって……」
「それは否定する要素がないのですが、無垢ですよ?」
「無垢?」
「故郷の弟です。いや、弟のようなものかな……血は繋がってませんが」

 そう言って向島は携帯電話のディスプレイを差し出した。昔酔っ払った日に見せてもらったのを思い出した、あの人形のような少年。

「あ、ああ……」
「落ち着いたら遊びに来てください、紹介します」
「おう……」

 なんだよ、女じゃねえのか。そういえば先日両親が亡くなったって、だから件の『無垢』を呼び寄せてこちらで一緒に暮らすのか……ついにあいつに浮いた話が、なんて驚きもしたが何の事は無い、向島砂和は向島砂和だった。

 ***

「少しは生活感も出てきたか? あの本が山ほど積んである部屋」
「本は泣く泣く処分しました、無垢の部屋を作るのに仕方がなくて……」
「無垢っていまも可愛いのか?」
「可愛いですよ、素直な良い子です」

 無垢の引越しからしばらく経って、週末、向島から自宅に来ないかと誘いを受けた。以前遊びに行ったことはあったが綺麗にはしてあるものの、少ない家具にやたらと本が積み上げられている雑然とした部屋だった。

 向島は部屋のインターフォンを押す。しばらくののち、無言で玄関のドアが開いた。そして中から出てきたのは……。

「……だれ、そいつ」
「ただいま、青海先生だよ。ほら私の働いている学校で」
「知らねえし」

 そう言って無垢は再びドアを閉めて、次に開けた時にはもう玄関にはいなかった。

「し、知らねえし? なに、あいつが無垢……?」
「ちょっと照れてるのかな、すみません愛想がなくって」
「いや、なんかすげえ写真のイメージと違うけど……」
「そうですか?」

 見た目だけでは天使だった。それが……なんだあいつ。あのクソガキ。

「どうぞ、青海先生」
「あ、ああ……」

 部屋にあがればそこは以前よりも生活感が出ていた。冷蔵庫のメモとか二人分お揃いのマグカップ。以前はもっとがらんとしていたのに、おそらく実家ではもともとこういう生活だったのだろう。かつての向島家の様子が見えてくる。

 持ってきた酒を向島に渡して、案内されたリビングに座っていれば無垢がやって来た。しかしやはり挨拶もせずに黙ってテレビのスイッチを入れる。横目で無垢を見ている俺を感じながら完全に無視しやがって、ケーブルテレビのアニメーション番組を観だした。アニメに出ているロボットの起動音と、無言の部屋。この俺が誰かを気まずいと思うなんて相当なことだぞ……。

「無垢、制服の上着脱ぎっぱなしにしないで掛けておいで」
「……」

 向島の言葉に無言で床に放り出された上着を持ち部屋に入って行く、そこは以前向島が書庫にしていた部屋だった。あの大量の本をどうやって整理したのだろうか。

「なあ向島、俺は無垢に嫌われているのか……?」
「いえ、実家にいた頃はにこにこして懐っこい子だったんですが」
「それ何年前の話だよ、子供はかわるぞ数年たてば」

 次に上着を置いた無垢が戻って来たのは、向島が食事が出来たと呼んだ時だ。どう見ても嫌々やって来た無垢は黙って椅子に腰掛け食事をはじめる。しばらくは沈黙のまま皆食事をしていたが、インターフォンが鳴り向島が応対しに行くと俺は無垢と二人きりになって、仕方なく迷ったものの俺は無垢とコミュニケーションを取ろうと試みる。

「お前……不良か」
「……」
「何が気に入らないのか知らねえけど、もう少し愛想ってものをだな」
「……うるさい」
「あっいまうるさいって言ったかお前、この、歳いくつだよ? 中三だったっけ」
「知らない」
「知らなくはねえだろ、生意気な盛りだなぁ。そんな態度だと将来大人になったら恥ずかしいぞ、考え直せ」
「……」

 無垢はあからさまな嫌悪感を出して俺を牽制する。職業柄よくこんな生徒を見るが、一応向島の家族だし初対面の日にあまり叱りつけるのも……しかし可愛い顔して可愛くないやつ!

「ああ、無垢もう食事終わり? おかわりあるよ」

 向島が戻ってきた。トイレットペーパーと洗剤を持って。どうやら新聞の契約をしたらしい。

「おかわりいらない、もう俺そいつが帰るまで部屋から出ないから」
「無垢?」

 俺を睨みつけて無垢は去って行った。向島は戸惑った顔をして、無垢は乱暴に音を立てて部屋のドアを閉める。

「なんだあいつ、生意気だな! 腹たつー!」
「私は数年に渡って無視されてましたから、これでもましな方ですよ」
「向島、もう根本から教育し直せ!」
「育てたのはほぼ私なんですけどね」
「あーもうだめだいますぐ酒開けろ、向島。今夜は飲むぞ!」
「いま氷持って来ますね」

 ***

 向島の作ったつまみの唐揚げにレモンを搾って、俺はブランデーをグラスに注ぐ。氷を鳴らしながら速いペースで飲んでいると、気分が高揚して目の前の向島をからかいたくなって来た。いつも変えないその表情の裏でこいつは何を考えているのか。

「向島ァ、お前俺のことどう思ってる?」
「どう、ですか……尊敬する先輩方の一人ですよ」
「そういうんじゃねーの! 好き? 嫌い? 正直なところを言えよ」
「青海先生、もう酔いましたか。唐揚げのおかわりいります?」
「いる」

 ワイシャツの背中から骨格が透けた向島を見送って、そう言えばこうやって俺が酒を飲んで騒ぐからと、別れた嫁と散々喧嘩になったことを思い出す。酒の一杯や二杯飲んでもいいだろう、日常のストレスくらい解消させろよと。
 ああ、嫁の背中と向島が重なる。あいつの下を向いた白いうなじが目について仕方がない。俺はどうしようもない感情に思わず立ち上がり、その背中を抱きしめた。

「むこうじ……いや、砂和」
「なんですか、青海先生。そう背中に張り付かれますと唐揚げが火事になりますよ」
「お前いい匂いするよな……」
「特に何もつけてませんけどね」
「なあこっち向けよ、砂和」
「無理ですよ、唐揚げ揚げてるのに」

 軽くあしらわれているのはわかっていたが、どこか懐かしい気分になってその背中を再び抱きしめた。砂和は何も言わずに唐揚げの火を止めて、キッチンペーパーを敷いた皿に鍋から揚がった唐揚げを移して行く。

「……青海先生、泣いてますか」
「だって、……お前が悪いんだよ。そんな背中見せるから」
「服を脱いだわけじゃないのにそんなことを言われても……よしよし、良い子ですね」
「お前、今日のこと誰にも言うなよ、お前は十も年上の男を泣かせたんだからな」
「勝手に泣いたのは青海先生ですけどね」
「うるせえ、砂和!」

 なんで俺は男の背中で号泣しているのだろう。呼び慣れない名前を呼んでその背中にしがみついて。けれど砂和はその背中を振り払わなかった。それは優しさか戸惑いか……ひとこいしかった俺のことを黙って受け入れてくれて。

 ***

 どろどろとした感情を吐き出した夜を終えて、気がついたらソファに横になっていた。朝を迎えた見慣れない天井、そうだ昨日酔っ払って俺は。
 慌てて起き上がると足元ではソファに寄りかかった向島砂和が眠っている。そのシワになったワイシャツの背中、酔っ払った俺がしつこく抱き付いていたから。

「俺、何やったんだ……?」

 無性に寂しかったのは覚えている。ただ、男の背中にあんなに抱きつかなくても……。
 思い出すと恥ずかしくてたまらない。いつの間にか俺にかけられた毛布を眠っている砂和にかけた。その時視線を感じて振り返れば、早朝にもかかわらず部屋のドアの隙間から無垢がこっちを睨みつけている。

「な、なんだよお前、見てんじゃねーよ!」
「……ダッサ」
「ああ? お、お前なんだやんのか、コラ!」
「欲情してやんの」
「は、してねえ、するかよ!」
「嘘つけ、泣きオヤジ」

 思わず拳を振り上げると無垢は笑ってドアを閉めた。その音で、砂和が目を覚ます。

「……ああ、青海先生。おはようございます」
「お、おお……」
「すっきりしましたか? 先生も色々とお疲れのようで」
「えっ」
「私でよければ、いつでも背中をお貸ししますので……」
「あ、ああ……もういい、もういい忘れろその話は!」
「大丈夫、そんな夜は誰にだって訪れるものです。でも、奥様だって……」
「だからもういい! その話をするな砂和……!」

 もう恥しか残らない、なんて夜を俺は過ごしてしまったのか。酒に飲まれてこんな醜態を、しかも目撃者は生意気な無垢。あいつ、このままじゃいつか絶対誰かに言いふらすぞ。

「お、おい砂和、無垢のやつうちの高校に来ないだろうな?」
「ああ、第一志望らしいですよ。成績的には全然余裕なんですよね」
「まじかよ……」

 俺の弱みを握って笑う腹の立つ無垢、その背中で俺を泣かせた砂和。
 向島の二人のせいで俺の人生がいま、社会的な危機を迎えようとしていた。
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